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 空調の調子が悪いのか、マンションのエントランスはいやに蒸し暑かった。そうしようとどちらかが言い出したわけではないが、同棲を始めてからというもの、ふたりで帰宅した時はさやかが郵便受けをチェックし、春崎がオートロックに鍵を挿し込むことになっていた。鍵を回して自動ドアが開くと、春崎はその習慣のようなものに離婚した今も倣っていることに気がついた。その瞬間、未来の視点から今現在を過去として見つめているかのような懐かしい気持ちに襲われた。エレベーターの方に向かわず、エントランスでじっと立ち尽くした。さやかが怪訝そうに「どうしたの」と声をかけてくる。それからこちらを覗き込むように、「ちょっと春崎」と言った。
「自分の顔、見てみてよ」
「顔?」
 汗まみれの顔に触れた。なにかついているのだろうかとスマホのカメラを内向きにしてチェックしようとしたが、その前にさやかが手鏡を春崎に向けてくれた。そこに映っている自分は、ひどく青白い顔をしていた。照明の加減でそう見えるだけだろうかと、手鏡の角度や顔の向きを変えてみても、血の気のない顔があるだけだ。
「俺、由希さんがしてくれた話が相当ショックだったのかな」
 他人事みたいに言ってるな、と思う。
「春崎のその顔見たら、あまりよくない話だったって、ヒロはすぐに気づくと思うけど」
 春崎は立ち尽くしたままその場面を想像した。嫌だ。こっちがなにも言わないうちからただヒロが察してしまうのは、寂しいだろ。
 両手で頬を思い切り叩いた。びっ、という軽さも鈍さも含んだ音がエントランスに響いた。
「えっ、なに……?」
 とさやかは驚いている。
「血色、よくならないかなと思って」
 さやかはくすくすと笑った。ツボに入ったのか、腹を折るように下を向いて笑い続けている。
「そんなにウケる?」
「そういえば春崎って、変な奴だったなって」
 なに言ってるんだろう、と春崎は思う。さやかの方が変じゃないか? もったいないからって理由で半身浴をする時は入浴剤を半分に割って使ったり、家で鼻歌をうたう時、なぜかハモリのパートばかりだったり。
 そういうの、俺は話してきたのかな。
 してなかったのなら、話していきたいけどな。
「春崎ハンカチ持ってる? 顔の汗拭いてよ」
 言われた通りにすると、今度は、こっちをまっすぐ見るようにと言われる。オートロックには鍵を挿したままで、キーホルダーのゆるキャラが揺れていた。同棲を始めたての頃、ふたりで神戸へ旅行にいった時に買ったものだ。かわいらしいクマの体は塗装が剥げて白くなっている。そういえばこのキーホルダーを替えようとも、捨てようとも思わなかった。離婚をしたあとも、そんな発想さえ浮かばなかった。
「俺が鍵にしてるキーホルダー、さやかはどうしてるんだっけ」
「え? ああ、筆箱につけてるけど、それがなに?」
「いや?」
「なに? にやにやして」
「てか、そっちこそなに」
「間に合わせだけどさ。これでちょっとは血色よく見えると思う」
 さやかは化粧下地のピンク系のコントロールカラーを春崎の顔に小さなかたまりとしていくつか塗って全体に延ばすと、パウダーを叩いて馴染ませていく。
 春崎はじっと黙っていた。微笑んでしまいそうになるのを堪えていた。まるでつきあう前みたいなむず痒い気持ちが生まれていた。どうして自分たちはずっと蒸し暑いエントランスにいるままなのだろう。そう思うと、この状況がすごくシュールなものに感じられた。おかしくて、大切なもののように。
「ただいま~」
 玄関のドアを開け、普段通りを装うように言うと、「おかえり~」とヒロの声がした。リビングのソファに座り、つけっぱなしにしておいたテレビを見ている。春崎は靴を脱ぎかけの体勢のまま、ヒロの後ろ姿を見つめた。それはたった数秒のことだった。けど、ヒロの後頭部がやけにもの悲しげに見えた。振り返ったヒロがいつものように笑顔だっただけに、なおさら。
 ヒロはなにか聞きたそうにそわそわしていて、春崎とさやかもそれがうつったような気分になる。
「とりあえず、俺らも座ろうか」
 春崎が三人分のお茶を用意した。ヒロは飲めないけど、いるのだから出すのが当たり前だった。
