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ぬかるんだ斜面に足を取られる。容赦なく打ち付けてくる雨がレインコートの隙間から入り込み、下着まで濡れて体温を奪っていく。道央大病院で佐原茜に会った翌日、小此木は深い森を進んでいた。禁域とされている黄泉の森を。
朝から強い雨が降るあいにくの天気だ。小此木は手袋を嵌めた手で、汗と雨で濡れた額を拭いつつ、顔を上げる。前方ではライフル銃をスリングで肩にかけた十人ほどの猟師たちが、慎重に歩を進めている。多くが札幌の猟友会に所属している、羆撃ちの経験がある猟師だった。重心を落とし、猛禽を彷彿させる鋭い目つきで辺りを見回している彼らが、行方不明者ではなく、彼らを襲ったであろうヒグマを探していることは火を見るより明らかだった。
行方不明者の捜索は本来、大人数が散らばって広い範囲を捜していく。しかし、ヒグマに襲撃された可能性が高いと考えられる今回のケースでは、警察が得意とするその人海戦術を取ることはできなかった。散り散りに森に入れば、ヒグマの格好の餌食だ。
ヒグマを駆除し、安全を確保したうえで大規模な捜索を行う。それが道警本部の方針だった。
小此木は足を止めて五感に意識を集中させる。苔むした巨大な岩、雨音の中かすかに聞こえてくる鳥の鳴き声、むせ返るほどに濃い土の香り、迷路のように密に立ち並んでいるエゾマツの太い幹をときおりリスが伝っていた。空を仰ぐと、鬱蒼と茂った樹々の隙間から雨が零れ落ちてくる。人の手が全く入っていない、原始の自然がここには存在した。
禁域ということで、この森が穢れた土地であるという先入観を持っていた。しかし、実際に森に入ったときに胸に去来したのは、嫌悪ではなく畏怖だった。
ここに人間が手を加えるなど、おこがましい。そんなことをすれば山の神の怒りをかい、天罰を下されて当然なのかもしれない。そこまで考えたところで、小此木は頭を振る。たとえこの森が古くから伝わる信仰の対象だとしても、開発は法にのっとって行われている。疲労のせいか、それとも幼少期からさんざん脅されてきた迷信のせいか、混乱しているようだ。
行方不明になっている者たちには家族がいる。襲撃された現場の状況から作業員たちが生きている可能性は低いが、それでも遺体を見つけ、家に帰してやらねば。それまで、愛する者を失った人々は気持ちに区切りをつけることができず、苦しみ続けるのだから。
俺みたいに……。佐原茜に似た女性が微笑む姿が脳裏をかすめ、刺すような痛みが胸に走る。
最愛の女性が突然姿を消してから七年間、身の置きどころがない苦痛に苛まれ続けていた。時間が苦しみを癒してくれる。そう思っていた時期もあった。しかし、時間が経てば経つほど、婚約者を失った哀しみは消えるどころか熟成されていくかのように濃くなって、心を腐らせていった。
たとえ遺体でもいい。もう一度彼女に会いたかった。彼女を身近に感じたかった。
唇を噛みながら踏み出した瞬間、足がぬかるみで大きく滑った。しまったと思ったときには片足が宙に浮き、バランスが崩れて後方に傾いていく。こんな急斜面で倒れたら、滑落して重傷を負ってしまう。そう思ったとき、横から手が伸びてきて腕を掴まれた。
「おいおい刑事さん、気をつけなよ。転んで頭を打って死んだりしたら、笑いの種だぞ」
登山用のダウンジャケットの上にオレンジ色の猟師用のベストを羽織り、ライフル銃をスリングで肩にかけた体格の良い男に支えられて体勢を立て直した小此木は、「ありがとうございました」と礼を言う。
「この森は苔で覆われた岩が多いからな。そんな長靴じゃ転びやすいし、色々と危険だぞ」
男はニヒルな笑みを浮かべると、「鍛冶だ。羆猟師をしている」と手を差し伸べる。年齢は四十前後というところだろう。なかなか整った顔つきをしているが、無精ひげが生えているうえ、額からこめかみにかけて二筋の大きな傷痕が走っているため、精悍というよりも、もはや野生の肉食獣のような迫力を醸し出していた。
「小此木です。旭川東署刑事課の刑事です」
握った鍛冶の手は、グローブを嵌めているかのように分厚く、皮が硬くなっていた。
