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 春崎は、長い間閉じていた目をようやく開けた。目の前には、同じ形をした墓石が並んでいる。ヒロの墓は公営霊園にあった。自分のところの墓にも入れないのかよ、と春崎はヒロの親に対して怒りを覚えたが、墓前で抱く感情ではないだろう、と努めて気を落ち着かせた。隣で手を合わせていたさやかが立ち上がった。
「よし、いこうか」
 春崎は大きく息を吐きながら頷いた。
 家の方まで戻り、六月のまだ梅雨には早い曇り空の下を歩いて、区役所へ向かった。
「緊張する」
 と春崎がしきりに言い、その分さやかは落ち着いていた。順番札の番号が呼ばれて、窓口へ向かう。
「どっちが言う?」
「うん?」
「いっしょに?」
「ああ、恥ずくない?」
「いいじゃん。いくよ。せーの」
「婚姻届を提出しに――って、なんで俺だけ言ってんの」
 ふざけていると窓口の職員が、「お届け用紙確認いたしますね~」と春崎の手から記入済みの婚姻届を受け取った。
 これで終わり? そう思うほどあっさりと受理された。さやかの父親に証人のひとりになってもらった気苦労を思うと、つい苦笑いしてしまう。
「うちら、新婚さんだね」
 さやかがぎゅっと腕を絡めてくる。
「素敵なお嫁さんになるね」
「え?」
 お嫁さん? さやかを見ると、目つきが妙だった。なんだか、溶けたようになっている。ヒロが昔言っていた、俺とさやかが似てきた、という言葉を思い出した。あの時にすでに似ていたなら、今はもっと似てるはずだ。俺も、こんな目をしているのか?
「実感ある?」とさやかに聞いた。「結婚したっていう」
 さやかがもっと身を寄せてきて、俺はまだ実感ないんだけど、という言葉は慌てて呑み込んだ。代わりにこう口にする。
「せっかくだから、歯ブラシとか全部変えない?」
「いいねそれ。めちゃくちゃいいね」
 うふふー、と笑っている。
 家の近くのドラッグストアに寄った。新婚というよりも、つきあいたてみたいにはしゃぎながら生活用品を見ていると、さやかに電話がかかってきた。さやかが早速インスタグラムのストーリーにあげた婚姻届の写真を見て、仲のいい同僚からお祝いの連絡がきたようだった。
「あ、これも買っとかなきゃな」
 春崎はハンドソープが切れていることを思い出し、詰め替え用を手に取った。電話が長引きそうなので、これがいいかも、とさやかが言っていた歯ブラシなどもカゴに入れ、レジへ向かって会計をした。
 ふたりの暮らすマンションまで、長い坂を上った。ビニール袋の取手を片方ずつ持って揺らしていると、春崎はある光景を思い描いた。将来子どもができたら、こういう風に三人で並んで歩くんだろうな。きっと何日も何日も訪れるだろうその日は、想像の中では決まって陽気で、いい日だった。
「なにこれ」
 隣から聞こえるさやかの声はざらついていた。もう一度「なにこれ」と言う。
「なにって」
「だからこれ」
 さやかの視線は袋の中に注がれている。
「え? ああ。ごめん。また間違えちゃった」
「わざと?」
「俺、戻って買ってこようか。液体タイプじゃなくて、泡タイプの詰め替え用」
「別にいい」
「なに怒ってるの?」
 春崎は甘えたような声を作って、逆効果だろうかと思いながらも、あやすみたいにさやかの後頭部を撫でる。どうして怒ってるのか、わけわからないけど、どうせ俺が悪いんだろうな、と心の表面をへこませながら。
「春崎はうれしくないの?」とさやかが言った。
「うれしい? なにが」
「聞き返すってことは、やっぱり、そうじゃん。結婚、あんまりよろこんでないでしょ」
「うれしいよ。ただ、実感がまだないだけで」
 なんでよ、とさやかが春崎の肩を叩いてくる。袋が揺れて、上の方に置いていたスポンジがぽんと飛び出す。坂を滑っていこうとするそれを拾おうと春崎は腰を屈め、頭に血が上っていくのを感じる。「あのさあ」と中腰のまま、さやかの方を見ないで言った。
「わかんないよ俺、さやかが望んでること。気持ちがいっしょじゃなきゃダメ? 気持ちの足並みみたいなもの、別に揃ってなくてもいいじゃん」
「夫婦になったんだよ」
 そう言われて春崎は、他人事みたいに思う。俺たち、夫婦になったんだ。
「春崎、ぽかんとしてる。別にうれしくもなんともないんだ」
「さやかは、うれしい?」
「私は、うれしい。ずっと、結婚したら社会から認められて、それでなにか肩の荷が下りた気分になるのかなとか、そういうことばかり考えてきたけど、今はそれよりももっと、純粋にうれしい気持ちの方が強い。春崎ともっと深く繋がれてるみたいな気がする。でもそれって、私だけだね」
「え?」と春崎は笑った。笑ってもいいと思った。「あんな紙切れ一枚でそこまで思う?」
「あんなって。もういい。もういいよ」
