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 近所の人からどう思われているんだろう、と春崎は苦笑いした。
 ヒロの幽霊が話をしたり動いたりできるようになってからほとんど毎日、春崎は夜になると大量の花を買いに出かけ、花の怪物のような姿になってマンションに戻ってくる。もう、十日もそんなことを続けている。
 今日も、両手いっぱいの向日葵を抱えて家に帰ってきたばかりだ。
 マンションの入り口で出会でくわした中年の夫婦からは、なにか微笑ましい出し物でも見るような目で見られたし、向日葵を買った花屋の店員からは、「あの……毎日たくさん買ってくれますけど、なにか、ご商売でもされてるんですか?」と聞かれたのだ。その口調は、興味があるというよりもどこか不安げで、自分がもし花を売ることで違法なことにでも関わっていたらどうしよう、そうではないと証明してくれ、と願っているかのような表情だった。春崎は、確かに怪しいですよね、気持ちはわかります、と思いながらも、「いやあ、なんも、してないっすねー。あははあ」とごまかすしかなかった。店員の表情は晴れなかったが、家に幽霊がいて、その栄養というか、エネルギーはどうも花から補給されているらしい、なんてことを伝えるのに比べたら、どんな言い訳もましに思えた。
 いつも両手で抱えきれないほど買っているのだ。それが毎日続くとなると、花にかかる出費は馬鹿にならない。こんなに金をかけなくても植物ならなんでもいいんじゃないかと、安価な観葉植物を買ったり、なんならこれも植物だしなとスーパーでレタスやキャベツをまとめ買いしたこともあったが、ヒロの反応は芳しくなかった。
「うーーん? 元気が出るような感じはしないなあ」
 家のリビングで、大量のレタスに囲まれたヒロは他人事のようにそう言った。
 正確には、反応が芳しくなかったのはヒロというより、彼を囲む植物の方だ。レタスもキャベツも観葉植物も、花のように枯れたりはしなかった。なんの反応もないのだから、ヒロの役には立っていないのだろうと考えてみるしかなかった。
 ヒロの近くに置くと花が枯れるのだから、やっぱり花が咲いていることが大事なのだろうと、どうにもオカルトじみてはいるが、そう考えるしかなかった。実際、花を与え続けることでヒロは目を覚ましたのだ。春崎とさやかは、なんでもいいから理由が欲しかった。どんなに荒唐無稽でも、因果関係だとみなせるものがあれば、幽霊としてヒロが存在しているということに説得力が生まれるような気がする。そんなわけで春崎は、毎日たくさんの花を買っている。
 そして今日もヒロは、たくさんの花を枯らした。
 買ってきたばかりの数十本の小ぶりな向日葵は、ヒロに近づくと時間の流れが大幅に狂ったかのように、みるみるうちに色褪せ、頭を垂れながら縮こまり、ついには命の核を失ってしまった。
 春崎とさやかとヒロは、なにか儀式にでも立ち会うかのようにその様子をじっと眺めた。向日葵が床にへたりこみ、数秒の沈黙のあと、さやかが口を開いた。
「いつ見ても、すごいね。壮観っていうか」
 それから、枯れ尽くしてリビングの床でドライフラワーとなった向日葵たちの写真を角度を変えながら何枚か撮ると、小さなほうきを持ってきて春崎に渡し、さやかはちりとりを構えた。
 春崎は慣れた様子で枯れた花たちをほうきでちりとりに集めていった。ほうきに触れるだけで、パリャ、パリャ、とあっけなく砕けていく。
 家の中にはすでに、大量のドライフラワーを飾っている。その中には向日葵もあって、これ以上飾る余地はないのだった。
 半透明の袋を両手で持って開くと、さやかがちりとりを傾け、砕けた花々をその中に入れていった。春崎は軽い音を立ててゴミ袋に沈んでいく花の残骸を見つめながら、人間のエゴだよなあ、と思う。花の命を利用しているのだ。けれどそんな思いも、ヒロの幽霊という超自然的な存在と並べてしまうと、すぐによくわからなくなった。幽霊と暮らしているという事実に、今さらながらくらくらする。この状況に慣れてしまうと、常識なんてなくなっていってしまうんじゃないか、と。
 春崎はゴミ袋の口を結ぶと、「持っていってくる」と言って家を出て、マンションの一階に向かった。郵便受けがずらりと並んだスペースの奥に鍵のついた扉があり、そこを開けて駐輪場に出た。駐輪場の脇には、小さな倉庫のような、二四時間利用可能なゴミ置き場がある。
