「癒されたいなあ……」

 ふと気が抜けて、独り言がこぼれた。

 今日は忙しかった。営業先を何件も回って、会社へ戻ってからはミーティング続き。アシスタントの女の子が定時に上がったあと、残された事務作業に没頭すること、三時間。もう二十一時だ。

 ちょっと息抜きにと、プライベート携帯を見たのが失敗だった。母親からの長いメールには、いとこの結婚と、ご近所さんに二人目の孫が生まれたという報告。気を遣った文章は、焦らなくてもいいからねと、お決まりの言葉で締めくくられていた。

 心配してもらわなくても焦っていません。

 ため息をつき、適当に返信する。こんなことくらいで傷付きはしないけど、誰かから結婚や出産の報告が来るたびに癒されたいと思う。

 でも、癒しってなんだろう。

 温泉? エステ? 滝つぼでマイナスイオンを浴びるとか? どれも今欲しいものではない。

 スマホを伏せた。必要なのはもうひと頑張りする気合だ。ガッチガチになった肩をほぐすため大きく伸びをすると、背後から「おお」と声がした。頭を反らすと、しろあつしがただでさえデカい目をさらにデカくしている。

「お疲れ様です、しば主任」

「お疲れ。もしかしてわたし、君のこと殴りかけた?」

「ええ。危うくグーパンされるとこでしたよ」

「ごめん、ごめん。肩が詰まってさ」

 椅子に座ったままぐるりとフロアを見回すと、ほとんど人がいない。いつもなら営業社員もアシスタントも残業に追われている時間だが、残っているのは社員が数名だけだ。

 矢代は真向かいの自席に座った。

「今日はフロアがやけに静かだと思ったら、アシの子が全員帰っちゃったんですね」

「そうなんだよね。早くに上がって、みんなで合コンだって。いいね、若い子は」

「へえ」と、なんだか矢代は物憂げだ。「柴田主任は、行かないんですか」

「どこに?」

「合コン」

 びっくりして、噴き出した。

「行くわけないじゃん。わたしのこと、いくつだと思ってんのよ」

「合コンに年齢制限とかありましたっけ」

 矢代はフッと口元をほころばせる。出た。このほほみで、こいつは会社中の女子社員をキャーキャー言わせている。わたしからすればただの格好つけだけど、スマートな物腰は客先でも評判がいい。

 わたしが勤めているのは、法人向けのセキュリティシステムの販売会社。第二営業部でひとつのチームを任されている。チームの営業成績なんて、結局はどれだけできる部下を持っているかで決まる。わたしは名ばかりの営業主任だけど、運よくメンバーには恵まれて、特に矢代はチームの中で最も仕事ができる。それに地頭がいい。

「だって柴田主任、まだ三十代前半でしょう」

「三十四歳」

「全然、いけますよ」と、また唇の端が気障きざっぽい角度で上がる。

 部長に言われたんじゃ腹も立つけど、矢代はまだ二十九歳だ。歳のことでからかわれても、セクハラって感じにはならない。

「年齢層ってのがあるでしょ。二十代の女子の中にわたしが入っても、微妙な空気になるだけよ。相手にだって気を遣わせちゃうわよ」

「ふうん。だったら合コンの代わりに俺とメシ行きましょうよ。俺、もう終わるんで」

「ありがと。でも気を遣わなくていいよ。それにわたし、S社の提案資料が丸々残ってんの。頑張らないと終電コースだよ」

「そうですか。あまり根詰めすぎないように。じゃあ、俺、帰りますんで」

「うん。お疲れ」と、すぐにパソコンに向き直る。S社のセキュリティ構築はチーム内でも一番の大口だ。ひとつ片付けばまた次の要望が出てくる。数字にはなるけど、時間と工数のかかる難しい案件ばかりだ。

「まさきさん」

 矢代がいなくなると、後ろの席のまつあんが話しかけてきた。なんだか楽しそうな顔。こんな時間なのにまだメイクは崩れず、疲れを感じさせない。

「まさきさんってば、また矢代君に誘われてましたね」

「また? またってなによ」カタカタと、キーを打ちながら答える。

「こないだも、帰りに一杯どうですかって誘われてたじゃないですか。矢代君って、まさきさん狙いなんだ。意外っていうか、意外っていうか」

「なんで二回も同じこと言うのよ。っていうか、あんなの誘いじゃないわよ。ただの社交辞令を真に受けるほど世間知らずじゃないわ。ああ、もう。何時間も画面とにらめっこしているせいで、ドライアイがすごいんだけど」