「そういう態度、やめろよ。さっきから自分だけが傷ついてるみたいな、そういうのさあ」
「どっちが」
「だって、だって俺は、そうだよ。俺は傷ついてるよ」
「へえ、そうなんだ」
「俺は……俺ばっかりがさやかのこと気遣ってて、俺はさやかから、大事にされてる気がしない」
「春崎はそう思ってるんだ」
「なんだよそれ。言いたいことあるなら、言えよ」
「……結婚やっぱりやめとく?」
 さやかは、冗談みたいにそう言った。
「そんなこと言うなよ!」
 春崎は声を荒らげたが、自分がなにに対して怒っているのかよくわからない。
「俺、さやかのこと好きだって! さやかのために結婚選んだのに」
 思春期みたいに、こんなこと言ってる場合か? 自分の言葉選びのどうしようもなさに、笑ってしまいそうになる。ヤケになったみたいな明るさと本心が、さやかに伝わればいいのに。
「私のためにって、なに。じゃあ春崎は、本当は結婚したくなかった? 春崎自身は結婚を望んでなくて、私のために結婚してやってるってこと?」
「そんなこと言ってない。俺はただ、さやかを守ってやらなきゃって」
「それ……。それさあ、それが私のこと蔑ろにしてるって、わからない? 私、春崎といっしょにいるのは、いっしょにいるようになったからとしか言えないよ。春崎には別に、私のしんどさを理解してくれなんて求めてない。私個人の問題について、春崎はいっしょになって悩んだりしなくていいよ。どうせわからないし、わかってくれないことが居心地がよかったりすることもある。だから、守ってやらなきゃなんて、そんなの、春崎に期待してないよ」
「そういうのがいちいち俺を……」
「傷つけてるって? そうかも、私、そういうことがしたいのかも」
「なんなんだよ! 求めてないとか、期待してないとか、さやかは、さっきからなにを諦めてるんだよ」
 春崎が気持ちをぶつけるほどに、さやかからは表情が消えていった。抑揚のない声でさやかはこう言った。
「春崎にはわからないよ。女ってだけで心が擦り減っていって、だからいつもいつもまるい気持ちで他人と接するしかないって想像つかないでしょ」
「いや、は? 今、性別がどうのこうのじゃないだろ。俺らの話だろ」
「いいよね、春崎は。自分のことを考える時に、男だからどうこうって考えないで、ただ春崎悠太として自分のことを考えられる。でも私はそうはいかない。女として見られて、女として扱われてるってことを、どうしたって自分の一部として見るしかない。そういうの、わかる?」
 春崎は黙ってしまった。わかる、と咄嗟に言いたくなった気持ちに蓋をした。俺だって別に、男社会が楽なわけじゃない。でもそれは、楽なわけじゃないという程度で、さやかが言っていることとはきっとまるで釣り合わないのだろう。その「まるで」がどれくらいなのかと、俺には想像するしかない。
「わからないよ。さやかのしんどさなんて、なにひとつわからない」
 と春崎は言った。それが、さやかが望んでいる言葉だと思ったから。
 でも俺は、わかりたいんだけど。
 俺とさやかの話じゃない、「男女」の話になってしまったのが、無性に悔しかった。でも、そう思うこと自体がやっぱり、さやかには──。
 春崎は、六秒ゆっくり深呼吸した。怒りを静める方法なのだと、職場かどこかで聞いた気がする。それから春崎は、おだやかな口調でこう言った。
「区役所、戻ろうかー」
 春崎の言葉に、さやかは一瞬、事故でも目撃したかのように目を見開いた。けれど、すぐに頷いた。
 坂を下って区役所に向かう間、ふたりはスマホを見ながら、婚姻届を出してすぐ離婚ができるのかどうかをお互いに調べた。「協議離婚だったらいいって」「証人がふたり要るっぽいね」と知り得たことを共有していると、ふたりでゲームでもしているみたいだったが、流石に楽しめなかった。春崎は、お互いの親にどうやって説明しよう、と陰鬱な気分になりながら、けれど、婚姻という契約関係から自分が外れるのだと思うと、どこか楽になる部分もあった。さやかともうこれきりかもしれないなんていうことは、考えつきもしなかった。
 証人のひとりはさやかの友人が務めてくれることになった。電車で二十分ほどの場所に暮らしている彼女は、さやかからの「急にごめんね」と謝ってばかりの電話を受け取ると、タクシーで駆けつけてくれた。姿を見るなりさやかを抱きしめ、「大丈夫、大丈夫? しんどかったね。ご飯食べれてる? 眠れてる?」と矢継ぎ早に言った。春崎のことは視界に入れようとさえしなかった。さやかが、「話し合ってこうなった」とフォローしてくれたが、彼女はまるで春崎がDVでもしたんじゃないかと考えているかのように、春崎のことを無視し続けた。それは俺が、男だからか? それで俺に、こういう時に呼び出せるくらい仲の友人がひとりもいないのは、俺のせいか?
