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 春崎もさやかも耳を押さえたままでいると、ヒロは申し訳なさそうな表情をし、さっきとは違って落ち着いた口調でこう続けた。
「時間なんて、いつまでもあるわけじゃないんだ。僕は、知らなきゃいけない。そんな気がする」
「なにを、知りたいの?」
 さやかが、声の穏やかさをヒロに合わせるように言った。
「どうして僕が死んだのか」
「それは……俺たちも、詳しくは知らない」
「そうやってぼかすってことは、自殺、なんだよね」
 春崎とさやかが口をつぐむと、ヒロは続けた。
「そうじゃないかって思ってた。ねえ。調べてくれないかな。僕の自殺の理由。僕は、この家から出れないみたいだし」
 自ら命を絶つことに、わかりやすい理由なんてあるのだろうか、と春崎は考える。ある出来事が直接的なきっかけになるっていうより、つらい状況が、死にたいと思っている時間が続いてしまったせいなんじゃないだろうか。それをせっかく今ヒロは、忘れているっていうのに。
 春崎がなにも言えないままでいると、さやかがおそるおそる口を開いた。
「どうして、知りたいの?」
 それにつけ足すように、春崎がこう言う。
「あのさ、おせっかいだろうけど、せっかくつらいことを忘れてるんだから、思い出さなくてもいいんじゃないか? またつらい気持ちになるかもしれないじゃん」
「ありがと。でも、大丈夫。ただ、知りたいんだ。僕は僕のことを。僕の存在の理由を。死んだ理由がわかれば、どうして幽霊になってふたりの前に現れたのかも、わかる気がするんだ」
「えっ……」と春崎。「わかる気がするって、直感?」
「うん。直感。理由が欲しい。僕が幽霊である理由。だって、理由があると、安心できるでしょ?」
「ああ。その気持ちなら俺も、なんとなくわかる」
「私も」とさやかが言う。「なんとなく」
「なんだ。僕ら、安心したいんじゃん。ねえ。さやか、春崎。僕らの安心のために、僕がどうして死んだのか調べてくれないかな?」
 なんだか芝居がかった口調だ、と春崎は思った。
「ヒロ、あのさ、甘えるみたいに言わなくていいから」
「バレた?」
「バレたじゃねえ」
「あざといなあ」とさやか。「まったく」と笑った。
「まったくだよなあ」と春崎も笑った。
「引き受けてくれるの? やったー」
 ヒロが両手を上げて万歳をした。そのまま浮かび上がって、天井を越えてはるかかなたの空へと飛んでいってしまうのではないかと思うほど、勢いがあって見事な万歳だった。
 どうしてか春崎の目から、涙が流れた。
「ちょっといい?」とさやかが、自室へと春崎を手招きした。それから、春崎が泣いているのに気付いて、「え。大丈夫? どうしたの?」
「いや。わかんない。なんか。なんでかな」
 一瞬できてしまった沈黙を打ち消すように、なに? と目を擦りながら問うと、「作戦会議」とさやかは答えた。
「作戦会議?」
「うん。ヒロはここにいて。ちょっと春崎と話すから」 
 さやかの部屋に入るのはひさしぶりだった。離婚した日から数えると、一か月近くになるか? 部屋のドアをくぐると、さやかの香水やハンドクリームの甘いにおいが鼻腔に一気に流れ込んできた。この部屋、こんなににおい強かったっけ? そう思ってすぐに、いや、と思い直す。俺が、そう感じているだけか……。さやかの生活に不慣れになっちゃたんだな。
「なにその顔」とさやかが聞いてきた。
「なにって」
「変な顔してる」
「ああ。いや。他人になってくんだなあって」
「それは、うん。そうだね」
 そう言うとさやかはなにかをためらうように黙ったので、春崎は「どうする? ヒロのお願い。どう進めてこうか」と聞いた。
「それなんだけど」
 と言いながらさやかが、ベランダへ出ていった。
 え? と思いながら春崎はついていく。
 ベランダ用のサンダルはひとり分しかなく、ふたりとも、片っぽずつのサンダルになんとか両足を乗せる。さやかが、家の中を窺うようにしながらぴっちりと扉を閉めた。
 夏の夜の空気が、体の輪郭を教えてくるみたいに、べたつきを持ってまとわりついてくる。
