春崎はるさき悠太はるたはその扉を忌々しげに見つめた。
 中央に縦長の採光窓のある、濃いキャラメル色をした木目調の重厚な扉。見れば見るほど憎たらしく思ってしまいそうで、気を落ち着けようと深く息を吸って、吐いた。今にもその扉が開くのではないかと期待する。開かないでほしいとも思う。早くこの場を離れたかったが、今後のつきあいのためには、最後になにか好印象を与えるような振る舞いをこちらからしておくべきなんじゃないだろうか。ドアを開けて、お会いできてうれしかったですと改めて言おうか? これまでで最高の笑顔で? いや、そもそも、向こうが見送りさえしてこないのがおかしいんだろ。開け、いや、開くな。ドアを見つめる。恋人の実家の、玄関だ。
 結婚の挨拶にきたというのに、さやかの両親は明らかに春崎のことが気に食わない様子だった。いい大人が揃いもそろって、娘の彼氏をいつまでも見下すように値踏みし続けたのだ。普段は温厚というか、覇気のない春崎だったが、義父母になる相手の振る舞いにイライラし通しだった。そのことで、自分にも意外とプライドみたいなものがあったんだな、とさえ考えた。
 近い将来に義母になる相手は、さやかの幼少期からのアルバムを見せながら、じっくりじっくりと家柄についてマウントを取ってきたのだった。写真にうつっている名門中学、高校の同級生を指さして、この人の家は地主でどうのこうの、父親の仕事がどうのこうのと繰り返した。そして「こういう人と結婚するんだとばかり思っていた。ねえ?」と冗談めかして言った。
 春崎が苦笑いしながら、「いやあ、僕のところなんて絵に描いたような中流で」と返すと、「本当? 調査会社でも雇って確かめてもらおうかしら」とあのおばさんは笑ったのだ。
 さやかの父は春崎に対してはダンマリで、ほとんど会話してくれなかった。そのくせ、あれやこれやと妻に指示を出していた。あれは、シャイだとかそういうことじゃない。おまえのことを無視しているのだ、そう春崎に知らしめようとしているのだった。
 ふたりとも、春崎との結婚に反対だとまでは言わないし、ところどころで諦めたように「娘が決めた相手なんだもんねえ」と漏らしたりはするが、流石さすがに春崎は傷ついた。
 誰かに面と向かって拒絶感を示されるなんて、大人になってから初めてかもしれない。
 しかも、その相手が恋人の両親だなんて。
 近い将来、あのふたりと家族になるのだと思うと気が滅入った。
 家を出たあとさやかは「やっぱりちょっと、いくらなんでもだ。パパとママに怒ってくるからここで待ってて」と両親のもとに引き返した。
 それから、何分も戻ってこない。
 気分を変えないと。
 春崎はスーツのポケットからスマホを取り出し、SNSのアプリを開いた。大物芸人が週刊誌に不倫をすっぱ抜かれたり、有名演歌歌手の長年にわたる脱税が発覚したりといった話題でタイムラインは賑わっていた。大きなトピックについて似たような感想ばかりが吐露されていた。誰もかれもが義憤と私憤の境がわからなくなってしまったかのようで、春崎は冷めた目で眺めた。自分からSNSで発信することは稀だが、知り合いや有名人のアカウントをフォローしていて、噂話を把握しておきたいような感覚でつい頻繁に覗いてしまう。
 親指でスマホの画面をスクロールし続けた。ひとつの動きを執拗にすることで、憂さ晴らしでもしているようだった。画面を指で強く擦るようにしてタイムラインを遡っていると、ある投稿が春崎の目にとまった。
〈もう、僕とはさよならだな〉
 なんだ、これ。
 なんでもないような、それでいて意味ありげな文言だった。
