目が覚めると朝だった。カーテン越しの日光が頬にやわらかく差している。まだ寝ていたいと思ったが、テーブルの上のスマホは今日が月曜日で、もう家を出なければならない時間であることを示していた。さやかが家にいる気配はなかった。会社に向かったのだろう。起こしてくれたらいいのに、と微かに苛立ちながらソファから起き上がろうとすると、視界にヒロの姿が飛び込んできて「うわああ」と叫び声を上げた。
それから、「そうだったそうだった」と、つぶやいて気持ちを落ち着かせた。
ヒロのこと、どうしようか。どうしたらいいんだ? どうもしようがないよな、と、二日酔いからくる頭痛に耐えながら、急いで朝の準備をする。
「俺会社いくけど、ひとりで大丈夫か?」
と家を出る時にヒロに聞いてみた。当然のように返事はなく、ヒロは身動きひとつしない。
「いってくるからな。いってきます!」
とヒロに手を振ってドアを閉めた。
出社中も会社にいる時も、ずっとヒロのことが気がかりだった。
業務は一八時と早めに終わったが、夢でも見ているようなふわふわとした一日だった。仕事の中身自体は、他の日とほとんど変わらなかった。ホームページを更新し、取材予定の生産者さんの都合が悪くなったのでスケジューリングを見直し、来年が会社のメイン商品の周年にあたるため、インフルエンサーや動画配信者に広告案件を打診できないかを話し合う会議に出席した。合間の時間や仕事終わりには、いつものように同僚たちと少年漫画の考察をしたり、社内の人間関係の噂話をする。つきあいの少ない部署の誰々が休職した、上司からパワハラされたらしい、あの人、パワハラで有名で部署をたらい回しにされてるもんな、パワハラする方が休職すべきなんだよなあ……噂話も漫画の話も同じテンションで交わし、やたらと娘の写真を見せてくる先輩社員にやや大げさなリアクションを返しながらも、春崎は心ここにあらずといった気分だった。
突然、「結婚」という言葉が耳に飛び込んできた。
「え?」と思わず聞き返す。先輩社員が春崎に話しかけていた。
「春崎はもうすぐ結婚だっけ? あれ? もうしたんだっけか」
先輩からそう聞かれ、「いやあ、はは」と笑ってお茶を濁す。
「いいよなあ。今がいちばんしあわせだよなあ」
「え?」
「『え?』 って、さっきからなに驚いてんの。結婚するんだから、しあわせが待ってるよな、ってオレは言ってんの」
「あああー」
と春崎は間の抜けた返事をした。そんな春崎を、先輩は怪訝な表情で見つめる。
春崎は、もしかして、と思う。
この人の中では、「結婚」と「しあわせ」が結びついているのか。もしかしてみんなそうなのかな。俺は、そんな風に考えたこともなかった。
結婚がステータスとか、そういう風に思ったことはあるけれど。
結婚は、達成しておいた方がいい目標っていうか。
それを達成しておくことで人から舐められないもの。通過儀礼的なもの。達成しておくと、達成していないよりかは真っ当な人間だと他人から思われそうなもの。そういういろいろなステータスの中に「結婚」も含まれている気がしていた。つまり、人から舐められなかったら、それが俺のしあわせってことになるんだろうか?
春崎は、「すいませんちょっと、腹痛くて」と明るく言ってトイレに逃げ込んだ。
さやかと結婚したこと、そして離婚したこと。家に、死んだ友だちの幽霊がいること。自分はいくつも秘密を抱えてしまっている。どれも、他人には話せそうにない。話せないから秘密なのだけれど、少なくとも俺には、相談できる相手が思い浮かばない。
俺はたぶん、普通の人の身に起こらないことを体験してしまっている。普通の人と違うのかもしれない、そのことで周りの人たちと話が合わなくなっていくのかもしれないと想像すると、胸が締めつけられた。
だからと言って、俺はどうしたいんだ?
家に帰ったのは一九時頃だった。スーツも脱がずに、自室のベッドに寝転んでスマホゲームばかりした。腹が減った。キッチンの棚にはなにかインスタントのものがあるだろう。でも、なにをするのも面倒くさく、部屋に閉じこもっていたかった。気疲れが溜まっていたのか、いつの間にか眠ってしまった。
目が覚めたのは二二時だった。さやかが帰宅した様子はなかった。
春崎はふとこう考えた。
さやかって、この家に帰ってくるのか?
