「佐原先生、もし難しいようなら言って下さいね」
アイシールドの奥から、四之宮が顔を覗き込んでくる。茜はマスクの下で血が滲むほどに強く唇を噛んだ。これまで数えきれないほど遺体を見てきた。救急部では交通外傷で頭蓋骨が割れて脳が脱出したり、頭部が切断された遺体も見たことがある。
私は外科医だ。ただ腐っているというだけで、遺体に怯えてどうするんだ。
茜は手袋を嵌めた手を伸ばすと、遺体の肩と脇腹に手をかけて力を込める。しかし、右手をかけた遺体の脇腹の肉がグジュッという音を立てて崩れた。不快な感触がラテックス製の手袋越しに伝わってくる。
「ああ、だめだめ。軟部組織は腐って脆くなっているから、骨にしっかり手をかけないと。右手は腸骨にかけるようにして」
茜は小さく頷き、四之宮の指示通りにする。大柄な男の遺体なので重いかと思っていたが、腹腔内臓器をはじめ多くの部分が欠損しているせいか、簡単に遺体は横倒しになった。
腹腔内に溜まっていた赤黒い液体が蛆とともにこちら側に流れ出してきて、解剖台に零れる。飛沫で茜の防護服にも、粘着質な液体がついた。
「んー、死斑も背部にしっかりと出ているね。どうやら、死後は仰向けにされた状態で長くいたようだ。その体勢で、臓器を取り去られたんだろうね」
遺体の背部を眺める四之宮の背後で、刑事がフラッシュを焚く。まぶしさに、茜は顔をそむけた。
「佐原先生、もう大丈夫ですよ」
四之宮の合図とともに、茜は遺体を元の体勢に戻していく。解剖台にできた赤黒い液体の池で、蛆が溺れているのか苦しそうに身をよじっている光景に、思わず頬が引きつってしまう。
「で、先生。死因は?」焦れたように刑事の一人が言った。
「損傷が激しくて、はっきりとは分からないですね。腹部と胸部に致命傷を負った可能性もあるけれど、その証拠となる痕跡は内臓ごと消え去っています」
「内臓はヒグマに喰われたんですよね。ヒグマがガイシャを殺ったんですよね」
はっきりしない四之宮に苛立ったのか、刑事の声が大きくなる。
「ヒグマ……」
茜はマスクの中で小さくつぶやくと、遺体を見つめる。作業員たちの遺体が見つかったということだけ聞いていたが、やはりヒグマの襲撃を受けた可能性が高いのか。
私の家族もヒグマに殺されたのだろうか。たしかに、経営していた牧場では数年に一回ほど、牛がヒグマに殺される事件が起きていた。しかし、四人もの人間がなんの痕跡も残さずヒグマに連れ去られることなど、あり得るというのだろうか。
ふと脳裏に、精悍な顔にシニカルな笑みを浮かべた男の姿が浮かぶ。彼に訊けば……。
「そうですねぇ……」
物思いに耽っていた茜は、四之宮の間延びした声で我に返った。
「腹腔臓器はほとんどなくなっていますが、肝臓の上部だけが少し残っています。肋骨が邪魔で、喰いにくかったんでしょうね」
四之宮は遺体の腹腔を覗き込む。
「そして、残された肝臓には巨大な歯形が残っています。牙だけでなく臼歯の痕跡もあることから、肉食動物ではなく雑食動物のものでしょう」
「雑食動物ということは……」
前のめりになった刑事に向かって、四之宮は重々しく頷いた。
「ええ、クマです。こんな巨大な歯形を残せる雑食動物は、世界中を探してもクマしかあり得ません。おそらく体重は五百キロをゆうに超えるでしょう。グリズリーやホッキョクグマに匹敵するサイズです。エゾヒグマによるものだとしたら、最大級の個体によるもののはずです」
「ガイシャたちがでかいヒグマに殺されたということですね」
「いえいえ、確実なのは、巨大なヒグマがこの遺体の内臓を食べたということだけです」
「そこまで分かれば十分です。あとは書類で報告して下さい。それでは失礼します」
