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 さやかの親から食事に誘われたのは、離婚届を出して一週間後のことだった。春崎とさやかのふたりではなく、春崎だけが誘われた。どうして俺だけ……と春崎は思いつつ、離婚のことはまだ話していないのだから、いくしかなかった。指定されたのは代官山の料亭だった。店内はやたらと薄暗かった。年配の人がこういう店を予約するのは意外に思えたが、重たい扉を開けて入った個室は明るかった。さやかの母の話だと芸能人御用達の店らしい。そう俺に伝えることで自分も芸能人と同じようにひとかどの人物だとアピールしたいのか、と春崎は苦笑いした。さやかの父は相変わらず無口で、たまに口を開いたかと思うと、「子どもはいつできるんだ?」とデリカシーのないことを聞いてくる。つくづくこの人たちのことが苦手だ、と春崎は思った。でも俺とさやかは、結果的にこの人たちを裏切ったかたちになるんだよな、と春崎は努めて愛想良く、同情するような口調で「大丈夫ですから」と答えた。
「俺たち、大丈夫ですから、ぜんぶ、任せてください」
 さやかの母は一瞬表情を固めたかと思うと、パッと笑顔になった。
「そう。それはよかった! 娘はこういうこと口出されると怒るのよね。悠太さん、できるだけ早く孫の顔を見せてね。性別は、やっぱり最初は男の子がいいかしら」
「あははー。そういうのは、俺とさやかの事情ですしね」
 にこにこしながら春崎は言う。
「さやかの体のことですしね」
 と続けたが、言いたいことがふたりに伝わっているとは思えなかった。会食の間、そういった話題になる度に春崎は、なんだって個人の自由だろ、ということをそれとなく言葉にしたが、親が口を出すことじゃない、とまで言うのは、このふたりに酷な気がした。このふたりは、娘の結婚が終わったということをいずれ知ることになるのだから。
 家に帰ると、さやかがリビングで待っていた。ソファに腰掛けながらこちらを向き、「どうだった?」と聞いてくる。
「疲れた」
 春崎は苦笑いした。
「ヒロは相変わらず?」
 とさやかに聞きながら、なんだかペットの具合を心配するみたいだな、と思う。
「ずっとこのまんまだね。動かないし、喋ったりもしない」
「そっか」
「うちの親になに言われた?」
「うーん。子ども早く見せろって」
「あー」
「俺だけを呼び出してそういうプレッシャーかけてくるのって、ちょっとエグくない?」
「余計なお世話すぎるよね」
「俺たちって今、恋人ですらないんだよね?」
「そうなんだろうね」
「じゃあ、友だちですらない?」
「それはちょっと、微妙なんじゃないって私は思うけど」
「俺もそう思う。でもはっきり『友だちの関係』っていうのでもないじゃん。俺たちって、なに? 意味わからんくね?」
「ね。意味わかんないけど、『腐れ縁』とかなんじゃない?」

「生産者さん」に取材を行う日だった。かぼちゃ畑に現地集合で、東京から茨城まで二時間ほど車を走らせた。収穫の様子を動画に収めさせてもらったあと、インタビューを収録した。中年の生産者さんは、他所からきた人と話すことに飢えていた、といった様子で、春崎が用意してきた質問以外にもなんでも話してくれた。物価高騰のあおりがきついということや、自分は結婚もしていないから将来は孤独死してしまうだろう、ということを率直に話してくれたが、ホームページのブログには「おいしさでみんなを元気にしたいですね」などといったポジティブな言葉しか書くことができないし、載せることができる写真は笑顔のものだけだ。そういう風にしているのは紛れもなく自分なんだ、ということを帰りの車内で延々と考えた。それを考えていること自体に、どうしてだろうと思う。どうしてちょっと俺は、しんどくなってるんだ?