「噂通りヒロが自殺だったなら、うちら、ヒロに悲しいこと伝えちゃうんじゃないかって」
 さやかの言葉に、春崎はじっと考え込んだ。光に誘われて、小さな羽虫が夜を舞っている。
「でも……」とさやかは続ける。「ヒロが知りたがってるんだから、やるしかないって、私は思ってる。春崎は、どう?」
「俺は……俺も、そう思う。なんていうか、悲しいかどうかって、ヒロが決めることだから」
 さやかはゆっくりと頷いた。
「よかった。とりあえず、うちらの足並みが合ってて。ここがバラバラだったら、しんどいもんね」
「そうだな。いっしょにやってこう。ヒロの望みを、叶えるまでは」
「うん」
 気持ちを切り替えるようにさやかは、ふっと鼻から息を吐いた。
 部屋に戻ると、さやかは筆記用具入れとして使っているスヌーピーのマグカップの下に敷いた一枚のメモ用紙を春崎に渡した。メモ用紙の上部には植物の芽のようなかたちのロゴがあり、その下に、11桁の番号が手書きされている。丁寧な字だが、ところどころ震えるように乱れていた。
「これって、あれだよな。葬式の時に交換した……」
「そう。ヒロの妹さんの、由希さんの電話番号。まず、由希さんに話聞いてみようかな」
「なんて言って?」
「なんて言おうか」
「まず、妹さんに話聞いていいか、ヒロに聞いてからにしない?」
「それもそうか」
 とさやかは肩をすくめた。
 メモを持ってリビングに戻り、「なに話してたのー」とソファにだらしなく腰掛けながら言うヒロに、まず妹の由希さんに話を聞いてみようと思うんだけど、ヒロはどう思う? と尋ねてみた。するとヒロは、「あ、ああ~~」と苦笑いする。
「なんか、緊張しちゃうなあ。妹っていっても、僕は覚えてないし……。それに、大丈夫かな」
「大丈夫?」
「僕が死んでから、どれくらい経つんだっけ」
「三か月と少し」
「今さら、兄が死を選んだ理由に心当たりがあるかを妹に聞くってことでしょ? それって、聞かれる方はつらくないかな。蒸し返されるみたいに思わないかな。まあ、こんなの余計な気遣いで、本当は向こうは僕のことなんてどうでもいいかもしれないけど」
「そんなことない!」さやかは強い口調で言ったあと、「そんなことない」とやわらかく言い直した。
「そういう気遣い、ヒロらしいよな。じゃあ、妹さんに連絡取るかどうかは、一旦保留にしとくってことで、いいか?」
 春崎が会議でも進めるように言うと、「僕らしい?」とヒロが言った。「ねえ僕って、どういう人だった?」
「どういう人だったって、今と変わんないけどな」
「今と変わらないって、それがどういうことなのさ」
 あー、と春崎が考えていると、「ヒロは無邪気だよね」とさやかが言った。
「人懐っこい」と春崎。
「基本的に明るいよね」
「でもなんか……明るい分だけ、すごく濃い翳(かげ)があるような気がする」
「翳……?」とヒロがつぶやいた。「今言ってくれたのが、僕のイメージ? ふうん。ねえ、今さらなんだけど、僕って妹の他に家族は誰がいるのかな」
 その質問には、春崎もさやかもうまく答えることができなかった。
「昔の話とか身の回りの話、ヒロは全然俺たちにしなかったもんなあ」 
 葬儀にきた遺族が由希だけだった、ということはヒロに気を遣い伏せておいた。
 ふと、春崎の脳内に、「兄は、どんな人でしたか?」と葬儀で尋ねてきた由希の声が再生された。そして春崎たちが、明るくて誰にでも好かれる奴だったと答えると、彼女は心底意外そうな顔をしたのだ。つまり、妹が知っていたヒロはそうじゃなかったってことか?
「もしかして、誰もヒロっていう人間のことをよく知らなかったりする? 俺たちも、由希さんも、ヒロについては、ヒロといた時間のことしかわからないっていうか」
 少し考えてから、「そんなの、みんなそうでしょ?」とさやかが言った。
「みんな誰かのいち側面しか知らないよ」
「それは、そうだろうけどさ」
「ねえ。僕って、春崎とさやか以外にも友だちとか知り合いっていたんだよね。その人たちは、僕のことどういう人だと思ってたのかな」
「聞いてみようか」
 さやかは言ったそばから大学時代のグループLINEを数年ぶりに動かし、旧友たちにひさしぶりに会わないかとメッセージを送った。

 

(つづく)