かつて、街に侵入して駆除されたメスのヒグマを見たことがある。そのヒグマは六十キロほどだったが、小柄ながら筋肉が隆起した体躯と、ナイフのように鋭い爪に本能的なおぞけを感じたものだ。しかし、この森にはその十倍もある怪物が潜んでいる可能性があるという。
「そんな化け物を駆除できるんですか?」
かすれ声で訊ねると、鍛冶は「このままじゃだめだな」と肩をすくめた。
「十二年前、アサヒを取り逃がしたのは、あいつがデカかったからじゃない。頭が良く、そしてなにより臆病だったからだ」
「臆病?」
「そうだ。あいつは銃の恐ろしさを知っている。銃を持った奴らが集まっているところに姿を見せることは最後までなかった。そして、猟師が一人になったところを狙って、音もなく忍び寄って襲い掛かるんだよ」
「じゃあ……」銃を構えて先頭を歩いている猟師たちに、小此木は視線を送る。
「ああ、そうだ。あんな殺気だった猟師たちが銃を構えているところに、アサヒが姿を現すわけがない。遺体を探すだけにしても、この広い森をあんなナメクジが這うみたいな速度で進んでも見つからないさ。まあ、犬を使えばなんとかなると思っていたけど、それも空振りだったしな」
皮肉っぽい鍛冶のセリフを聞いて、小此木は数時間前の出来事を思い出す。警察犬と猟師たちの猟犬、十数頭が連れてこられたのだが、黄泉の森との境を示す地蔵を越えたあたりから激しく吠え出した。それが獲物の臭いを嗅ぎ取ったことによる興奮ではなく、強い恐怖から来ていることは、犬たちの尻尾が股の間で縮こまっていることから明らかだった。
行方不明になっている作業員たちが使っていたプレハブ小屋の周辺で車から降ろしても、全ての犬が地面に伏せて動くことを拒否したため、仕方なく人間だけで森に入ることになった。猟の訓練を受けているであろう屈強なドーベルマンが、黒く光沢のある体を震わせながら失禁していたのを思い出し、小此木は喉を鳴らして唾を呑み込む。
「というわけで、ここにいれば安全だ。じゃあ、そろそろ俺は行くとするかな」
軽い口調で言うと、鍛冶は捜索隊から離れていこうとする。
「ちょ、ちょっと」
慌てて声を上げると、鍛冶は「なんだよ」と面倒くさそうに振り返った。
「どこに行くつもりですか? 離れたら危険なんでしょ」
「おいおい、なに言ってるんだよ。俺はハイキングに来たわけじゃない。この森に棲んでいる化け物と戦いに来たんだぞ。危険なんて当たり前だろ」
「けれど、捜索隊から勝手に離れるのは……」
「会長には了解を取っているよ。羆撃ちの経験なら俺はこの地方で随一だ。一人で動いた方がヒグマを駆除できる確率も、遺体を見つける確率も遥かに高くなるのさ」
軽く手を上げて「じゃあな」と離れていく鍛冶を見て、無意識に足が動いた。
「待ってください」
小此木は鍛冶に追いつき、その肩に手をかける。次の瞬間、一気に身を翻して手を払った鍛冶は、流れるようにスリングで肩にかけているライフル銃を回転させると、銃を小此木に突きつけた。漆黒の銃口に吸い込まれていくような錯覚をおぼえ、小此木は体をこわばらせる。
鋭く小此木を睨みつけていた鍛冶は、はっとした表情を浮かべると慌てて銃口を下げた。
「驚かさないでくれよ、刑事さん。急に後ろから触られたから、体が反応しちまっただろ」
「す、すみません」小此木は両手を上げながら謝る。「ただ、連れて行ってもらいたくて」
「あんたを連れて行く?」鍛冶の目つきが険しくなった。「自分がなにを言っているか分かっているのか? あんたみたいな足手まといを連れて行けるわけがねえだろ。ふざけんな」
吐き捨てるように言うと、鍛冶は踵を返す。その背中に、小此木は上ずった声をかける。
「連れて行かないなら、逮捕しますよ」
足を止めた鍛冶が、「ああっ!?」と脅しつけるような声を出す。まるで獰猛な肉食獣と対峙しているような迫力に、思わず目をそらしそうになった小此木は拳を握り込んだ。
「あなたは、警察官である僕に銃口を向けました。これは明らかな違法行為です」
「見逃して欲しけりゃ、連れて行けっていうわけか。いい加減にしてくれよ」
