由希は自分の分のジャスミン茶をひと口飲むと、「やさしい兄でした」と話しはじめた。
「幼いころは、いじめられても、いじめた側のことを心配していたくらいで」
なんか想像できるな、とさやかが言うと、由希は悲しげに微笑んだ。
「どうしてそんなことをするのか、私は理解できなかったんですよね。よく覚えてます。私が五歳で、兄が十歳、小学四年生の時のことです。兄は学校の子に突き飛ばされて、腕から血を流して家に帰ってきました。それなのにこう言ったんです。『僕は平気。僕を怪我させた子たちの方が、心で泣いてるんだよ』って。母は兄のことを心配しました。でも兄は、自分は大丈夫だ、って言い張るばかりで。いえ、心の底からそう思っていたのかもしれません。兄は、『いじめた子を救ってあげてくれ』と母に言ったんです。
その時の母の反応は、声の調子まではっきりと思い出せます。あの……母は、静かに兄のそばから離れて、『気持ちの悪い子』ってつぶやいたんです」
春崎は耳を疑った。気持ちの悪い子? なんで、そうなるんだよ。
「そこから母は、兄のことを避けるようになっていきました。父は元々、子どもに、子育てに関心がなかったんです。今でいう、ネグレクトに近いのだと思います。兄は、両親ふたりともから、いないものとされるようになったんです。
母は、私のことをかわいがってばかりでした。私は母から、兄とは遊んではいけないと言われていました。『あの子の考えがうつっちゃったら、お母さん、由希のことを嫌いになっちゃうから』そう言われていたんです。その頃、父が他の女の人と不倫していたんですよね。母の肩を持つわけじゃ決してないんですけど、父のこともあって、母は追い詰められていたのかもしれません。あの、私、うまく話せていますか? こんな話、誰かに聞いてもらうの、はじめてで」
ええ、とさやかが面食らったように言うと、由希は数秒の沈黙のあと、思い出しながら自分自身にも聞かせるように、ゆっくりとした口調で続けた。
「いつだったか、母といっしょに買い物から帰宅すると、兄が私の服を着て玄関口で待っていました。当時放送されていた魔法少女アニメのキャラクターがプリントされたTシャツで、兄には小さくて、ぴったりと肌に張りついていて、あばらのあたりまでお腹が見えていました。それから、私が幼稚園のハロウィンの時に着ていた真っ黒いスカート。兄が穿くと、かなり丈が短くなってしまっていました。玄関の前で体育座りをして、母が帰ってくるのを待ってたんですよね。兄は、唖然とした様子の母に向かって、ぱあっと笑ってこう言いました。
『お母さん、僕も由希ちゃんだよ。だから、怖がらないで』って。
それを聞いた母は、なにも聞こえなかったように穏やかな顔で、ゆっくりとパンプスを脱いだかと思うと、それを投げつけるみたいに、兄のことを、一度、二度と叩いたんです。それから、またゆっくりと前屈みになってパンプスを玄関に置いて、体を起こした時には、まるで自分が叩かれたように母は泣いていました。そうして、私を泣きながら抱きしめたんです。母はこう言いました。『お母さんには由希ちゃんだけ。由希ちゃんだけが大事』そう言って、兄にはなにも声をかけなかったんです。
最初は私、嫌だったんです。どうしてお兄ちゃんに靴を投げるの。どうしてお兄ちゃんを叩くのって。わけがわかりませんでした。でも、でも……だんだんと、慣れてしまったんです。あの、今でも本当に、自分でもどうかしていたと思うんですけど、母が私を大事にするのも、兄がひどい目に遭っているのも、当たり前のこととして感じるようになっていきました。兄は、どれだけ怒鳴られても、私の服を着て母に見せました。すると母は、兄を叩きます。そんなやりとりが、何度も繰り返されました。どういうわけか、それを兄も望んでいるようでした。そういう風に見える瞬間があったんです。まるで、無視をされるよりも、叩かれる方がずっとましだと思っているみたいに、兄は笑っていました。母から暴力を受けることが、あの家での兄の存在理由になってしまったんです」
そんな、と春崎はつぶやいた。すぐには理解ができず、怒りよりも先に無力感を覚えた。
「そこから兄が抜け出すことができたのは、一五歳の時です。兄は家出をしました。それきり、帰ってくることはありませんでした」
「一五歳……そこから、私たちと会うまでの春崎になにがあったのかは……」
「すいません。それは、私にもわからないんです」
由希は鎖骨のあたりを指で触りながら話した。自らを痛めつけるように、指に力が入り、赤くなっていた。
「あの家の異常さに私が気づいたのは、兄が出ていって七年もの月日が経ってからでした。高校の文化祭が終わったあとの日だったと記憶しています。劇をしたんですけど、小道具のこまごましたものは各自で持って帰ることになったんです。私は、小道具で作った村人の衣装を持って帰ることになりました。私自身、その村人の役で。そのことが恥ずかしかったんですかね、衣装を絶対母に見つからないようにしようと思って、小さく畳んで、押し入れの奥に隠そうとしたんです。そうして押し入れを探っていると、奥の隅の方に、なにかがありました。それは、くしゃくしゃに丸められた、昔の兄の写真でした。そこには、私の記憶にないほど小さい頃の兄が写っていました。四、五歳くらいだと思います。公園の遊具の隣に立って、こっちを見て、むすっと膨れたような、でもどこかうれしいみたいな笑顔を見せているんです。私、それを見て涙が止まらなかったんです。お兄ちゃんもこんな風に笑うんだ、って。気に入られようとする以外の笑顔もあるんだって。そして、その笑顔を奪ったのは私たち家族なんだ、って。
