プロローグ
舗装が不十分な細い山道が、ヘッドライトの光に映し出される。フロントガラスの向こう側には、鬱蒼とした樹々が道路に覆いかぶさるように連なっていた。
山際清二は顔をしかめる。サスペンションが不十分な軽トラックに乗っているせいで、地面の凹凸がシートに伝わってくる。三十年以上ずっと土木関係の現場で働いてきた体に響いた。
「よりによってこんな現場に派遣されるなんてよ……」煙草臭い車内の空気を愚痴が揺らす。
北海道旭川市と富良野市の中間に位置する美瑛町から車で一時間ほど、大雪山国立公園にほど近い山奥、そこが山際の仕事場だった。その一帯の山を大手ホテル会社が買い上げ、巨大なリゾート施設を造る計画になっている。
美瑛にはストライプカーペットの花畑や白ひげの滝など、多くの観光スポットがあり、少し足を延ばせば、北海道観光の目玉の一つである旭山動物園もある。ここにスキー場や温泉施設を完備したラグジュアリーホテルを建てて、多くの観光客を招くという計画だ。予定ではすでにホテルの建設がはじまっているはずだった。しかし、この山の開発は一筋縄ではいかなかった。地元住民による苛烈な反対運動が起き、工事車両が反対派住人の座り込みにより止められるなどの妨害行為が相次いだのだ。
「そりゃそうだ。黄泉の森を荒らすっていうんだからよ」
ひとりごつ山際の視界に、数十メートル先の道端にポツンと立つ地蔵が飛び込んできた。思わずアクセルから足を放し、ブレーキを踏み込んでしまいそうになるのを必死に耐えた。軽トラックが地蔵の脇を通過する。背中に冷たい震えが走った。ここを通過するときは、いつもこうなるのだ。あの地蔵は、人間の領域と人ならざるものの棲み処の境を示すものだから。
この山は聖域にして禁域だった。かつてこの地に住んでいたアイヌの間には、この山にウェンカムイ(悪い神)が棲むという伝説があり、決して入ってはならない神聖にして危険な場所とされていた。そして、明治時代にこの地を開拓した人々にも、その掟は受け継がれた。美瑛町の出身である山際は少年時代、この森に入らないように強く言われていた。
「あの山にある『黄泉の森』には地獄からやってきた怪物が棲んでいて、這入りこんだ人間の内臓を貪り喰うんだ。だから、決して入っちゃだめだよ」
祖母がおどろおどろしく語るその言い伝えを聞くたび、少年だった山際は震えあがり、夜中に便所に行けなくなったものだ。
怪物の言い伝えなんて、子供が山に入って遭難しないようにするためのものに過ぎない。そう思っていても、幼い頃からくり返し植え付けられたイメージは潜在意識に染みつき、なかなか削ぎ落とせずにいた。黄泉の森に侵入すると、腹の底から震えが湧き上がってしまう。
山際はあごに力を込めて、カチカチと音を立てる上下の歯を食いしばる。
この山の開発は数年がかりのでかい仕事だ。本格的にリゾート施設の建設がはじまれば、うちの会社も新しい社員を雇うことになるだろう。そうなれば、ベテランの俺は管理職につけるはずだ。ガタがきているこの体を酷使しなくても、給料をもらえる立場になる。だから、迷信なんて気にしていられるか。山際はアクセルを踏み込む。車体の揺れがひどくなり、硬い運転席に乗せている臀部が痛くなった。
漆黒の闇に覆われた山道をさらに十分ほど進むと、覆いかぶさるように左右に連なっていたエゾマツの大樹が消え去り、野球場ほどの広場に出た。中央にはプレハブ小屋が建っており、その周りにはブルドーザーやクレーン車、トラックなどの工事車両が並んでいる。
ここを起点にして、リゾートホテル建設予定地までの道路を整備する。それが開発計画の第一段階だった。そのための計測と樹々の伐採などを、山際を含める数人ほどで行っている。これから雪の季節になるので工事には向かない時期なのだが、反対活動によって生じた開発計画の遅れを取り戻そうと会社が躍起になっているらしい。
エンジンを切った山際は眉根を寄せる。プレハブ小屋の明かりが消えていた。時刻は午後十一時過ぎだ。普段なら仲間たちが酒でも飲んでいる時間だった。なのにカーテンの隙間から漏れる光も見えなければ、仲間たちの馬鹿笑いも聞こえてこない。
ふと山際は、プレハブ小屋だけでなく、この広場全体がやけに暗いことに気づいた。ヘッドライトを点けたまま車を降りた山際の口から、「ああ?」と声が漏れる。
広場を照らすために立てている数本の外灯が、すべて消えていた。
停電? その言葉が頭をかすめる。まだ電線が通っていないこの場所の電気は、プレハブ小屋の裏手に置かれた数基の発電機でまかなわれている。それに不具合が起きたのかもしれない。
「だったら、なんで連絡入れないんだよ」
ダッシュボードから懐中電灯を取り出した山際は、小走りで進んでいく。山際は発電機の管理者でもあった。もし故障したら、すぐに本社に一報を入れることになっている。
こんな山奥では、発電機は命綱だ。まだ九月の下旬だが、北海道の夜はすでに人の命を奪い得る冷気に満たされる。暖房器具もすべて電気に頼っているし、何よりこの場所を『人間の領域』にしておくために、電気は必須だった。