 投稿主のアイコンは、初期設定の無個性なものだった。タップしてプロフィールページに飛ぶ。こいつ誰だっけと思いながら、タイムラインを眺めてみる。〈なにかつぶやこうと思うけど、なんにも思い浮かばない。そもそも、自分ってなんだっけ? とか、そんなことを考えちゃって〉〈時々、昔のことを考えると、今との違いにギョッとする。それなのに、なにも変わっていない気さえする。僕は、大人になれてるのかな〉一年に一度ほど、当人にしか意味のわからない独り言を投稿しているだけだ。相互フォローの関係にあるということは、知り合いかもしれない。
 ガチャリと音がした。
 さやかが玄関を開け、家の前で待つ春崎のもとへ近寄ってくる。眉間みけんに皺を寄せ、唇が固く結ばれていた。
「お待たせ」
 それから、呆れたように深く息を吐いて、うああ、と声にする。
 住宅街であるということを配慮して声量はごく控えめだったが、怒りがにじんでいた。
「ごめん。ごめんね。ほんとに。マジで。あんな親で」
「そんなことないそんなことない」
 春崎は咄嗟とつさに手を振った。
 どうして俺が、さやかの親に気を回してるんだろう。
「むしろあんまり気ぃ遣わないでいてくれたみたいで、ありがたかったよ」
 そう言いながら、ちょっと嫌みっぽく聞こえてしまっているかも? と笑顔を作った。
「今日、ありがとうな」
 春崎の言葉に、さやかは困ったように微笑んで腕を組んできた。
「無理はしないでほしいけど、きっと大丈夫だから。うちの親、なんだかんだ、春崎のこと好きだと思うし」
 どこが? と思ったが、声には出さない。
「春崎も、仲良くなっていけるよ」
「なんか、おいしいものでも食べて帰ろうか」
 三月下旬の休日。日中は比較的気温が高いという予報だった。スーツの上には何も羽織らずにやってきたのだが、もう陽が落ちていた。
 寒さに身震いしながら、閑静な住宅街を駅の方へと向かう。
 春崎は顔だけで振り返り、先ほどまでいたさやかの実家を見つめた。一昨年にリフォームしたばかりらしい、ブラウンを基調とした洒落た一軒家は、しんと静まり返っている。
 通りには肉じゃがかなにか、家庭料理のにおいが漂っていた。そのにおいに空腹を感じる分だけ、なぜだかさびしさが増していった。
 今さらながら、結婚を面倒に感じる自分がいる。
 
 同い年で二七歳のさやかとは、大学一年の時に知り合った。
 大学時代は、めちゃくちゃ好きというより、誰かとカップルでいたい、恋人がいる自分でいたいという思いがお互いに噛み合って、不安を埋め合うようにしてつきあっていた。
 つきあったり別れたりを繰り返し、腐れ縁とでも言うような関係だ。
 さやかとの最初の交際は大学一年の五月頃にはじまった。それは、ただお互いに若さに任せた勢いの結果だとわかっていたから、二年になる前に円満に別れた。
 ところが、春崎はしばらくして、さやかくらいいっしょにいて居心地のいい異性は他にいないのでは、と思い至る。春崎の方から二度目の交際を申し込むと、「私もそういうこと考えてた」と返事がきた。そういうこと? 「同じこと」とかでもなく、そういうことって? その違いに含まれてることはなんだろう、と思ったが、直接伝えたりはしなかった。
 二度目の破局は三年生の春。春崎は、一度目と二度目の交際の間の期間に、さやかにつきあいそうになった異性がいたことを知ったのだ。それだけなら別に「まあそういうこともあるか」と思う程度だったが、さやかがその彼とずっと連絡を取り続けていることを知ってしまい、思い切ってそのモヤモヤをぶつけてみると、「えっ、私が誰と友だちでいようが勝手じゃん」と若干ひかれてしまった。モヤモヤが積もり、春崎の方からフェードアウトするかたちで自然消滅した。
 すると今度は、数か月経った頃にさやかの方から「やりなおさない?」と、どうしてかインスタグラムのDMで連絡がきた。「軽っ」と春崎は思わずひとりごちて笑ってしまったが、もうわかっていた。俺たちって腐れ縁なんだと。きっといくら離れてもくっついてしまうのだと、確信するように考えた。
 その後はふたりとも落ち着いて、今年で同棲三年目だ。