 意味もなくテレビのチャンネルを変えたり、YouTubeを開いてみたりしてから、春崎とさやかは意を決して由希から聞いた話をすべてヒロに伝えた。
 ヒロが母親からされたことを話す時、春崎は、ふたりで聞きにいってよかったと思った。もし、話を聞いたのが俺ひとりだったら、言葉をオブラートに包んでうやむやに伝えてしまっていたかもしれない。ひとりがヒロを気遣って言いあぐねると、もうひとりがそれを補足することができた。ひとりが感情的になって言葉を詰まらせると、もうひとりが言葉を促すことができた。さやかとふたりだから、ちゃんと伝えることができた。
 ヒロは、由希が語った話をふたりから聞いてもなにも思い出せないようだった。
「なんて言うのがいいかな。よく知っている誰かの悲しい話を聞いたみたい。妹は、僕がどうして死んじゃったんだと思ってた?」
「はっきりとは言わなかったけど、ヒロたちが育ったご家庭のこと、気にしてたよ」
 さやかの言葉にヒロは、「そうかあ」と言っただけだ。後は黙ってしまった。
「あのさ」と春崎が言った。「前から思ってたけど、死ぬことにわかりやすい理由なんてないんじゃないかな。うまく言えないけど、生きてきた時間全体が、そうさせてしまったわけであって」
 春崎は、自分は一体なにを話しているのかと戸惑いながらもこう続けた。
「ヒロの生きてきた時間の全部に死の原因が潜んでるんだよきっと。場面場面に、死のきっかけの濃度みたいなのはあるだろうけどさ。だから俺、思うんだ。俺とさやかがヒロといた学生時代に、なにかできてたら、なにかでヒロを変えられていたら、ヒロは今、死んだりしてなかったんじゃないかなって」
「それって、私たちがヒロを救えたかもしれないってこと?」
「あくまで可能性としてっていうか」
 こんなこと、言わなくてよかったかもしれないと春崎が思ったのは、ヒロの口調に壁を感じたからだ。
「そう思ってくれるなら、今の僕を救ってよ。僕がいる意味を、僕に教えて」
 とヒロはどこかヤケになったように言った。
 ああ、と頷いた春崎は、葬儀場にいたサングラスの男性のことをヒロに話してみた。
「なんか思い出す?」
「いや――。誰かなあ」
「そっか」
「春崎、そろそろ時間じゃない?」
 さやかに言われ、慌てて支度をして家を出た。 
 今日の夜、さやかの両親と会食の予定があるのだった。
 行きの電車の中で、春崎は取引先の「生産者さん」や同僚に送るメールの文面を考えた。
 ヒロを変えられていたらという思いが、後悔したくないという気持ちになっていた。なんだって後悔したくない。今できることをやらなくちゃ、と。ブログのための取材時に「生産者さん」が話してくれた物価高や孤独を不安に思う気持ちを、なかったことにしたくないと思った。ポジティブなだけではないことも活かしていけないだろうか。今度のインタビューの方針について相談するメールの下書きをスマホに打ち込み、一段落が着いて顔を上げると夕陽が電車内に差し込み、きらきらと輝いていた。隣でさやかが眠っていて、自分の肩に頭を乗せている。
 なんだこれ、と春崎は思った。
 ヒロを変えられなかったのに、俺はヒロに変えてもらってる。
 こんなのって、ありかよ。

 レストランは東京駅近くのホテルの中にあった。以前春崎だけでさやかの両親と会食した時のように、この店もやたらと薄暗かった。創作中華料理を出す店のようだったが、わざわざさやかの両親に挨拶をしにきたシェフの顔は照明でよくわからなかった。
 さやかの両親は、仕事の近況や、ふたりの家での生活についていくつか尋ねたあと、この間春崎にしたような話を今回も続けた。子どもはいつできるのかということを手を替え品を替え聞いてくる。何度も同じ意味の言葉が続くと、春崎にはそれが目の前の中年の男女から発せられているのではなく、暗闇そのものから聞こえる声に感じられた。「子を産め」「子を産め」と繰り返す声。産むことのない自分でさえ、放っておいてくれ、そんなのは個人の自由だとストレスに蝕まれる。春崎は、離婚に至るケンカをした時にさやかが、女ってだけで心が擦り減ると言っていたことを思い出した。心が擦り減るどころか、こんなことを求められ続けていたら、壊れてしまわないか? そういうのも、俺が男だから気軽にそう思えてしまっているだけなのか?
