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 翌日。春崎は出社すると、「春崎さんあれ、彼女さんの、前言ってたやつどうでしたか?」と後輩の宮地みやちから聞かれた。
「いやあ~。うーん。難しいよなあ。なんか、急に親族が増えるんだなあって」
 彼女の実家に挨拶にいくということは同僚たちに共有していたから、しばらく話のネタにされた。
 もちろん、さやかの両親やさやかに対しての愚痴は伏せておいた。
 春崎としては、「難しい」という言葉が、関係のない他人に対して漏らせる精一杯の気持ちだった。新しく親族が増えるのだから、新しくコミュニケーションのかたちを拵えないといけない。しかもそれは、今後何十年にも及ぶかもしれない人間関係だ。自分だけなのだろうか。重たい鎧を背負っているように、結婚する前からそのことを億劫に思ってしまうのは。
 春崎は菓子メーカーの広報部の社内報課に所属している。この春で五年目だ。三年前から春崎がホームページのブログコーナーを担当している。そのブログでは、いろいろな菓子の原材料となる野菜などを収穫している「生産者さんたちの声」を毎週紹介している。現地に取材にいって一か月に一回のペースでブログを更新し、「生産者さん」の声を紹介するのだ。
 今日はアップロードの日で、投稿予約されたページのプレビュー画面を改めて見返した。いかにも実直そうな中年の農家さんがニンジンを入れた籠を持って満面の笑みを見せている。その写真の下には、「消費者のみなさんの笑顔のために」「徹底した品質管理で」「一本一本手塩にかけた」なんて、ポジティブな言葉ばかりが並んでいる。実際はどの生産者さんも物価高や不況に喘いでるんだよな、と思いつつ、投稿ボタンをクリックした。
 比較的楽な日だった。来年が社の四十周年で、そのための記念冊子の打ち合わせを外部のライターと行い、月報のためのインタビューを営業部のベテラン社員に対してしたあとは、この春に入社する新入社員のための教育マニュアルを検討する会議に課長と出席した。それから新商品プロジェクトの進捗状況を全部署に共有し、いくつか懸念案件のためのメールの下書きを作っておいた。
 業務を終えたのは定時だったが、すぐには帰らず、暇を潰した。春崎はしばらく、なにをするでもなく自分のデスクに座って、同僚たちの様子をチラチラと気にした。先輩の井出口いでぐちが終業したらしいのを見つけると声をかけ、マッチングアプリでの出会いの進捗を聞いたり、いっしょに人気の少年漫画の考察動画を見たりして盛り上がった。こうやってどうでもいいことで一生笑っていたかった。
 さやかの帰宅は遅く、午後十一時だった。飲んできたようで、顔が赤らんでいた。
 さやかは住宅部材の加工会社に勤めている。配属先は総務だった。大型受注を狙うコンペのシミュレーションのための準備や、行事の企画などの業務を退屈に感じているらしい。酔って帰ってきた時の常として、春崎相手に愚痴をこぼすのだった。
「まじでさあ。退屈。退屈だよ。私思うよ。仕事って楽しくないんだなあって。でも、それはそう。贅沢なんて言ってられない。給料をもらっていて、正社員で自分は恵まれているんだから、我慢しないと」
 今日だって、いつものように、耐えないと、我慢しないと、と繰り返した。
 さやかがこの愚痴を言うようになったのはいつからだろう。一年前? 二年前? 春崎にはうまく思い出せない。最初の頃はちゃんとした返事をしていたのだ。我慢ってなに? 別に他人と比べることじゃないでしょ。楽しい瞬間もあると思うけどな、なんてことを。けれど、さやかは頑なだった。いくら春崎が慰めようとしても、自分はこうなんだ、我慢をするしかないんだ、と決めつけていた。
 その頑なさに、初めのうち春崎は落ち込んだ。
 俺はあんまりさやかの力になれていないのかな、と無力感に駆られた。
 しかしだんだんと、さやかが酔っぱらって、同じような愚痴をぶつけてくる度に、またかよ、と思うようになった。
 今では、話を聞いているふりをしながら、ただ機械的に相槌を打つだけだ。
 そんなことをしている自分を、すごく冷たい奴だと思う。でも、しょうがないとも思う。だって、さやかには俺の言葉は必要ないみたいだから。
 今日も、「うん、うん。大変だよな」と相槌を繰り返してやり過ごすつもりだった。
 けれど、ふと頭に浮かんだ。
 これって、本当に仕事の話なのかな。
 愚痴の中になにか、あてつけが込められてるんじゃないか。
 いや、あてつけという言い方はよくないか。でも──
 俺みたいなやつのことも我慢しないと。
 さやかはそんな風に思ってたりはしないか?
 そう考えると、少し怖くなった。
 頭の中にある光景が浮かんだ。蛇口に直接繋がれ、水を注がれていく風船。このままだと、膨らみ切って、破裂するしかない。
「あのさあ」
 春崎は、こんな話はさやかが酔ってない時にするべきではと思いつつ、ソファで横ならびに座った状態で、前方の壁を見つめながらこう言った。
「ふたりともなにか我慢してるんだよな、俺たち。まあ、人と暮らしている以上そりゃそうだよなって感じもするけど。この生活はいい感じだし、結婚控えてるくらいだから、仲も悪くない。いや、めちゃくちゃいいんじゃないかって思う。めちゃくちゃいい。うん、俺たちはめちゃくちゃいいよ。でも、ちょっとつらくなる瞬間がある。俺は。俺はね? それをどうしたらいいんだろうって思うんだけど、でも、完璧な状態みたいなのはきっとないじゃんか。人と人とが暮らしてる以上。だから、えっと、なにが言いたいのか自分でもうまくまとまらないんだけど、これからもよろしく」
 あれ?
 俺、こんなことが言いたかったんだっけ。
 これからもよろしく、だなんて。いや、これからもよろしくなのは、それはそうなんだけど。もっとこう、言うべきことがあったんじゃないか? でも、疲れた。
 さやかを見ると、眠ってしまったのか、ソファの上に両脚を小さく畳んで目を閉じていた。
「寝てる?」
 返事がない。
「寝てるか」
 さやかの頭に手を回し、そっと引き寄せるように耳のうしろを撫でた。
 テーブルの上のスマホが震えた。ほとんど同時に、さやかのスマホも甲高い通知音を鳴らした。なんだ? と思いながら自分のを見てみると、大学時代に同じ学部だった小川おがわという同級生から連絡がきていた。
 その文面を見た途端、なにか考えるより先に、体から力が抜けた。内臓が全てあるべきではないところへと落下したかのようだった。握力のなくなった手で、さやかを起こすために肩を何度も叩いた。
「さやか。起きろ。起きて。起きて」
「どうしたの?」
「ヒロが……」
 そこから先が言えなくなって、「スマホ見て」と言葉にした。
 小川からの連絡には、花池比呂の訃報が記されていた。

