羽織っていた白衣を脱いでスタンドハンガーにかけた茜は、言われた通りに準備を進めていく。棚に置かれたサージカルマスクを手にとった茜に、「それじゃなくて、こっち」と四之宮が、大量の粉塵が舞う工事現場で使うような武骨なマスクを手渡してきた。
「これ、必要あるの? 結核とかの危険な感染症でも、普通はこんなマスクつかわないわよ」
緊張をほぐそうと軽い口調で言うと、四之宮は首を横に振った。
「感染対策じゃない。臭いの対策だよ。初めての経験だと、あまりの悪臭で嘔吐する場合があるからね。あと、稀だけど体液に毒物が含まれている場合がある。念には念を入れないとね」
予想外の回答に硬直した茜に、「それじゃあ、あそこで着替えてきてくれ」と、四之宮は『女子ロッカー室』と記された扉を指さした。
中に入ると、四畳半ほどの空間にロッカーと姿見だけが置かれていた。やけに埃っぽい空気が、ここが長い間、使用されてこなかったことを伝えてくる。
ロッカーを開ける。安っぽいスウェットの上下が入っていた。四之宮が気をきかせて準備してくれたものだろう。手術着の上に防護服を着こんで解剖するつもりだったが、さっき聞いた話によると想像を絶する臭気を浴びることになりそうだ。一応着替えておいた方がいいだろう。
手術着を脱ぎ、横目で姿見を見る。下着姿の引き締まった肢体がそこに映し出されていた。二十代のときと全く変わらぬ体型を維持していることを確認して満足した茜は、スウェットを着てその上に防護服を装備していく。
ロッカー室を出るといつの間にか、四之宮の他に三人の男がいて、防護服を着こんでいた。そのうちの二人は外で煙草を吸っていた刑事たちで、もう一人は二十歳前後の若い男だった。
「司法解剖に立ち会ってくれる刑事さんたちと、うちの教室に勉強に来ている大学院生だよ。法学部の学生さんだから解剖の補佐はできないけれど、書記をしてもらうんだ」
大学院生は「三崎といいます。よろしくお願いします」と覇気のある声で挨拶をする。
四之宮と二人だけで解剖をすると思っていたが、刑事まで立ち会うのか。法医学教室に所属していない自分がこの場にいることを咎められないか動揺しつつ、茜は「助手を務める佐原茜です」と平静を装って自己紹介をする。ついさっき喫煙を注意されたことで居心地が悪いのか、刑事たちは首をすくめるように会釈をしただけだった。
四之宮が「では行きましょう」とマスクを装着し、『解剖室』と記された扉を両手で押す。観音開きの扉は、抗議をするかのように大きな軋みを上げながら開いていった。その奥に広がっていた光景を見て、茜の心臓が一度、大きく脈打った。
昔ながらの銭湯のように、床に古いタイルが敷き詰められた部屋。テニスコートほどの広さの空間には解剖台が三つ並んでいて、そのそばにステンレス製の洗い場があった。おそらく、遺体やそこから出た汚物などを洗うためのものだろう。
そして真ん中の解剖台の上に、黒いビニール製の大きな袋が置かれていた。
あの中に遺体がある。こんな大仰なマスクをしなければならないほどに損傷した遺体が。体の芯がこわばっていく。
「佐原先生、お願いします」
四之宮が遺体袋の置かれた解剖台のそばまで進み、視線を送ってくる。茜は、「は、はい」と上ずった声で答えると、動きが悪くなっている足を無理やり動かして解剖室へと入っていった。
解剖台を挟んで四之宮の向かいの位置に立った茜は、周囲に視線を這わせる。執刀者の対面に助手が陣取るのは手術と同じだが、いまからメスを入れるのはもはや命を失い、腐敗をはじめた肉の塊だ。わきにある器具台に載せられた道具も、外科手術で使うものとは全く違っていた。
メスは刃渡り十センチを超えるほど武骨なものだし、他にも金槌、のみ、のこぎり、さらには小ぶりなチェーンソーまで準備されている。まるで大工道具のようだった。
三崎は記録用紙がセットされたボードとペンを持って、茜の斜め後方に陣取る。出入り口の近くで待機している刑事の一人は、首から一眼レフカメラをぶら下げていた。解剖がはじまったら、そのカメラで撮影をはじめるのだろう。
「それでは、はじめます」
