むかしむかし、ある村にハルという名前の少女がおりました。
 ハルはとても器量が良く、働き者で、村の誰からも愛されていました。
 けれど、ある年、国中で飢饉ききんが起こり、多くの人々が飢え死にしてしまいました。ハルが住む村でも食べ物が取れず、このままでは家族全員が飢えてしまいます。
 そんなとき、遠くの村から村長さんがやってきて、ハルを息子の嫁に欲しいと言ってきました。たくさんの石炭が採れる炭鉱があるその村はとても裕福で、もしハルが嫁に来てくれるならお礼に家族が何年か食べていけるほどのお金をくれるというのです。
「わたし、お嫁に行きます」
 故郷の村から離れるのはさびしかったですが、家族を守るためにハルは決めました。
 大切な家族に見送られて故郷をあとにしたハルは、生まれてはじめて汽車と人力車に乗って炭鉱の村の近くまで行きました。
「ここからは歩いて行くよ」
 人力車からおりた村長は、森の中を通っている細い道の前でハルに言いました。
 山道はとても険しく、畑仕事になれているハルでも歩くのはとても大変でした。ふとハルは、道の脇にお地蔵さまが立っていることに気づきました。
「このお地蔵さまはなんですか?」
「人の世界と神様の世界、その境目の目印だよ」
「神様の世界?」
「そうだよ。ここから先は『黄泉よみの森』、悪い神様が棲んでいる場所なんだ」
 村長はお地蔵さまに頭を下げると、道を進んでいきます。黄泉の森は暗く、寒く、とても不気味でした。遠くから、誰かの悲鳴のような声が聞こえてきました。
「あれは、ヨモツイクサの声だよ」
 おびえるハルに、村長が言います。
「よもついくさ?」
「あの世にいる鬼だ。この森の神様は、その鬼を使って動物を捕まえてはっているんだ」
「それじゃあ、私たちも捕まえられて食べられてしまうんじゃないですか?」
「大丈夫だ。神様に生贄いけにえを捧げれば、ヨモツイクサは襲ってこなくなるんだ」
 早足で進んでいく村長のあとを、ハルは必死に追っていきました。村につくと、ハルはすぐに村長の奥さんに連れられて、白い嫁入り衣装に着替えさせられました。
 嫁入り衣装を着たハルを、村の人々はとても歓迎してくれました。みんなが喜んでいる姿を見て、ハルはとても嬉しくなりました。
 夜になると村長の家でうたげが開かれ、ハルはこれまで見たこともないほど豪華なご馳走をいっぱいふるまわれました。けれど、まだ旦那様になる人と会うことはできません。
「旦那様はどこにいるのですか?」
 ハルが訊ねると、村長は笑顔になりました。
「息子は炭坑に仕事に行っている。ご馳走を食べ、うまい酒を飲んで待っていなさい」
 言われた通り、ハルはご馳走を食べました。これまで食べたことがないほど美味しくて、ハルは故郷の家族にもいつか食べさせてあげたいと思いました。
 村長はハルにお酒をすすめてきました。そのお酒は蜂蜜はちみつのように甘く、花のようにいい香りがして、飲むとお腹の辺りがほんのりと温かくなりました。村長はくり返しお酒を注いできます。断っては申しわけないと慣れないお酒を飲んでいるうちに、ハルはやけに眠くなってきました。
「長旅で疲れただろう。息子が帰ってきたら起こすから、ゆっくりと休みなさい」
 村長は優しく言います。ハルは眠気をこらえることができず、宴の途中で眠ってしまいました。
 気づいたとき、ハルは嫁入り衣装のまま、森の中にいました。
「ここはどこ?」
 立ち上がったハルはあたりを見回します。けれど、どこも同じように木の幹が迷路のように立ち並んでいるだけで、どちらに村があるのか分かりません。暗い森をハルは彷徨さまよいます。
「村長様! 旦那様!」
 必死に叫びますが、自分の声がこだまするだけで、誰も返事をしてくれませんでした。
 どうしてこんなところにいるのだろう。誰が私をここまで運んだのだろう。
 そのとき、女の人の悲鳴のような甲高い声が聞こえてきました。怖くて体をこわばらせるハルは、お地蔵様の前で村長から聞いた話を思い出します。
 この森には悪い神様が棲んでいて、ヨモツイクサというあの世の鬼を使って、獲物を捕まえて喰ってしまう。だから村の人がヨモツイクサに襲われないように、生贄を捧げている。
 ようやくハルは気づきました。自分が神様への生贄として連れてこられたことに。
「助けて! おっ母、助けて!」
 泣きながらハルは森を走ります。けれど、どれだけ走っても暗い森が広がっているだけで、同じところをぐるぐると回っているだけのような気がします。
 地面の枯れ枝や岩で裸足の足の裏が切れ、血が出てきます。やがて雪が降ってきて、地面が白くなっていきました。寒さで体が動かなくなってきたハルは、雪の上に倒れ込みました。
 このまま凍え死んでしまうのかな。倒れたままそんなことを考えていたハルは、樹々の奥に洞窟どうくつがあることに気づきました。
 あそこなら、寒さをしのげるかもしれない。残っている力を振り絞り洞窟に入ったハルは、驚いて息を呑みます。そこはあおく光っていました。まるで、たくさんのホタルが照らしているように。
「きれい……」
 ハルがそうつぶやいたとき、美しい歌が洞窟の奥から聞こえてきました。その歌声に誘われるようにハルは奥へ奥へと進んでいき、やがて蒼い光であふれた世界に辿り着きました。もう動く力も残っていないハルは、そこで仰向けに倒れました。
 満天の星空を見上げているような美しい光景を眺めていると、歌が止み、代わりにずるりと水にひたした布を引きずるような音が聞こえてきました。そちらを見ると、山のように大きな影がナメクジのように這って近づいてきていました。けれど、なぜかハルは怖くありませんでした。
「ここはどこですか? あなたは誰ですか?」ハルは力を振り絞って、訊ねます。
 すぐそばまでやってきた大きな影は、地の底から響いてくるような声で答えました。
『ここは黄泉の国。そして我は、黄泉の神だ。お前は誰だ?』
「私はハルです。生贄として、黄泉の森に連れてこられました。黄泉の国に来たということは、私はもう死んでしまったのでしょうか?」
『いいや、お前は生きたまま死者の国へ迷い込んだ。だから、お前の体はそうなっている』
 ハルは蒼い光に照らされている自分の体を見ました。着ていた嫁入り衣装はいつの間にかぼろぼろに破れ、その下からのぞく体は腐り果てて、たくさんのうじがたかっていました。
「私はここで神様に食べられるのでしょうか」
 ハルはたずねます。怖くはありませんでした。もう逃げる力も残っていませんし、こんなきれいな世界で神様に食べられるなら、それでもいいと思ったからです。
『我はヨモツイクサが殺してくる獲物の肉しか食べぬ。生きたまま死者の国に迷い込み、腐り果てた貴様の肉に興味はない』
 ハルは骨が見えている頬をわずかに上げ、眼球から蛆が飛び出している瞳を細めました。
『なぜ笑う?』
「それは……」
 ハルは唇が腐り落ちた口をゆっくりと開きました。

 

(つづく)