「そうかな。彼って社交辞令なんか言うタイプかな」

 安奈は小首をかしげた。安奈も同じチームのメンバーだ。美人で要領がよく、成績もいい。同じ大学出身なので、女子の営業社員の中では一番仲良しだ。

「矢代君ってかなりモテるじゃないですか。見た目よし、仕事もできる。ちょっとナルシスト気味だけど、あの手のタイプは実は年上好きだったりするのかも」

「だったら安奈がいけばいいじゃん。あんたも彼より上でしょう。今年、三十二だっけ」

「私はああいう俺様系はご遠慮です。なんでもいうこときいてくれる男じゃないと」

 安奈の笑いはいつも茶目っ気がある。この子もかなりモテるタイプだが、確かに矢代とは合わないかも。少しキャラが被っている。

「でもまさきさん、一度くらいは矢代君の誘いに乗ってあげたらどうですか。いいじゃないですか、メシくらい」

「矢代のいうメシって、イタリアンとかおしゃれなダイニングバーとかでしょう。そういうの、もう面倒臭いんだよね。メシっていうと、今は肉しか思い浮かばない。がっつりの焼肉とビール。レアステーキに日本酒。誰かとじゃなく、そういうのは一人で楽しみたいわね」

「おひとり様を満喫しすぎですね、まさきさん。あんまりサボってると、恋愛の仕方忘れちゃいますよ。勿体もつたいないですよ、せっかく綺麗なのに」

「はいはい、どうもありがとね」と、情けなく笑う。

 褒めてもらって嬉しいけど、実はもう忘れている。恋愛って、どんなふうに始めるんだっけ?

 しばらくして安奈が帰ると、フロアには誰もいなくなった。見積書、構成図、要望書。修正版と差し替え版。ごちゃごちゃの資料を整理していると、また一時間ほど経っていた。もう目元がパシパシする。

 効率が悪くなってきたので、適当なところで切り上げて会社を出た。外の乾いた空気のせいだろうか。急に喉がビールを欲する。ここのところ売り上げの管理に追われっぱなしだ。このストレスを冷たいもので思い切り流し込みたい。でも女が一人酒していると、やたらオッサン連中に声をかけられる。こっちは飲みたくて来ているんだと睨みを利かせると、やれ可愛くないだの、高慢ちきだのと野次やじられる。

 一人で飲みたい女だっているんだよ。名残惜しかったが、駅前の飲み屋を通り過ぎた。しまった。こんなことなら矢代と飲みに行けばよかったんだ。男連れなら、男に声をかけられることもない。

「でも、男除けに男使うのは違うか」

 ひと気のない夜道で、独りちる。

 鞄の中でスマホが鳴った。見ると、画面には思いもよらない名前が表示されている。藤圭一とうけいいち。驚きで足が止まり、戸惑いながら電話に出た。

「……もしもし」

「もしもし、まさきちゃん。久しぶり。元気してた?」

 電話の声は、記憶していたとおりだ。低くて深い響き。優しい喋り方もそのままで、顔のほうが、うろ覚えだ。

「うん。元気だよ。久しぶりだね。三年くらいかな。どうしたの」

「いや、ちょっとさ、まさきちゃんに頼みがあって」

 圭一の声はやたらと明るい。別れてから三年ぶりの電話。一瞬だけ時間が戻った。別れた時、彼は無職だった。というか一緒に暮らしていた一年間、圭一はずっと無職だったけど。完全にヒモ状態で、家賃も生活費もすべてこっち持ち。たまに五百円とか千円のお小遣いをねだる程度の、レベルの低いヒモだった。

「頼みって何? お金だったら、ないからね」

「そんなんじゃないって。まあ、もしあるなら貸してほしかったけど。でも違うよ。まさきちゃんって、まだあのマンションにいるの?」

「うん、まあ」

「よかった。近くにいるから、ちょっと寄るね」

 電話が切れた。しばらく茫然としてしまう。何をしに来るんだろう。頼みってなんだろう。たぶんロクなことじゃない。マンションのエントランスに着くと周りを見る。外にいないってことは、部屋の前で待っているのか。

「もしかして、ヨリ戻そうっていうのかな」

 だったらどうしよう。圭一と別れてからずっと彼氏はいないが、今は仕事が忙しくて誰かと付き合う余裕なんかない。情に流されて居候させないように、ピシャリと断ろう。

 三階のわたしの部屋の前に圭一はいなかった。代わりに、紙袋がふたつ。段ボール箱がひとつ。

 

 

「元カレの猫を、預かりまして。」は全4回で連日公開予定