四之宮はラテックス製の手袋を二重に嵌めた両手を合わせると、深々と一礼する。茜は慌ててそれに倣った。
「被害者は山際清二さん四十八歳。十月二日に行方不明となり、十月五日、同僚五人とともに遺体で発見される。六人の遺体は土に埋まった状態で発見された。山際氏以外の遺体は損傷が激しく、それらは札幌に送られて司法解剖を受けることになった」
おそらく、誰の体のパーツか分からないほどに原形をとどめていなかったため、マンパワーがある札幌で詳しく調べることになったのだろう。そして、比較的損傷が少なかった遺体だけを、発見現場から近いこの道央大学に運び込んで、事件の手がかりが劣化する前に司法解剖を行うことにした。頭の中で状況を整理している茜の前で、四之宮は説明を続ける。
「解剖室に運び込む前に、遺体のCT撮影を施行。損傷が激しいため、遺体袋に入ったままの撮影となった。その所見では、頭蓋骨、頬骨、下顎骨等に明らかな骨折は見られなかった」
「つまり頭を殴られて絶命したわけではないということですね」
離れた位置で腕を組んで立っている刑事が口をはさんでくる。
「CT画像だけでそれを判断することはできません。ただ、骨が折れるほどの衝撃を受けてはいないということです」
話の腰を折られた四之宮は、牽制するように刑事に鋭い一瞥をくれた。
「頸部から下は軟部組織を中心に激しく損傷をしており、肋骨も一部しか残っていなかった。四肢には多数の骨折が確認され、皮膚や筋肉の欠損が……」
数十秒かけて説明を終えた四之宮は、大きく息を吐くと茜を見た。
「それでは、これから司法解剖をはじめます。佐原先生、よろしいですね」
覚悟を決めた茜は、腹の底に力を込めて「はい」と返事をする。
四之宮は遺体袋についているジッパーに手をかけると、一気に下ろした。繭から蛾が羽化するかのように、黒い遺体袋が開き、中から『それ』が姿を現す。赤黒い表面がかすかに蠢いている塊。次の瞬間、アイシールドで覆われている目に痛みが走った。防塵用のマスクをしているというのに、耐えがたい悪臭が鼻を衝く。
「遺体は腐敗が進み、皮膚の大部分が蛆によって喰われ、脂肪や筋組織が露出している」
四之宮の所見を聞いてようやく茜は、袋から姿を現した肉塊が、腐敗し大量の蠢く蛆にたかられた人間の遺体であることを認識する。胃が締め付けられる感覚とともに、胸の中身が腐ったかのような嘔気が襲いかかってくる。茜は嘔吐しないように、必死に喉元に力を込めた。
「先生、死亡推定時刻はいつ頃ですか?」
刑事たちが近寄ってくる。カメラを持った刑事が、しきりに遺体の写真を撮影していった。
四之宮は「そうですねえ」と、手袋を嵌めた手を遺体の腹部だった場所に差し込む。そこはほとんど空洞になっていて、背中を走る脊椎骨が見えるほどだった。
「うーん、腹部臓器はほとんど残っていませんね。普通は胃の中にある未消化物などから詳しい死亡推定時刻を割り出すんですけど、今回はそれはできません。代わりに……」
四之宮はピンセットを手にすると、遺体の頬の筋肉に潜り込んでいる蛆を摘まみ上げ、まじまじと観察した。
「遺体にたかっている蛆がどれだけ成長しているかで、死亡してからの時間はある程度、割り出すことができます。この大きさの蛆が湧いていることを考えると、おそらく死後五日から七日といったところでしょう」
四之宮はホルマリンが入った小瓶に、摘まんでいた蛆を入れる。数秒、激しく断末魔のダンスを踊ったあと、蛆は動かなくなった。
「ちょうどガイシャが行方不明になった時期と一致するな。で、死因はなんですか?」
刑事が早口で訊ねる。四之宮は「そんなに急かさないで下さいよ」と間延びした口調で言うと、比較的無事な右腕の上腕部と前腕部を掴んで、肘関節を動かした。
「死後硬直は完璧に解けていますね。佐原先生、少し手伝ってもらっていいですか?」
「は、はい!」突然声をかけられた茜は裏返った声を上げる。
「死斑の状態を見たいから、遺体をそちら側に傾けて背中の状態を確認します。ちょっと手を貸して下さい」
手を貸す? この遺体に触れる……。激しい拒否感に体が動かなかった。