家賃は折半していたが、引き落とし先の口座は春崎のものになっている。名義上も春崎が世帯主だ。その分だけさやかは、この家から出ていくことに後腐れがないのかもしれない。反対に俺は、家というものに縛られているのかもしれない。
自室を出て、カップラーメンにお湯を入れてできあがるのを待ちながら、「俺はどうしたらいいと思う?」とヒロにつぶやいた。
ヒロの幽霊と共にさやかが帰ってくるのをじっと待った。
ヒロがいることを奇妙なことだと思う一方で、ヒロがいてくれることによって心が落ち着く自分がいた。ヒロがいる景色の中に自分もいるんだ、という考えが頭に浮かんだ。それは悪いことではない気がする。なあ、と春崎は、半分ひとりごとという感じでヒロに話しかける。
「さやか、帰ってくるかなあ」
その数分後に、チャイムが鳴った。インターホンの画面を見ると、マンションのエントランスにさやかがいて、こちらに向けて手を振っていた。通話ボタンを押すと、「鍵持ってくの忘れちゃったー」と明るい声が返ってきた。
家に上がったさやかは仕事用のかばんの中から、手のひらサイズの小さな包みを取り出した。
「これ買ってきた」
「なにそれ」
春崎は、さやかが出ていかなかったことにホッとしながら尋ねた。
「お守りとお札。悪霊退散! ってね」
とさやかは、お札を掲げながら言った。
「ええっ? それ、ヒロに対して」
「まあ、これでヒロがいなくなったら悪霊だったってことだし、いなくならないんなら、ヒロのことを他の怖いおばけから守ってくれるのかなって」
なんだそれ、と春崎は思う。楽観的すぎじゃないか? と思う一方で、霊的なものに頼るのは、この奇妙な状況にあってはかえって現実的なことのようにも感じられた。
「どうかな、ヒロ」
さやかはお守りとお札を手に持ってヒロに近づいた。
「もしこれで、ヒロがいなくなったらどうする?」
おそるおそる、春崎が聞く。
「どうしようか」
と答えるさやかは、涙目だった。涙目になるくらいならこんなことしなきゃいいのに、と春崎は思うが、さやかなりに、なにか手応えがほしいのかもしれない。友だちの幽霊が現れたという事態に対して、できる限りのことは行った、という実感が。
結果としては、なにも起こらなかった。悪霊退散の呪具に対してもヒロはノーリアクションで、そのことに春崎はホッとした。
突然現れて突然消えるなんて、寂しすぎると思った。
それに、ヒロにはまだいてほしかった。
ヒロがいることで、さやかとコミュニケーションを取ることができていた。
離婚のきっかけとなったあのケンカ以来、ヒロの話題でしか、さやかとは口を利いていなかった。
それからもさやかは、この家にいてくれた。
ヒロがいるからだ、と春崎は考えた。ヒロのことが気がかりだから、さやかはこの家にいてくれているんだ、と。
実際、ふたりが気兼ねなく言葉を交わせるのは間にヒロを挟んでいる時だけで、それ以外は「無視」がふたりのコミュニケーションになっていた。到底まだ仲直りしたとは言えなかった。これまでなら当たり前のようにしていたことを、どちらか一方がしなくなると、もう一方もしなくなるのだった。たとえば、先に起床した方が相手を起こすだとか、時間が合う限り食事を共にするだとか、いっしょにテレビやYouTubeを見るだとか。
どちらかがリビングのソファに座っている時は、もう一方は自室に閉じこもるようにした。そもそも、ソファはそれまでより狭くなっていた。すぐ前に立つヒロが邪魔で、ふたりの人間が余裕を持って座るのは難しかった。
さやかとの微妙な距離感での生活が続いた。
これが家族間でのことなら時間が解決してくれるのだろうけど、と春崎はひとり悩んだ。今の俺たちの関係ってなんだ? と何度も考えた。なんでもいいからこの関係に名前がほしいと思った。名前という容れ物があるだけで、なにかが楽になる気がした。インターネットで検索をしたり、書店で本を立ち読みしたりしたが、自分たちの今の状況にあてはまるうまい言葉は見つからなかった。
だいたい、中途半端なんだ、と春崎はなにかに開き直るように考えた。
徹底的に憎み合って離婚したわけでも、建設的に話し合って離婚したわけでもない。ただ、その場のノリみたいなものに任せてしまった。ふたりともが、そうしなければいけない、という考えにがんじがらめになってしまった。かと言って、離婚に至るような心情が突然降って湧いたというわけでもない。その予兆は確かにあった。崩壊へと自分たちを導いてしまうようなすれ違いや苛立ちは確かにあって、それは、順調に結婚生活を送って離婚していなかったとしても、いつかは訪れていたのかもしれない。うまく言えないけれど、未来に起こるかもしれなかったことさえもが、坂道を登っていたあの瞬間にギュッと集まってしまった気がする。俺とさやかの悪いところが、あの坂道の上に集約されてしまった。そしてそれを、言葉にしてしまった。声に出して、相手に伝えてしまった。