 三年近くも暮らしていると、春崎としては、さやかは恋人というより家族に近い。このまま腐れ縁を受け入れて結婚することになるのだろうか──そう思っていた矢先、一か月前に、妙にかしこまった様子で「親と会ってほしい」と言われたのだ。
 まず思ったのは、面倒くさそう、ということだった。
 こんなことを思う俺って薄情かも? 普通は、よろこぶものなんだよな。
 でも、恋人の親に会うことのよろこびよりも、のしかかってくるストレスの方がうまく想像できた。俺が、別に悪人とかではないだろうけど、根っこの部分はちょっとだけクズっていうか、怠惰な人間なこと、さやかもよく知っているはずだ。知ってて俺と親を会わせたがってるんだから、さやかのために断るわけにはいかなかった。
 結婚、かあ~。
 彼女の両親に挨拶をしたばかりの今でさえ、実感を持てない。さやかといると、俺は他の人といる時よりも自由というか、俺が俺自身でいられているのを感じる。だからか、結婚しなくても別にいいんじゃないか、なんて思ってしまう。それは、まだ二十代後半であることに甘えているだけなんだろうか。それに俺が男だからかもしれない。さやかの結婚願望と比べると、俺のモヤモヤなんて軽すぎる塵みたいなものなのだろう。
 春崎たちは東急世田谷線と半蔵門線直通の田園都市線、それから千代田線を乗り継ぎ、ふたりが同棲するマンションの最寄り駅へと向かった。さやかは各線の短い乗車時間でさえ、うつらうつらと眠りそうになっていて、春崎の肩にもたれかかってきた。親と春崎の板挟みになって疲れたのだろう。
 さやかの好きなケーキでも買って帰ろう。春崎は、車内に掲示された「男らしさより自分らしさ」なんて謳うメンズ脱毛の広告をぼんやりと眺めた。それから、思い出したようにSNSを開いた。
〈もう、僕とはさよならだな〉
 その投稿を見つめていると、頭の中でぱちぱちと記憶が弾けた。
 こいつ、ヒロだ。花池はないけ比呂ひろだ。
 よくSNSにこういうよくわからないことを書いていた気がする。
 大学時代の友人で、ヒロとは、さやかを含めて三人でよくつるんでいた。俺とさやかが恋人じゃない時期も、ヒロが間に入るならと三人で会ったりしていた。それくらい、仲の濃かった友だちだ。大学生だったのはたった五年前なのに、もうその頃の記憶が薄まっていることに驚いた。
 卒業してからはヒロとは疎遠になってしまった。確かあいつは、「もっといろいろな世界を見てみたくて」なんてベタなことを言って、学部を卒業したあと、就職も進学の道も選ばなかったはずだ。そんな余裕どこから来るんだ? と思ったが言わなかった。少なくとも春崎には大学を卒業して「働かない」という選択肢は発想すらなかった。
 二年浪人してから大学に入学したヒロは、俺たちのふたつ歳上だ。けれどヒロは、顔立ちも印象も幼くて、俺もさやかも、同い年か歳下の友人を相手にするように接していた。
 何度も脱色を繰り返した透き通るような金髪と、屈託のないヒロの笑顔がまざまざと脳裏に浮かんだ。人懐っこいタイプで、女子に気に入られていてよく連れ回されていた。誰のこともすぐ信用してしまうというか、人を疑うことを知らないような奴だった。ヒロに対して、いつか騙されるんじゃないかとあぶなっかしく思ったことは何度もある。
 そのくせ、妙に達観しているというか、時々ふっと虚しそうな表情を見せたり、変わったことをしたりする。ふわふわと掴みどころのない奴だった。
 大学二年の時だった。キャンパスの前の車道で、カラスが車に轢かれて死んでいた。ヒロはそれを目にすると、車が行き交うのも無視して黒い亡骸に近寄り、素手で抱きかかえた。クラクションが鳴り響くのも構わず、しばらくそのまま車道に突っ立っていた。講義終わりでいっしょにいた俺とさやかが驚いて駆け寄ると、ヒロはなにをするでもなく、カラスを見つめながら涙を流していた。
 変だけど、やさしいやつだった。
 あいつ、今なにしてるんだろう。

 

(つづく)