これが猟師の手か。山に入り、獲物を狩って生きるという、原始から続く生活をいまこの時代に営んでいる目の前の男に、軽い畏敬の念をおぼえる。
鍛冶に「じゃあ行くぞ、刑事さん」とうながされ小此木は再び森を進みはじめた。
「あの、鍛冶さん」
数分歩いたところで、ほんの少し前を歩く広い背中に、小此木は声をかける。
「さっき、この長靴じゃ危険って言われましたけど、これ、登山用の頑丈なやつを用意したんです。何が良くなかったんでしょうか?」
「ん? 普通の山歩きには悪くはないぜ。まあ、靴底にもう少しグリップがある方がベターだろうけどな。ただ、今回の捜索にはいただけないね」
小此木が「今回の捜索には?」と聞き返すと、鍛冶は小さく頷いた。
「ああ、ヒグマが潜んでいる森での捜索だ。人間の血、肉、内臓がどれくらい美味いかおぼえちまった人喰いヒグマがな」
人喰いヒグマ、その単語に頬が引きつってしまう。
「おいおい、刑事さん。なに顔をこわばらせているんだよ。行方不明になった奴らを殺ったのが、ヒグマだってことぐらい分かってこの捜索に参加したんだろ」
「いえ、その可能性が高いというだけで……」
しりすぼみに声が小さくなる。もちろん、行方不明者たちがヒグマに襲われた可能性が高いことは十分に理解していた。しかし、山々で野生動物と対峙して生きている猟師の口から出た生々しい言葉に、漠然とした『人喰いヒグマ』に対する解像度が一気に上がった気がした。
自らが他の生物に襲われ、食料としてその生命を消費されるなど想像だにしたことがなかった。しかし、人の侵入を拒み続けたこの森では、人間など矮小な獲物でしかないのかもしれない。
「けど、成人男性が六人も行方不明になっているんですよ。普通のヒグマに可能ですか?」
「できねえな。ヒグマの体重は、大人のオスでも二百キロ前後ってことが多い。一人ならまだしも、大人を六人も森の奥深くまで引きずりこむなんて、まず不可能だ」
小此木が「なら……」と前のめりになると、鍛冶は人差し指を立てて左右に振る。
「あくまで『普通のヒグマなら』だ」
「……普通じゃないヒグマがいるってことですか?」
小此木が声を潜めると、鍛冶は唇の端をあげた。
「北海道のエゾヒグマは、ヒグマ種の中では最小の部類になる。近縁種のグリズリーやホッキョクグマのオスなら五百キロを超える個体もごろごろいて、中には一トン近い奴までいる」
「ヒグマにはそれだけ巨大化するポテンシャルがあると?」
近縁種が巨大だからといって、エゾヒグマも同じように巨大になり得るというのは、論理が飛躍している。しかし、実際にヒグマと対峙している鍛冶が語る言葉は、そんな正論など吹き飛んでしまう説得力を孕んでいた。
「俺はこれまで二十三頭のヒグマを仕留めた。箱罠猟じゃないぜ。全部忍び猟で、ヒグマと対峙して、このライフルで撃ったんだ。最大の獲物は、二百九十二キロのオスのヒグマだな」
鍛冶は肩にかけているライフルの銃身に、女性を愛撫するかのように優しく触れた。
「なあ、刑事さん。三毛別羆事件は知っているだろ」
小此木は「ええ……」とあごを引いた。北海道で生まれ育って、三毛別羆事件を知らない者などいるわけがない。多くの道民は子供時代に、ヒグマの危険性を教わるために、その日本最悪の熊害事件について教えられる。その内容はどんな怪談より恐ろしく、ヒグマという生物への恐怖を魂の奥底にまで刻み込まれることになる。
事件は一九一五年の冬、道北の六線沢と呼ばれていた開拓集落で起きた。日没に近い時間帯に突如巨大なヒグマが村に現れ、太田マユという女性と、養子になる予定だった蓮見幹雄という少年を襲った。幹雄は即死し、そしてマユを咥えたヒグマは森の中に消えていった。
翌日、捜索隊が森で、頭蓋骨の一部と膝から下の足だけとなったマユの遺体を発見した。
その夜、マユの通夜が行われたが、その最中、再度ヒグマが太田家を襲撃し、棺桶に入っていた遺体の一部を取り返して消え去った。そして、それから二十分ほど経ったあと、ヒグマは五百メートルほど離れた別の家に侵入し、そこにいた人々を襲った。
妊婦の斉藤タケという女性を集中的にヒグマは襲い、タケは「腹を破らんでくれ!」「喉喰って殺して!」と叫びながら、生きたまま上半身から喰われていった。