   *

 告別式が行われるのは八王子の葬儀場だった。八王子までは自宅から一時間と少し。
 あのあたりにヒロが住んでるなら、会おうと思えばいつでも会うことができるのに──電車に揺られながらそう考える。そのあとで、まるでまだヒロが生きているみたいだ、と一歩遅れて「死」がやってくる。
 卒業以来、会うこともなくあいつは死んでしまった。
 水曜日の夜。混雑した中央線は、悲しみに集中することさえさせてくれない。代わりに胸に浮かぶこの気持ちは、怒りだろうか。自らの気力を奪い続けていくような怒りだった。
 ヒロの死因は事故死だったらしい。
 どうして、という疑問ばかりが生まれる。一体なにが俺とさやかの生と、ヒロの死を隔てたのだろう。そんなことを考えたが、なんの答えも浮かんでこなくて、ただ人混みに揉まれ、気が遠くなっていった。
 四角いブロックを組み合わせただけのような、あたたかみのない無機質な斎場だった。背の低い斎場の上で満月がやたらとまぶしく輝いていて、なんだか馬鹿みたいだと思う。
 葬儀にはこれまで何度か出たことがあった。祖父母や、春崎が入社一年目の時に脳梗塞で急逝した五十代半ばの部長。誰だっていつ死ぬかわからない。そんなことは知っている。
 でも、なんでヒロなんだ?
 涙が流れなかったのは、まるで春崎の代わりみたいに、さやかが泣き通しだったからだ。
 訃報を知った月曜日から、今までずっと、嘘みたいにさやかは泣いていた。「どうしてヒロが」と何度も言った。どうにもならないとわかっていても、言わずにはいられないのだろうと春崎は思った。俺がさやかを支えないと、と気づかないうちに心に蓋をした。素直に感情を吐露できるさやかのことがうらやましかったし、泣き続けるさやかといるうちに春崎は、結婚しなきゃな、と思った。そうしたらもっと俺は、さやかを支えることができるかもしれない。それはなにか、諦めにも似た気持ちだった。

 

(つづく)