刑事たちは足早に出入り口に向かっていく。彼らの姿が扉の向こう側に消えたのを見て、四之宮は芝居じみた仕草で肩をすくめた。
「なんで、刑事ってあんなにせっかちなんだろうね。そんなに急いで帰らずに、最後まで解剖に立ち会ってくれればいいのに」
「……被害者たちがヒグマに殺されたってことを、一刻も早く捜査本部に報告したいんじゃない」
動揺を必死に押し殺しながら茜が言うと、四之宮はかぶりを振った。
「だからさ、ヒグマに殺されたなんて僕は言ってないでしょ」
「でも、歯の跡が……」
「たしかに、内臓を喰ったのはヒグマだ。ただ、ここが気になる」
四之宮は遺体の首元を指さした。
「腐っていてはっきりはしないけど、首に大きな傷がある。何か鋭利な刃物で切られたかのような傷が。これが致命傷だった可能性が高い。頸椎の前面が露出しているところを見ると、首が切断されかけるほどの威力だったはずだ」
「それもヒグマじゃないの?」
「クマの爪はたしかに鋭いけれど、こういうふうに刃物で切ったような傷にはならないはずだ。五百キロを超えるヒグマの一撃を頸部に受けたなら、あごごと首元が吹き飛ぶか、頭がもげる。けれど、この遺体の頭部は蛆に喰われているだけで、激しい損傷は確認できない」
「ヒグマ以外の動物が作業員を殺したっていうこと? そんな動物、この北海道にいる?」
茜が首を捻ると、四之宮はアイシールドの奥の目を細めた。
「いっぱいいるさ。僕の知る限り、こんな傷をつけられる動物は一種類だけだ。この世で、最も多くの人間を直接殺している動物さ」
「なに? その動物って、なんなの?」
「人間だよ」
一瞬、何を言われたか分からなかった。口から「は……?」と呆けた声を漏らす茜の前で、四之宮は遺体の傷口をなぞる。
「こんな鋭利な切創を人間に与えて殺害できるのは、刃物を持った人間だけだ」
「でも、遺体はヒグマに喰われたって……」
「ヒグマは屍肉を漁ることもある。誰かが殺した作業員の遺体を見つけて、それを持ち帰ったのかもしれない。ただ、ここまで遺体の損傷が激しいと、ヒグマと人間、どちらが殺したのか、判断するのは難しいけどな」
そのとき、何の前触れもなく解剖室の明かりが消えた。茜の口から小さな悲鳴が漏れる。
「ああ、またかよ」
非常灯のうすい明かりに照らされた暗い空間に、苛立たしげな四之宮の声が響いた。
「またって?」
心臓が激しく鼓動する胸元を、茜は防護服の上から押さえる。
「守衛だよ。夜になると、この建物の明かりを落とすんだ。今日は司法解剖があるから、消さないでくれってさっき言っておいたのに……。三崎君、ちょっと行ってきてもらえるかな」
「分かりました」
記録を書いていた三崎が出入り口へと向かうのを見送った茜は、正面に向き直って息を呑んだ。
「四之宮、見て! 遺体を見て!」
「え、どうした……」
そこまで言ったところで、四之宮も絶句する。暗闇の中、遺体がかすかに蒼く光っていた。
「なに……、これ? 腐乱死体ってこんなことが起こるの?」
「いや、こんなのはじめて見た……」
かすれ声で答えながら、四之宮は発光している部分を指でこすると、顔の前に持ってきて、懐中電灯で照らす。
「……虫だ」
茜が「虫?」と聞き返すと、四之宮は大きくうなずいた。
「ああ、すごく小さい虫が発光しているんだ。海にいる夜光虫みたいに」
茜は再び遺体を見る。闇に淡く浮かび上がるその姿は幻想的で、まるで夢の中にいるような心地にさせた。
悪夢の中に……。
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