 ゴミ置き場には、燃えるゴミ用の灰色のダストボックスが壁に沿って等間隔に並んでいた。その中には入居者たちの生活ゴミが詰められている。ダストボックスの蓋を開け、むわりと漂ってくる悪臭に息を止めながら、潤いの失われた向日葵ばかりがぼわぼわと透けた袋をダストボックスに押し込んだ。
 春崎は蓋を開けたまま十秒ほど、マンションの入居者たちのゴミを袋越しにじっと眺めた。様々な包装や、コンビニのチルド弁当の容器。なにが書いてあるかまではわからないが、なにかのリストを記したらしいメモパッド。雑多な生活が透けて見えるような気がした。ひとりひとり生活してるんだよな、と思うと、妙に胸にくるものがあった。
 大量の花を買ってくるのも捨てるのも、なんとなく、自分の役割のような気がしていた。ヒロが目を覚ましたあの夜に、花を抱えて夜道を駆け抜けたせいだろうか。
 家に戻ると、「ええー!」というヒロの驚く声が聞こえた。さやかがヒロになにかを聞かせたらしかった。
「なに? なんかあった?」
 手を洗いながら尋ねると、ヒロがどこかこちらを気遣うような口調でこう言った。
「春崎とさやか、離婚してたんだね」
 春崎の手が止まった。水があっけらかんと排水口に吸い込まれていく。春崎はそのごぽごぽという咳のような音よりも、水が落ち続ける際の、すー、とも、キーン、とも聞こえる音の方が気になって、蛇口をきつく締めた。つい力を込め過ぎてしまい、さやかが開けにくいかと、蛇口をゆるめ、それからぎこちなく中腰で振り返ってさやかの方を見た。
「……そんな大事なこと、なんでひとりでヒロに言うんだよ」
「え。だって、別れたんだから。別れたっていうのは、もうそれぞれの問題でしょ? 春崎、なんか怒ってる?」
「怒ってない」
 と言いながらも、釈然としない。最近、ヒロのこともあってさやかとは距離が近かっただけに、余計にそう感じるのかもしれない。
「あの、いい?」
 発言してもいいかとヒロが手を挙げた。中途半端な挙げ方で、どこか自信なげで、困っているようにも見えた。
「どうしたの?」
「どうした?」
 春崎とさやかの言葉が重なって、一瞬の間のあと、「どうしたの?」とさやかがもう一度聞いた。ヒロはこう言った。
「いつまでも、ふたりいっしょにいるわけじゃないんだね」
 春崎自身、わかっていたことだった。というか、たとえ別れていなくても、いつまでもいっしょにいることは、きっとできない。そんなのわかってる。それなのに、ヒロの口からそう聞くと、心臓を針で突かれたようにハッとした。
 けれど、動揺しているのはどうやら、春崎よりもヒロの方らしかった。
「まいったな。ずっといっしょみたいな気がしてたんだけど。そんなわけにはいかないよね。そりゃ、そうだよね」
「うちら!」とさやかが言った。「ヒロがいるから、今、いっしょにいるんだよ」
 ね? と同意を求められて、春崎は、「そう」と応える。
「ヒロのこと心配だからさ。だから、俺ら、ヒロのために、この家にいるから」
 言いながら春崎は、でもそれって、いつまでだ? と思う。
 その思いに重なるようにヒロが言った。
「でも、ずっとじゃないじゃん。そんなの、申し訳ないよ。だいいち、僕だって、いつまでここにいるかわからない」
「え?」
「なんの確証もないでしょ? こんな体。こんな存在。ここにいるって、なに? 僕は、幽霊なんでしょ? そんなのって、曖昧過ぎるよ。明日もまだ僕がここにいるって、なんの保証もない。明日どころか、一時間後、一分後、今この瞬間だって!」
 ヒロが叫ぶと耳鳴りがして、春崎とさやかは思わず耳を押さえた。
 窓がぴりぴりと震えている。こういうのってポルターガイストって言うんだっけか、と妙に冷静に考えながら、頭の隅では途方に暮れた。
 ヒロに、なにを言ってやればいいのかわからない。
 保証がないなんて、みんなそうだろ、と春崎は考える。
 明日、一分後、今この瞬間になにが起こるかなんて、誰も知らない。心臓麻痺で倒れたり、脳の血管が詰まってしまったり、火事が起きたり、ガス爆発が起きたり、いきなりマンションが倒壊したり、そんなことだってあるかもしれない。可能性だけを言えば、なんだって起こり得る。でもそれって、俺が生きてるから考えることなんだろうか?
 一瞬後には、今ある状態と違ってしまうかもしれない。
 そのことの意味が、生きてる俺と、死んでしまっているヒロとでは、違うんじゃないか?
 そのことの重みだったり、変化そのものへの、恐怖みたいなものが。
 春崎に想像できるのは、そこまでだった。
 生身の自分と幽霊のヒロとでは、ものの考え方というか、ひらめきだとか、やってくる思いだとか、そういう根本的な部分に隔たりがあるような気がした。

 

(つづく)