懐中電灯の明かりだけでは、濃い漆黒を十分に溶かすことはできなかった。足元に闇がまとわりつき、何度も転びかけながらプレハブ小屋の裏手に回り込んだ山際は、そこで立ち尽くす。
発電機が破壊されていた。予備も合わせて五基置かれていたそれらは、原形をとどめないほどにひしゃげ、内部の部品が辺り一面に散乱していた。唖然とした山際は、鼻先に刺激臭をおぼえて我に返る。ガソリンだ。発電機の燃料であるガソリンが漏れて気化している。
ガソリンに引火したら爆発が起きる。すぐに仲間たちを避難させなくては。きっと、誰かが重機で間違って発電機を轢いてしまったのだろう。そうでなければ、あんなふうに壊れるわけがない。山際は慎重にその場を離れると、プレハブ小屋の正面へ行き玄関扉を開ける。
「おい、お前ら、何やって……」
そこまで言ったところで、山際は言葉を失う。仲間とともに数週間を過ごしたプレハブ小屋、懐中電灯の明かりに浮かび上がったその室内は、見るも無残な様相を呈していた。
テーブルや椅子、棚が倒れ、大量の食器が床で割れている。十台ある簡易ベッドも多くが横倒しになっており、その周りに設置されていたカーテンは、カーテンレールごと落ちて床を覆っていた。そこにいるはずの仲間の姿は、誰一人として見えない。
「神隠し……」
その単語が無意識に口から零れる。七年前、この山を越えたところにある牧場で酪農をしていた一家四人が、夕食が食卓に準備され、テレビが点いたままの状態で煙のように姿を消すという事件が起きた。『美瑛町神隠し』と言われるその事件をニュースで見た祖母がつぶやいた言葉を山際は思い出す。
――きっと、ヨモツイクサが攫って食べちゃったんだよ。清二、絶対に黄泉の森に近づいちゃダメだよ。はらわたを引きずりだされて、生きたまま喰われちまうからね。
「怪物なんているわけがない。怪物なんているわけがない……」
呪文のように弱々しくくり返しながら、山際は室内を進んでいく。雲の上を歩いているかのように足元がおぼつかなかった。異臭を感じ、山際は足を止める。生ごみが腐敗したような、吐き気を催す臭い。それは横倒しになったベッドの向こう側から漂ってくる。
見るな、見るんじゃない。頭蓋骨の中で警告音が鳴り響く。しかし、体の動きを止めることはできなかった。操られるかのように山際は身を乗り出し、死角になっているベッドの陰を覗き込む。そこには赤黒い塊が、懐中電灯の光の中でぬめぬめと光沢を放っていた。
なんだこれは……? 息苦しさをおぼえつつ、山際は目をこらす。『それ』が何か、脳が認識した瞬間、激しい嘔気が襲いかかってくる。反射的に片手で口を押さえるが、食道を駆け上がってきた熱いものを押しとどめることはできなかった。
山際の口から溢れた吐瀉物が、『それ』に降りかかる。大量の血液にまみれた内臓の山に。
声にならない悲鳴を上げた山際は、身を翻す。言い伝えは正しかった。黄泉の森に入ってはいけなかったんだ。ここには怪物が棲んでいる。人を喰う怪物が。
恐怖で足が縺れ、前のめりに倒れてしまう。手から懐中電灯が落ち、倒れた棚の隙間に転がり込んだ。わざわざ拾っている余裕などなかった。軽トラックのヘッドライトは点けたままだ。外に出れば車まで走ることができる。這うようにしてプレハブ小屋を出た瞬間、全身が硬直した。軽トラックの前に『何か』がいた。
ヘッドライトの明かりが逆光になり、その姿をはっきりととらえることはできない。しかし、明らかに人間ではなかった。まばゆい光の中に揺蕩うそのシルエットは、トラックの天井をゆうに超えるほどに巨大だった。おそらく三メートルはあるだろう。闇を切り取ったかのように黒いその姿を、山際は地面に座り込んだままただ見つめる。
次の瞬間、『それ』のシルエットがぶれた。何かが割れる音とともに、周囲が漆黒に満たされる。『それ』がヘッドライトを破壊したことに気づき、心が絶望に染まっていく。
何かが這い寄ってくる気配がする。しかし、昼行性の生物である人間の目には、そのどこまでも深い暗闇を見通すことはできなかった。
夢だ。こんなの夢に決まっている。喘息発作を起こしたかのように喉の奥からヒューヒューと音が鳴る。自分が泣いているのか、それとも笑っているのかすら、山際には分からなかった。
背後から首筋に風が吹きつけてくる。生温かく、そして生臭い風が。
頚椎が錆びついたかのようにぎこちなく、山際は振り返る。漆黒に塗りつぶされた視界に、仄かに光が灯った。美しくも儚い蒼い光。幻想的なその光景に魅入られてしまう。
光が煌めき、宙に軌跡を描く。その瞬間、山際は腹部に衝撃をおぼえた。熱くどろどろとしたものが腹から溢れだし、わずかな間を置いて、五十年近い人生で未だかつて経験したことのない激痛が脳天を貫いた。
肺の奥から絶叫が湧き上がる。しかし、それが声帯を揺らす前に、再び光が煌めいた。
山際の首元で。
気管を駆けのぼった空気が血液とともに、抉り取られた喉から血飛沫となって迸った。