「あの……すみません」
 春崎は、区役所の福祉課の前でベンチに腰掛けていた温和そうなおばあさんに話しかけた。できるだけ、孫みたいな笑みを浮かべながら。なんだか騙そうとしてるみたいだなと思いながら、事の経緯を説明する。離婚届の証人になってくれませんかと説得しようとする。春崎だけではマズいと思ったのか、さやかもそこに加わり、「ハンコはいらないんです。お名前と、生年月日とご住所と本籍地だけ」ますます詐欺みたいになったが、おばあさんは、自分を説得してくる春崎とさやかをどうしてか進歩的なカップルだと勘違いしたようだった。「最近は離婚もめずらしいものじゃないものね。自分たちの道をいかなきゃ」と感心したように言いながら証人欄に記入してくれて、その様子を見ていたさやかの友人は、詳しいことは理解できないなりにも、暴力沙汰ではないのだということだけはわかってくれたようだった。はじめて視界に入ったかのように春崎のことをじろじろと見てから、「へえー」と言い、軽口を続けた。「逆に、あれじゃん。すぐでよかったじゃん。苗字の変更手続きとかいろんなところでしちゃった後だったら、もっとめんどくさいことになってたかもじゃん」
 さやかの友人と、見ず知らずのおばあさんに見守られながら離婚届を提出した。受け取った職員は言葉を探すように数秒黙り、婚姻から離婚までに間がないケースというのは初めてなのか、奥へと引っ込んで上司になにか確認したあと、努めて冷静に「ではこちらで大丈夫ですので」と言った。
 一体、なにが大丈夫だというのだろう。
 これからどうするのか、ふたりはなにも決められなかった。
 春崎はただ、なにか人生の一大事を乗り越えたような満足感にも似た気持ちと、その何倍ものさびしさで胸がいっぱいで、うまく言葉が出てこなかった。
 さやかは、どうだろう?
 さやかの表情を見ても、なにもわからない。
 前よりも他人なんだ、と春崎は思った。それでも、こんな結果になっても、さやかの本心を知れたのはよかった気さえする。
 今の俺たちって、なんなんだろう。
 さやかの友人とおばあさんにお礼と謝罪をひたすら繰り返し、ふたりと別れて家へ向かった。そうする以外になかった。嫌いになったわけでは、嫌われたわけでは、ない、と思うから。
 家に帰ると、そいつがいた。
 ふたりがずっと捨てられないでいるマスタード色のソファの隣に立っていた。
 玄関を開けると人の姿が飛び込んできて、春崎は声にならない悲鳴を上げながら、スマホで一一〇番しようともたついていた。さやかはかばんを探って、小さなスプレー缶を取り出した。催涙スプレーのようで、そんなものをさやかが持ち歩いているということを、春崎ははじめて知った。ふたりともその男を、完全に強盗かなにかだと思っていた。
 警察に電話が繋がって、「あ、あのっ」と春崎が言ったが、すぐにこちらから電話を切った。さやかはスプレーをそっとかばんに戻し、こう言った。
「なんでいるの? ねえ」
 そこに立っているのは、死んだはずのヒロだった。
 ふたりを見て、昔みたいに笑った。

 

(つづく)