 家の冷蔵庫には発泡酒の缶が常備されていた。この間、酔うとヒロの見え方が変わったりするだろうかとしこたま飲んでみて以来、アルコールを摂取するのが習慣づいてしまっていた。その日も仕事から帰ると発泡酒をあおった。すぐに、血管が膨らんだようなズキズキとする頭痛がやってくる。この頭痛に、どこか落ち着いている自分がいる。自分自身を痛めつけたいのかもしれない。誰かから罰されたいのかもしれない。でもそれが、なにに対しての罰なのか、自分でうまく捉えきれない。
「やってられねえ」
 ソファに勢いよく腰を下ろして、ヒロに愚痴をこぼした。
「なにもかも、めんどくせえよ」
 なにもかも、の詳しいところまでは言葉にしなかった。その中にはヒロのことも含まれていたからだ。返事をしないからといって、聞いていないわけではないのかもしれない。幽霊だからといって、なにを言ってもいいわけではないだろう、と春崎は考える。
 伝わっているかどうかはわからないけれど、写真とか絵画とか、思い出とかそういうふわふわとしたものに語りかけるつもりで、春崎はヒロに話を聞いてもらった。「ただ生活してるだけなのにどうして息苦しいんだよ」と口にする。
「さやかとのことも、不安なんだ。さやかのことが好きなままなのに、好きっていっていいのかな、なんて考えてしまう。俺はいったい、なにに縛られてるんだろう。離婚したっていう、体面みたいなものに? 誰にも言ってないのに、心のどこかにはずっとそのことがのしかかってる。俺の心の中に世間があって、俺のことをずっと見張ってるみたいなんだ。でも、ずっとそうだった気がする。なあヒロ、大袈裟かもしれないけど、俺って今まで、どうやって生きてきたのかな。流されて生きてきただけなのかなあ」
「なにしてんのー」
 声がして、春崎は驚いて振り返った。
 いつの間にかさやかが家に帰ってきていた。
 キッチンに突っ立って、やたらとにやにやしながらこっちを見ている。ヒロに弱音を漏らしているところを、しばらく聞いていたのかもしれない。そう思うと春崎は途端に顔が赤くなった。
「私も、話聞いてもらおうかな」
 さやかはヒロに向かって話しはじめた。
「わがままかもしれないけど、春崎と気まずくなってるのがけっこうしんどい。別に、めちゃくちゃ仲良しとかじゃなくていいんだ。ただ、普通でいられたらそれでいい。無理に理解し合おうとしたりしなくても、私たち違う人間なんだから、バラバラのままで普通にいられたらいい。そう思うけど、気まずくさせちゃったのは私のせいなのかなとかも思う。元々ほら、結婚したいって言い出したのは私の方だし、結果的に春崎のことを引っ張りまわしたかたちになる。だから、もし離婚したことで春崎がしんどい思いしてるなら、春崎が気に病むことはないよ。誰かに言う機会があれば、全部私のせいだってことにしていいし、春崎もそう思ってくれていい」
 これって、ヒロに向かって話してるんだよな?
 そのことを声に出してみると、「そうだよ」と返ってくる。
「ただひとりごと言うみたいに、私はヒロに話してるだけ」
「全部私のせいにしていいとか、それってズルくないか?」
「え?」
「俺も、ヒロに話してるだけだから。結婚も離婚も、ふたりで決めたことなんだから、ふたりで分け合うのが普通だろ」
「そうなのかな。私たちお互い、なにを意地になってるの?」
「うん? まあ、そうだな。意地になってる。でも俺は、どう意地になってるのか、うまく言えない。なあ、俺とまだ、いっしょに暮らしてくれる?」
「そこ詰めて」
 ソファの後ろにさやかが立っていて、春崎は言われた通りに端に寄った。さやかは背もたれをまたいで腰を下ろした。ヒロがいて狭くなった分だけ、ふたりで身を縮めてソファに身を収めた。こんなに近くにさやかの体があるのはひさしぶりで、少し緊張した。柑橘系の香水のにおいがした。
「俺ってどんなにおい?」
 なに言ってるんだ、と思いながらも声に出ていた。
