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 声が裏返ってしまう。心臓を鷲掴わしづかみにされているかのような感覚が襲いかかってきた。
「とりあえず座ろう。ちょっと複雑な話なんだ」
 小此木に促された茜は、く気持ちを必死に押さえ込みながら、パイプ椅子に腰かける。小此木はまるでらすかのように、緩慢な動作でデスクを挟んで対面の椅子に座った。
「まず、最初に言っておくね。残念ながら、茜ちゃんのご家族はまだ発見されていない」
 全身に満ちていた緊張が一気に弛緩しかんし、茜は大きく息を吐く。それが落胆によるものか、それとも安堵によるものか、茜自身にも分からなかった。
 七年前の冬、茜の家族は失踪した。美瑛町から車で十五分ほどのところで酪農を営んでいた両親と祖母、そして警察官として旭川市内で交番勤務をしていた姉が突然、蒸発した。
 その日、姉が勤務中に行方不明になったという連絡を、暴力団の発砲事件の捜査に当たっていた小此木から受けた茜は、驚いてすぐに実家に連絡を取った。しかし、なぜか誰も電話に出ることはなかった。不吉な予感をおぼえた茜は、雪が降りしきる中、愛車を飛ばして実家に向かった。そこで目にしたのは、三人分の夕食が用意された食卓と、夜のニュース番組を流しているテレビだった。
 団欒だんらんが行われていたとおぼしきリビング。しかし、そこに家族の姿はなかった。
 そして、その日以来、茜の家族は行方不明のままだ。不可解な状況と、勤務中だった椿が拳銃を持った状態で失踪したこともあって、大規模な捜索が行われた。それはやがてマスコミにも知られることになり、『美瑛町一家神隠し事件』としてセンセーショナルに取り上げられた。一時は茜を強引に取材しようと、多くの記者が病院まで押しかけて診療の妨げになったほどだ。
 しかし、時間とともに世間の興味は急速に希釈されていった。椿が拳銃ごと失踪しているため、警察は完全に手を引いてはいないが、わずかな専従班を所轄署に残して捜査本部は解散した。小此木はその専従班に所属している。
 きっと、小此木さんはいまも血眼になって姉さんを捜しているのだろう。たとえ、もう遺体になっている可能性が高いと気づいていても……。
 茜が見つめていると、緩慢な動きで顔をあげた小此木が血色の悪い唇を開く。
「茜ちゃん、また神隠しが起こったんだ」
 全身に鳥肌が立った。茜は椅子から腰を浮かす。
「また、どこかの家族が消えたんですか?」
「いやそうじゃないんだ。消えたのは工事の作業員だよ。開発事業のために山中にプレハブ小屋を建て、そこに泊まり込んでいた作業員たちと、連絡が取れなくなった。携帯の電波も入らない山奥なので、最初は無線の故障だと思っていたんだけど、二日経ってもまったく音沙汰がないことから不審に思って会社が人を派遣すると、そこで寝泊まりしているはずの六人が消えていた」
 体温が上がっていく。家族が煙のように消えてから七年経ったいま、ようやく『手がかり』が見つかったのかもしれない。
「私の家族と同じで、その作業員たちもなんの痕跡も残さず消え去っていたんですね」
「いいや、プレハブ小屋の中は、竜巻でも起きたかのようにめちゃくちゃになっていたよ。テーブル、椅子、食器棚などが倒れ、ベッドまでひっくり返っていた」
「それじゃあ、『神隠し』でもなんでもないじゃないですか。事件か事故でしょ」
 風船の空気が抜けるように期待が萎んでいく。
「間違いなく事件だね。プレハブ小屋の裏手の扉が破壊されていて、室内からは大量の血痕が見つかり、外では軽トラックや発電機も破壊されていた。さらに、被害者の内臓の一部も見つかったんだ。何者かに生きたまま、はらわたを抉られたんだと考えられている」
「生きたまま、はらわたを……」声が震える。「そんなことができる生物、北海道には、いえ、日本には一種類しかいないですよね」
「ああ、間違いなくヒグマだ」小此木は低い声でつぶやいた。
 北海道にのみ生息するエゾヒグマは、オスは最大で体長三メートル、体重は五百キロに達することもある日本最大の肉食獣だ。雑食性であり、普段は山で木の実や川を遡上してくるサケ、エゾシカなどを食料としているが、近年は農作物や家畜などを狙って山を下り、人間の生息域に侵入してくる個体も増えてきて、大きな問題になっていた。