「それで、今日はなんの用?」
 ひと通り話し終えたさやかの母親がそう言った。
 店を指定したのはさやかの両親だったが、会食の約束を取りつけたのはさやかだった。暗い中でも、春崎にはさやかの顔はよく見えた。
「うん」
 というたったひと言で、さやかの顔つきがどのようなもので、これからなにを言おうとしているのか、春崎にはわかるのだった。
 離婚のことを、話そうとしている。
 さやかは緊張しているのか、浅い呼吸をしていた。
 テーブルの下でさやかの手を握った。
 がんばれ、と応援するのは違う。
 だってこれは、ふたりの問題だ。自分たちはもう決まった肩書きを持たないけれど、離婚をしたのはふたりの決断だ。春崎は、さやかの声に自分の声を添えるようなつもりで手に力を込めた。
 さやかは驚いたようにこちらを見て、それから微笑んだ。
「やっぱり、話す前にお手洗いいってくる。迷子になるといけないから、春崎もついてきてよ」
「え?」
 さやかに手を取られてレストランの外へ出る間際、「なにか私たちにサプライズかしら?」とさやかの母親が小声で言うのが聞こえた。
 廊下に出ると、春崎はさやかに聞いた。
「伝えるんだ?」
「あ、わかった?」
「俺も半分背負う」
「そりゃあね。だから先に、春崎に言っておこうと思って」
 店の方を見ると、蛍のような小さな光が揺らめいていた。窓際の席の客が誕生日で、ろうそくの挿さったバースデーケーキが運ばれていた。拍手が止むと火が吹き消され、写真撮影のためか店内の照明が明るくなった。ケーキが運ばれた席のドレスを着た五人組の女性たちが店員に写真を撮ってもらっている。
「さやかのお父さんとお母さん、ショックだろうな」
「まあね」さやかは一瞬憐れみの表情を見せたが、それを振り払うように笑顔でこう続けた。「でも、あの人たちはショックなだけだから。私たちの離婚は、私たち以外にとってはそれだけの話だから」
 席に戻ると、さやかの母親が「一体なんの話?」と言った。
 心の内側から漏れ出すような笑みだった。よろこびが待ち受けていると知っているのを隠しきれない子どものようだった。
 強気だったはずのさやかも、一瞬ひるんでしまった。
 その一瞬に、まずいことが起こった。
「さやか?」
 と声がした。見ると、誕生日のテーブルの方から、ひとりの女性がこちらに手を振っていた。
「え? ひとみ?」
 女性が「わ~」と言いながら席を立って近づいてくるので、さやかも同じように「わ~」と言った。春崎は、その女性に見覚えがある気がした。どこかで会ったっけ? 誰だか気づいた時には、なんで今薄暗くないんだよ、と心の中で舌打ちをした。
「もしかして、り戻したの? えー、よかった、ね?」
 と彼女はさやかと春崎の顔を交互に見て言った。それから、「あー。どーもー」とさやかの両親に会釈する。彼女は、離婚届を出した時に証人になってくれたさやかの友人だった。
「縒りを戻したって、なんのことです?」
 さっきまで口数のほとんどなかったさやかの父親が言った。
「え? だって、ふたりは、離婚したばかりじゃ……」
 そこまで言ってようやく空気の不穏さに気づいたのか、さやかの友人は、「あっ、すいません私。余計なことを……」と言って、避難するように自分の席に帰っていった。
 春崎がさやかの両親の方を振り返る前に、さやかの声が響いた。
「違うの! 隠してたわけじゃなくて。たった今、ちゃんと説明しようとしてたところで。それは本当なの。信じて。ねえ!」
 さやかが必死に弁明したが、さやかの母親は、「じゃあ離婚っていうのは本当なのね」と表情を凍らせていた。
 凍った顔面はみるみるうちに溶けていき、噴火寸前のように赤くなった。それでも体面を気にしてか、さやかの母親は小声になった。小声で出せる精一杯の威圧といった感じで、「恥を知りなさい!」とふたりに向かって言うのだった。
「なに。なんなの。なんなのあんたたち。いっしょに住んでるんでしょ? ふ、ふしだら! ふしだらだ」
 ふしだらなんて言葉、言われるのはもちろん、人が言っているのを聞くのさえはじめてだった。自分ひとりに向いた言葉なら、まだ我慢ができたかもしれない。でも、その侮辱はさやかにまで向いているのだ。
「放っておいてくださいよ」
 と春崎は怒鳴った。
「ちょっと」とさやかの母親が声を控えるように求めてくる。そのことにも春崎は苛立った。さやかの両親が気にしたのは、自分たちが怒鳴られていることよりも、自分たちが場違いな声量の男の連れであることらしかった。
「自分の娘のこと、思い通りにしようとしないでくださいよ。どんな風に生きてたっていいでしょ。どう生きるかなんて、ささいなことでしょ。だって、生きてるんだから。あんたたちの娘は生きてて、ちゃんと会える関係なんだから。ちゃんと話ができるんだから。これから、どうとでも変わっていけるんだから。それなのに、自分の常識で型に嵌めて決めつけたりしないでくださいよ」
 さやかの母親は、春崎の反論にはじめは面食らっていたが、だんだんと心配するような目つきになっていった。
「生きてる……? あなた、なんの話をしてるの?」
「大事な、大事な時間なんだよ」
「悠太くん、大丈夫か」
 とさやかの父親までもが心配してくる。
 何事かと駆けつけたスタッフに、さやかの父親は新しいおしぼりをくれと言った。そうして、すぐに用意されたおしぼりを春崎に渡した。
 は? なんだ? 
 ああ俺、泣いてるのか。
 最近、涙腺ゆるいな。熱いおしぼりを目にあてると、とめどなく涙が溢れてきた。
「俺は……俺は……さやかのこと好きです」
 その言葉に、さやかの両親も、さやかさえフリーズしている。
「だったら、なぜ」
 とさやかの母親が、春崎ではなくさやかの方を見ながら言った。
「いこう」
 さやかに手を掴まれた。そのまま、レストランの外へと連れ出された。いつの間にか、さやかはふたり分の荷物まで持っている。
「あのさあ。ひとりでかっこつけるのやめてよ。それに、おしぼり目にあてたまま言うことじゃないでしょ」
 さやかは、怒ったような顔をしている。
「そういう気持ちってさあ、まずは私に話すことでしょ? あそこで言ったらかっこいいとでも思った?」
「……ごめん」
 さやかは長いため息を吐くと、微笑んだ。
「私たちの家に帰ろう」

 

(つづく)