電話番号は知っていたので、私は兄に携帯で連絡を取りました。これまでのことを謝りたかったし、できたら、会いたかった」
薄いベージュのカーテンが翻った。強い風と陽の光の白色が入ってきて、由希は一瞬目を細めた。
「でも、電話をかけるまで、随分と悩みました。兄は、私や母のことが嫌で家を出ていったわけですから。それでも、声だけでも聞きたいと思って発信ボタンを押すと、長いコール音のあと、兄は電話に出てくれました。そして、『もしもしー。どうしたの?』なんて、まるで私たちが毎日顔を合わせてるみたいに、離れてなんていないみたいに言うんです。私はこう思いました。コール音の間に、どうやって電話に出ると私を不安がらせないで済むか、きっとお兄ちゃんは考えてくれたんだ、って。会いたい、と私はたったひと言、泣きながら言っていました。
兄は、待ち合わせ場所として東京駅を選びました。東京で暮らしているみたいでした。私と母の暮らすマンションも、郊外の方ですけど都内でしたから、近いところにいたのだと驚きました。
約束の当日、七年ぶりに会う兄は、私が想像していたよりもやつれていました。なんだか、疲れているような。でも、笑った時の雰囲気は紛れもなく兄でした。秋晴れが気持ちいい日で、東京駅の前の広場をふたりで歩きながら、兄はこう言ってくれました。『家を出てから荒れた時期もあったけど、これでも落ち着いたんだ。今は大学に通ってる』と言って、それからは、家を出た七年間なんてなかったみたいに、ただ最近の話をするみたいに、受験のことや大学生活のことを話してくれました。あの、おふたりの名前もよく出ましたよ。いい友だちだって」
「そう」さやかが微笑んだ。
「荒れていた時期、っていうのは」と春崎が聞く。
「私も気になって聞いてみたんですけど、『僕は悪いことをしていたんだ』って、兄はそう言うだけで」
――僕は悪いことをしたんだ。
幽霊のヒロの言葉が、春崎の脳裏に浮かんだ。
由希はひと呼吸を置くように話を止めた。しばらく待ったが由希がじっと過去に浸っているように見えたので、ここまでかな、と春崎たちは顔を見合わせた。
由希は、じっと手元を見つめた。
「小さい頃、私が泣きじゃくってたら、兄が私の爪にクレヨンで色を塗ってくれたんですよね。丁寧に色を塗ってくれて、それでいつも、こう言ってくれたんです。『ほら、由希ちゃんが世界でいちばんかわいいよ』って」
それから由希は、「そうだ。貰い物の紅茶があったの思い出しました。よかったら、お飲みになりませんか?」と言った。
花のにおいが香る紅茶を啜りながら、春崎とさやかは、自分たちがヒロと過ごした学生時代のことを由希に語った。ヒロがいると、不思議といつも空気が和んだのだと。話しているうちに、由希の笑顔が増えていった。
そろそろサロンをあとにしようかというタイミングで、由希が、「よかったら今度お客さんとしてきてください」と言った。それから、「他にはどなたに話を聞きにいくつもりですか?」と。
そう言ったあと、由希は表情を曇らせた。
「どうしたの?」とさやかが聞いた。
「あの、できれば、母には会わないでもらいたいんです。私、自分勝手ですけど、母が兄のことを話しているのを想像しただけで、ものすごく、嫌な気分になるんです。それに、もし仮に、母が兄に謝りたいなんて言い出したら、私は絶対に母のことを許せなくなる」
由希は俯いた。その華奢な腕が震えていた。
春崎とさやかとしては、「わかりました」と言う他はなかった。
どうしてヒロが死んだと思いますか? そう聞いてもいいものかどうか、それを聞くことがこの人の傷をどれほど抉ってしまうのだろうかと春崎が逡巡していると、「すいません。最後に」とさやかが言った。
春崎は勢いよく首を捻ってさやかの横顔を見た。おい、と内心でつぶやいた。由希はどこか不思議そうに、「なんでしょう」と聞いた。
「お父様って、今、どちらに」とさやかが言って、春崎はホッとした。確かに聞いておくべきことだった。由希はこう言った。
「父親は四年前に亡くなりました」
脳梗塞だったそうだ。由希と母親の関係は今では冷え切っているらしく、亡くなって二か月も経ったあとに、母から父親の死を知らされたのみだった。
由希は、「父」ではなく「父親」と言った。春崎にはその分だけ、関係の遠さが察せられた。
由希と別れ、雑居ビルをエレベーターで降りながら、春崎は気が沈んでいた。ヒロの過去を知れたまではよかった。けれどそれは、ヒロに伝えるにはつらいことだった。
エレベーターの扉が一階で開くと、日光に照らされ、白く濡れたように輝くアスファルトが目に飛び込んできた。まぶしさに視界がちかちかと点滅し、猛暑の中を歩く人たちの姿が黒い影のように見える。瞬間、春崎は思い出した。
「あれ、誰だったんだろう」
さやかは、少し間を空けてから、「あれって?」と聞き返した。
「ヒロの葬式にいた中年の男の人。泣いてたんだよ。俺、あの人が父親なのかなって、なんとなく思ってたんだけど、そうじゃないなら、誰なんだろう」