「どんな?」
 さやかは春崎の部屋着に顔を寄せた。春崎の手を取って、指のにおいを嗅いだ。
「うん? 皮脂? 油っぽいっていうか。これ、皮脂のにおいじゃない? それから……」
 春崎の首元に鼻をあて、すーすーと空気を吸い込んだ。
「バターのにおい。甘いにおい」
「バター?」
「知ってた? 春崎の首ってバターのにおいと、イースト菌みたいなにおいするんだよ?」
「えっ、そうなの?」
「でもそれって、加齢臭なんだって」
「まだそんな歳じゃないだろ、俺」
「生きてるにおいだよ。いいにおいだと思うけどな」
「あっそう」
 春崎が少し照れながら言うと、さやかは棒立ちのヒロのスウェットパンツに顔を近づけた。
「におう?」
「なんにも」
「ねえ。ヒロは私たちのことどう思ってんの?」
「えっ!」
 春崎は思わず叫んでしまった。
「なによ」
「今さあ、ヒロ、まばたきしなかった」
「嘘でしょ?」
 さやかとふたりで、ヒロをじっと見上げたが、相変わらず全く動かないままだ。
「いや、したんだって。ほんとだって!」
 はいはい、とさやかには受け流された。
 その日以降春崎は、ただの錯覚だったのかもしれないと思いながら、でも俺とさやかが話しかけたことがなにかの刺激になったのかもしれないと、家にいる時間は頻繁にヒロに話しかけるようになった。おまえはヒロなんだと自覚させるように、頻繁に名前を呼ぶようになった。テレビやYouTubeでクイズ番組が流れていると、「ヒロにはわかる?」と率先して質問をしたり、戦争のニュースを見ながら「なんでこんなことするんだろうな」と相槌を求めたりした。最初の方はさやかは微笑ましく見守っていたが、そのうちに春崎の試みに参加するようになった。それでヒロになにか変化があると期待しているわけではないようだったが、さやかはシンプルに家での話し相手が増えたと感じているようだった。春崎とさやかはふたりでソファに座り、自分たちがこれからどう過ごしていくかは宙吊りにしたまま、ヒロに話しかけ続けた。
 変化が訪れたのは、あまりに暑くてセミの鳴き声すら聞こえない夏の日だった。
 家から少し歩いた谷中のあたりに、夜遅くまで営業している花屋がある。
 夏の間、さやかは定期的にそこで小ぶりな向日葵を買ってきてはリビングに飾っていた。今までは花や植物にさして興味もなかったから、突然始めた趣味らしかった。
 冷房の風があたるといけないからと、花瓶にさされた向日葵はソファの後ろの床に直に置かれた。そんな見えにくいところに置かなくても、と春崎は思ったが、さやかには、花を愛でたり、部屋に彩りを添えたりすることよりも、できるだけ枯らさずに長生きさせることが大事なようだった。
 それでも、向日葵はよく枯れた。切り花の日持ちは五日程度らしかったが、明らかにそれより早く、ひどい時には一日で枯れた。状態の悪いのを買ってきてしまったんじゃないか、と春崎は思ったし、実際にさやかにそう言ったが、さやかは「どうしてだろう」と言いはするもののさして疑問には思っていないみたいだった。
 トライ&エラーというか、今はまだなにかの上達に至る過程で、失敗は仕方ないのだと割り切っているような感じだった。向日葵を買ってきてはすぐに枯れる、というのが何度か繰り返されたタイミングで、「わかった」とさやかが言った。ソファの後ろにしゃがみ込んで、しおれた向日葵を花瓶から抜いて手に持っていた。その姿勢でヒロのことを見上げていた。
「ヒロの栄養になってるんだよ。ヒロが花の生命力を吸い取ってるんだ」
 おいおい、と春崎は思った。
 言おうかどうか迷って、「スピリチュアルかよ」と、冗談めかして言った。
「だって、それ以外に原因考えられる?」
「あんまり、そういう方向にいくのはよくないんじゃない?」
 言いながら、ふたりともがヒロの幽霊が見えてるこの状況がいちばんそうだよな、と苦笑いした。他人に話したら、おかしくなったと思われかねない状況に自分たちはいるのだ。
