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第一章 禁忌の森



 淡いピンク色の腸管が、水面でゆらゆらと揺れている。その光景は池に浮かぶ睡蓮すいれん彷彿ほうふつさせた。
「……先輩。あかね先輩」
 正面から声をかけられ、佐原さはら茜ははっと我に返って顔を上げる。手術台を挟んだ対面に立っている第一助手の姫野由佳ひめのゆかが、視線を送ってきていた。
「あ、ごめん、なに?」
「また自分の世界に入っていましたよ」
 姫野はおどけるような口調で言う。五年後輩で、おなじ道央どうおう大学医学部付属病院の外科医局に所属している姫野は、茜にとって妹のような存在だった。何かにつけて「茜先輩、茜先輩」としたってくる姫野を茜も可愛く思い、外科医としての技術もしっかりしているので、自分が執刀する手術の助手によくつけていた。
「ごめんね。ちょっと『ゾーン』に入っちゃってて」
 茜は軽く首をすくめる。手術に集中しすぎると周りの声が聞こえなくなり、体が勝手に動いているような状態に陥る。そのときは、まるで自分が自分でなくなったような感覚になるのだ。
「何度声かけても反応ないんだもん。無視されてさびしかったですよ」
 冗談めかして言うと、姫野は術野に視線を向ける。つられて茜も視線を落とした。そこでは患者の腹部が大きく切り開かれ、あらわになった腹腔ふくくう内に大量の生理食塩水が満たされて池のようになっていた。
「リークはなさそうですね」
 姫野の口調には疲労の色がにじんでいた。肝臓への転移が確認された進行性の大腸がんの患者に対して、肝切除術と横行結腸おうこうけつちよう切除術を同時に行う、かなり難易度の高い手術だ。午前九時からはじまった手術もすでに午後四時を過ぎ、ようやく終わりに近づいていた。
 他の臓器に転移を認めたがんは、一般的には手術による根治が期待できない。しかし、大腸がんの肝転移は、両方の病巣をしっかりと切除できれば根治の可能性が十分にある数少ない病態だ。
 茜は再び目を凝らして腹腔内を見つめる。生理食塩水に水泡が生じれば、腸管の縫合が不十分ということだ。縫合不全の部位から消化液や細菌が零れだしたら、腹腔内で激しい炎症が生じ、緊急再手術が必要になる。
 息をすることもはばかられるほど張り詰めた空気を、モニターの電子音と、麻酔器のポンプの駆動音が規則正しく揺らしていく。水面が揺れることはなかった。
「大丈夫ね。それじゃあ洗浄して、閉腹しましょう。みんな最後までお疲れ様。大変だったでしょ。遅くなってごめんね」
「いえいえ、こんな時間に終わるなんてすばらしいですって。茜先輩だからこそですよ」
 姫野が賞賛の声を上げる。茜は「おべっか使っても、何もでないわよ」と目を細めた。
 もうすぐ三十五歳になり、外科医として中堅に差し掛かった茜の技術はたしかで、上司であり、外科医としての師匠でもある教授からも一目置かれるものだった。
「本当にお疲れさまでした、佐原先生」
 腹腔内の生理食塩水を吸引し、腹膜ふくまくの縫合を終えると、そばに立っていた器械出しの中年看護師がねぎらいの声をかけてくる。
「全然疲れていませんよ。これからもう一つぐらい手術できそう。そもそも私、『疲れる』って感覚がよく分からないんですよね」
 茜が答えると、姫野がこれ見よがしにため息をついた。
「七時間も執刀したら、普通は疲れ果てるものなんですよ。まあ、茜先輩は超人だから、分からないでしょうけど」
「人を怪物みたいに言わないでよ」
 茜はマスクの下で口をへの字にゆがめる。子供のときから、体力には自信があった。中学からは陸上部に所属し、中距離走の選手としてインターハイで入賞経験もある。いくら当直で一睡もできなくても、ほとんど眠気も感じずに翌日の勤務をこなすことが出来るし、それどころか帰りにジムで汗を流したりすることすらあった。
「佐原先生、いま三十四でしょ。あと少ししたら体にガタがきて、無理がきかなくなりますよ。いまのうちから、少しは息抜きもおぼえとかないと」
 看護師の忠告に、「怖いこと言わないでくださいよ」と軽く笑い声を上げたとき、手術室の内線電話が鳴りだした。外回りの看護師が受話器を取り、少し通話をしたあと、「佐原先生」と声をかけてくる。
「一階の受付に、面会希望の方が来ているということです」
「面会? 患者さんの家族?」
「いえ、そうではなくて、警察らしいんです」
 看護師が戸惑い声を上げる。茜は「警察?」と聞き返した。
「はい、小此木おこのぎさんという刑事が来ているということで……。どうしましょう?」
 小此木!? 茜は目を見開く。
「ごめん。皮膚縫合しておいて。あとで行くから、ICUまでの搬送もお願い」
 姫野に向けて言うと、茜はせわしなく滅菌ガウンを破って脱ぎ、手袋、マスク、手術帽子とともにゴミ箱に放り込んでオペ室を後にした。
 ロッカールームで手術着の上に白衣を羽織った茜は、非常階段を小走りで一階まで降りる。午後の外来も終わりに近づいた時間、患者の姿もまばらな待合をスリッパを鳴らして進んでいくと、見覚えのある中年男の姿が見えてきた。小此木劉生りゆうせい、旭川東警察署の刑事だった。
 茜に気づいた小此木が、「やあ、茜ちゃん久しぶり」と軽く手を上げた。
 乱れた息を整えながら、茜は小此木を観察する。以前見たときよりも髪が薄くなり、顔のしわが増えている気がする。はじめて会ったときは、精悍せいかんな青年というイメージだった。しかし、いまはしおれた中年男にしか見えない。四十歳前後のはずだが、五十代と言われても信じてしまいそうなほど老けている。
 七年間、このつらい七年間が、小此木をここまでむしばんだのだろう。
「今日はどうされたんですか? 急に来るなんて」
 この道央大学医学部付属病院がある旭川市東部一帯を管轄する旭川東署、その刑事課に所属する小此木とは、以前はよく救急部で会っていた。事件や事故などの患者が救急搬送された際は、所轄署に連絡をして刑事を派遣してもらう。その際、小此木はよくやって来て、救急当直をしている茜と顔を合わせた。ただそれ以上に、小此木とはプライベートで会っていた。なぜなら彼は、姉である佐原椿つばきの婚約者だったから。
 優しく微笑ほほえむ姉の顔が脳裏に浮かび、胸に鋭い痛みが走る。
「報告したいことがあるんだ。ただ、ちょっとここでは……」
 小此木が受付にいる女性職員をちらりと見る。心臓が大きく跳ねた。からからに乾燥していく口腔内を必死に舐めながら、茜は「じゃあ、こっちに」と小此木を案内する。
 外来にある病状説明室。病状や手術の説明などを患者とその家族にするための、デスクとパイプ椅子だけが置かれた小さな部屋に小此木とともに入った茜は、扉が閉まるなり口を開いた。
「姉さんが! うちの家族が見つかったんですか!?」

 

(つづく)