「状況から見て、最大クラスのオスの可能性が高いらしい。現在、被害者を発見するために、猟友会と連絡を取って捜索隊を編成している。明日の朝から捜索をはじめる予定だよ」
「猟友会ですか」
 山々に囲まれた牧場で育った茜の周りには、狩猟を行う者が多くいた。幼い頃から時々、彼らの猟に同行させてもらった経験から、自然と茜自身も狩猟に興味を持った。大学時代に狩猟免許を取得しており、自宅マンションのガンロッカーには愛用の散弾銃が保管されている。休日などはその銃を持って山に入り、よくシカを撃っていた。
 猟の情報を得るためにも、地域の猟友会には所属している。
「ああ、茜ちゃんも猟友会に入っているんだよね」
「入っていますけど、明日は平日で、私が執刀する手術が入っているから捜索隊には参加できませんよ。それに、レジャーハンティングしかしていない私に、ヒグマ猟は荷が重すぎます。ただ、それだけ巨大なオスなら、プロの猟師がこぞって参加するでしょうね」
 ヒグマは猟師にとって最強にして最高の獲物だ。撃ち損ねたところで逃がすだけのシカや小動物、鳥などと違い、ヒグマ猟はわずかなミスが死につながる。それはもはや猛獣との決闘に近いものだった。その緊張感に魅了され、羆撃くまうちにとらわれる猟師も少なくない。
 あの人のように……。茜の脳裏に、精悍な顔の男の姿が浮かんだ。
「それが、猟師が集まらなくて苦労しているんだ。札幌さつぽろの猟友会にも声をかけて、必死に羆撃ち経験のある猟師を掻き集めているところだ」
「猟師が集まらない?」
 茜は目をしばたたく。北海道の雄大な山々に囲まれたこの地域は、狩猟が盛んだ。大型のヒグマが撃てるというだけで、我先にと参加する猟師が何人も思いつく。その多くが狩猟を生業なりわいにする者たちだった。平日だからと言っても、人が集まらないとは信じられなかった。
「なんでそんなことに?」
 茜が首をひねると、小此木は声を潜めた。
「それは、捜索する場所があの『黄泉の森』だからだよ」
 頭から冷水を浴びせかけられたかのような心地になる。
「ヨモツイクサ……」
 口から零れた言葉は、自分のものとは思えないほどに震えていた。
 黄泉の森は悪い神が支配している禁域であり、そこには黄泉の国の怪物、ヨモツイクサが徘徊はいかいしている。そして、這入りこんできた人間を襲っては、生きたまま喰ってしまう。そんな言い伝えを、この近隣で生まれ育った人々は代々、物心がつく頃からくり返し聞かされる。それゆえ、誰もが禁域である黄泉の森に対し強い忌避感を持っていた。
 ――黄泉の森には決して入ってはいけないよ。ヨモツイクサに食べられちゃうからね。
 幼い頃、何度も祖母から聞かされた言葉が、やけにはっきりと耳に蘇った。
 黄泉の森に対する畏怖いふは、もはや土着信仰に近いものだった。内地からこの地方に越してきた者たちも、地元の人々の信仰に近い感情を理解し、わざわざ禁域を侵してトラブルを起こそうとはしなかった。七年前までは……。
 七年前に黄泉の森が広がる山を丸ごと買い取った大手ホテル会社が、そこに巨大なリゾート施設を建設しようと計画しており、地元住民から強い反対運動が起きている。
「ヨモツイクサか……」小此木は皮肉っぽく笑う。「その名前、久しぶりに聞いたよ。もちろん、言い伝えの怪物なんて信じていないけれど、黄泉の森の『何か』が作業員たちを襲ったのは確実だ」
「じゃあ、今回、行方不明になったのって……」
「ああ、黄泉の森の開発工事をしていた作業員たちだよ。なんで猟師が集まらないのか分かっただろ」
 茜は頷く。地元の猟師たちの潜在意識には、黄泉の森に棲んで人を喰う怪物、ヨモツイクサの恐怖が刷り込まれている。たとえそれが、危険な山に子供が入らないようにするための迷信だと頭では理解していても、本能的な恐怖を拭い去ることは容易ではないだろう。捜索隊に加わる猟師が少ないのも当然だ。それに、禁域である黄泉の森を蹂躙じゆうりんしようとしていた人々を救おうというモチベーションが湧かなくても仕方ない。
 重く濁った空気を振り払うかのように、小此木は「さて」とつぶやく。
「行方不明になったといっても全く状況が違うにもかかわらず、どうしてわざわざ今回の事件のことを茜ちゃんに伝えにきたのか、これで分かったよね」
 茜は肺の奥底に溜まっていた息を吐き出した。
「はい、分かりました。私の家族も同じ『何か』に襲われたかもしれないということですね。黄泉の森はうちの牧場の奥にある山、その中腹から山頂にかけて広がっていますから」

 

(つづく)