鍛冶は大きくため息を吐く。
「俺はこれから何人も人を喰っている怪物と一騎打ちするんだ。しかも、相手のホームグラウンドであるこの森でだ。勝てる保証なんてない。勝率はよくて半々ってとこだろうな。そして、俺が殺されたら、確実にあんたの命もなくなる。俺についてくるってことはな、弾が三発込められた拳銃でロシアンルーレットをするってことなんだぞ。それでも来るっていうのか」
諭すような鍛冶の口調が、それが誇張ではないことを告げた。ヒグマに襲われて喰われていく自らの姿を想像し、口の中から急速に水分が引いていく。
「はい、そうです」
声が上ずらないように腹の底に力を込めて答えると、鍛冶は苛立たしげに頭を掻いた。
「分からねえなあ。俺みたいな羆撃ちは、ヒグマを相手にすることが仕事だ。それが生き甲斐だ。だからこそ、命をかけることもいとわない。けどな、刑事のあんたが相手にするべきなのは人間だろ。命がけで犯罪者を追うならまだしも、なんで野生動物にそこまでこだわるんだ?」
鍛冶はつかつかと近づいてくると、至近距離で小此木の目を見つめてくる。
「……美瑛町一家神隠し事件」
小此木は声を絞り出す。鍛冶は「なんだって?」と眉間にしわを寄せた。
「美瑛町一家神隠し事件ですよ。七年前、美瑛町で酪農を営む一家四人が、煙のように消えてしまった。ご存じでしょう?」
「ああ、もちろん。かなり話題になったからな」
「私は七年間、専従班としてあの事件を追っています。そして、事件が起きた場所はこの山を越えた向こう側、黄泉の森のすぐ外側だった」
「七年前の事件も、アサヒがやったっていうのか?」
小此木は「分かりません」と首を横に振る。
「夕食が準備され、テレビが点いたままの状態で煙のように人が消えた七年前の事件と、プレハブ小屋が徹底的に壊されて被害者の内臓が残されている今回の事件は、かなり様相が違っています。けれど、複数の人々が忽然と消えた『神隠し』が、そう離れていない場所で起きたということはまぎれもない事実だ。なにか関係があるかもしれない。七年間、必死に探し続けた手がかりが目の前にあるんです。刑事としてそれを逃がすわけにはいかないんですよ」
早口でまくし立てた小此木は、答えを待つ。数秒考えこんだあと、鍛冶は鼻を鳴らした。
「刑事として、ねえ。なあ、そこまで言ったんだから、全部ぶちまけちまえよ」
意味が分からず眉をひそめると、鍛冶は額がつきそうなほど顔を近づけてきた。
「いまのあんたの顔は、犯人を追う刑事のものじゃない。……仇を追う復讐者のものだ」
胸の中で心臓が大きく跳ねる。
「なあ、あんたは神隠し事件を解決したいわけじゃないんだろ。犯人を見つけて、そいつをぶっ殺したいんだろ。なんで、そんなに神隠し事件にのめり込む? あんたにとって、あの事件はどんな意味を持つんだ」
どう答えるべきか、小此木は悩む。この七年間、個人的な感情で事件を追っていることを隠し続けてきた。しかし、適当なごまかしなど目の前の男には通用するとは思えなかった。
「行方不明になったうちの一人、佐原椿は僕の婚約者だったんです。しかも、彼女は僕の子供を妊娠していた……」
やけにざらつく言葉を喉の奥から絞り出すと、鍛冶の太い眉がピクリと上がった。
「もう一度だけ彼女に、椿に会いたいんです。……たとえ、遺体でもいいから」
「そして、誰かが婚約者を殺したなら、そいつに報いを受けさせたいってことか」
静かに鍛冶はつぶやく。小此木が口を固く結んで頷くと、鍛冶は再び森の奥へと歩きはじめた。
追うことができなかった。七年前の絶望、そしてただただ事件の手がかりを追って泥を啜るように這いずり回った日々を思い起こすことで消耗し、屈強な狩人を止めるだけの気力が残っていなかった。
十数メートル進んだところで足を止めた鍛冶は、首だけ回して振り向く。
「おい、何を萎れているんだよ、刑事さん。さっさと来ないと、置いていくぞ」
顔をあげた小此木が目をしばたたかせると、鍛冶はニヒルに唇の端をあげた。
「特別に俺の狩りを見せてやるよ」