「でもそうだな、なにか影響はあるのかもしれない」
 影響はあるかもしれない、と思うのも、ヒロの栄養になっていると思うのも、ヒロの幽霊と暮らしているという事実の中では大差ないのかもしれない。
 さやかはしおれた向日葵をキッチンペーパーに包み、壁掛け時計に目を遣った。
「まだお店やってるし、新しいお花買ってこようかな」
「たまには俺もいこうかな」
 いってきます、とヒロに声をかけて家を出た。熱帯夜だった。湿気が肌にまとわりついてくるように不快で、時々さやかがハンディファンの風を春崎に向けてくれた。
 においの満ち満ちた花屋でこの日も向日葵を選び、コンビニでアイスを買って家に戻ったのは二一時頃だった。玄関のドアを開け、ただ習慣としてヒロに「ただいまー」と言った。
「おかえり」
「え?」
 春崎とさやかは顔を見合わせた。
「ただいま?」ともう一度言ってみる。
「おかえり」
 と囁くような声で聞こえる。
 急いでリビングに上がると、ヒロの幽霊がこちらを向いた。
「あれ? 僕の声、聞こえてる?」
 とヒロは言った。とても小さな声だった。
「ぎゃあああ」
 さやかが、歓声とも悲鳴ともつかない声で叫んだ。
 春崎はただ放心していた。口になにかぬるいものが流れ込んできて、涙がどばどば流れているのだと気がついた。
「あ。聞こえてるんだ。よかったあ」
 ヒロ本人はさして驚いていない様子で、「大丈夫?」とさやかを気遣っていた。「えー。ひさしぶりだね。ふたりとも」と笑い、大きなあくびをした。
 春崎は、ヒロが話していることと同じくらい、動くことができて、自分たちに笑顔を見せているということに胸を打たれた。
「ヒロ、どうして」
 どうして急に話せるようになったんだ。どうして俺たちのところに現れたんだ。どうして、死んじゃったんだよ。
「ねえ、僕って、どうなってるの?」
 長い眠りから起きたばかりのように、声がしわがれている。
「自分でもわからないの?」
 さやかが聞いた。
「気づいたらここにいたんだけど……体が、なんか変なんだ。体が、とっても軽くてふわふわしてるのに、へその下のあたりがずんと重くて、気持ちが悪くて……」
「覚えてないの?」
「なにを?」
「その……ううん。なんでもない」
 さやかが、手に持っていた向日葵を床に落とし、ヒロを抱きしめた。
 涙目になりながら、さやかは春崎の肩にも手を回した。
 春崎はふたりを覆うように手を回し、三人で抱き合った。
 ヒロの体に触れる感覚は、以前と変わらなかった。なにか透明な膜を張られているような隔たりがあるままだった。それでも、ヒロの体が動いて、戸惑いながらも自分たちを抱きしめ返しているのは、奇跡みたいなことだと思えた。
「うううう」と春崎は声を上げて泣き、さやかもそれに応じるように泣いた。
 ふたりに囲まれたヒロだけが、「ええ? なになに」と苦笑いしている。
 それから、なにかに合点がいったみたいに、「ああ!」と言った。
「そっかー。僕、死んだのか」
「……思い出したのか?」
「一瞬のことだけ。体が自分を追い越すみたいな、ジェットコースターが急降下する時みたいな、内臓が浮き上がる感じ。それがきたと思ったら、夜の道路が視界いっぱいに広がって、僕はさかさになっていて、歩道を歩いてる人もいたかな。申し訳ないなあ、ってすごく思った。こんなところに居合わさせてしまって、って。ほんの一瞬のことのはずなのに、そう思ったのを覚えてる。そのあとは、真っ暗でね。ずーーーっと、なにかに閉じ込められてるみたいな感覚が続くんだ。長いこと闇の中にいたような気がする。そしていきなり目が覚めたと思ったら、ふたりがドアを開けて、この家にやってきた」
 話をする時の息遣いがヒロのものだった。不確かな幽霊としてのヒロの姿かたちから、ヒロをヒロたらしめるものが湧き出ているみたいで、目の前にヒロがいる、と春崎は余計に実感した。

 

(つづく)