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 それがどれほどの悲惨な光景かを想像して喉の筋肉がこわばり、小此木は声が出なくなった。
「ヒグマは内臓を好んで喰うやつが多い。柔らかくてうまいのかもな。ヒグマに襲われて首を飛ばされて即死する奴はまだ幸運だ。最悪なのはあの山刀やまがたなみたいな爪で腹を抉られた奴だ。動けないままヒグマにはらわたを喰われていくんだ。ゆっくりと、地獄の苦痛を味わいながらな」
 酸素が急に薄くなったような気がして、呼吸が乱れていく。
「分かっただろ。もしヒグマに腹を破られたらもう助からない。だから最後の力を振り絞って、自分にとどめを刺せ。そうしないと、悲惨なことになる。……本当に悲惨なことにな」
 平板な鍛冶の口調が、それがたんなる脅しなどではないことを告げていた。
「顔が青いな。けど、いまさら後悔しても遅いぞ。あれだけ警告したのに、ついてくるって決めたのはあんただ。ここから一人で逃げ帰れば、ヒグマにとってかっこうの獲物だ。あんたにはもう、俺と一緒にこの森に棲む怪物を追う以外に選択肢はないんだよ」
 鍛冶は「行くぞ」とあごをしゃくると、足音を殺して再び歩きはじめる。
 鍛冶の背中をただ夢中で追いながら、小此木は森を奥へと進んでいく。エゾマツの太い幹で構成された迷路と、そこに生い茂る笹藪。延々と続く同じような光景に、時間の感覚が狂っていく。何日間もこの森を彷徨っているような錯覚にとらわれる。首筋を拭うと、手の甲にやけに粘着質な汗がべっとりとついた。
「……臭うな」ひとりごつようにつぶやくと、鍛冶は足を止めた。
「ヒグマの気配ですか?」小此木は声を上ずらせる。
「違う。今度は本当に臭いがする。鼻に意識を集中させな」
 言われた通りに鼻をひくつかせると、濃厚な土の匂いに混じってかすかに、すえた悪臭が鼻をかすめた。真夏に放置された生ごみのような腐臭が。
「……あそこだな」
 右前方、十数メートル先に生い茂っている笹藪に、鍛冶はライフルの銃口を向けた。その人差し指が、再び引き金にかかる。
「ここで待ってろ」
 指示を出した鍛冶は、間合いをはかる武術家のように、すり足でじりじりと笹藪に近づいていった。その姿を、小此木はまばたきすることも忘れて凝視する。
 笹藪との距離が三メートルほどになったとき、鍛冶は片膝をついて射撃体勢をとった。
 息をすることも憚られるほどの緊張が辺りに満ちる。数十秒後、鍛冶は大きく舌を鳴らして立ち上がった。
「いねえな。来ていいぜ、刑事さん。この周辺にはいまのところヒグマはいない」
 構えていたライフルをスリングで肩掛けにした鍛冶は、腰にぶら下げたさやから巨大で武骨な剣鉈けんなたを抜くと、無造作に振り回して笹藪の枝を切っていく。
「何をしているんですか? この藪にヒグマはいないんでしょ」
「ああ、ヒグマはいない。ただ、この奥に『何か』がある。分かるだろ」
 小此木は気づいた。腐臭が強くなっていることに。この藪の向こう側に、臭いの発生源がある。痛いほどに心臓の鼓動が加速していく。
 鍛冶が切り開いた道を数メートル進むと、向こう側に出た。周囲を笹藪に囲まれたテニスコートほどの空間。むせ返るほどの腐臭が鼻腔に侵入し、鼻の奥に痛みをおぼえる。そして、涙で滲む視界に『それ』が映し出された。
 最初、小此木はそれが何か分からなかった。理解することを脳が、心が拒絶した。
 空間の中心部に直径二メートル、高さ数十センチほどに土が盛られ、そこから様々なパーツが飛び出していた。
 人間の体のパーツが。
 こんもりと盛り上がった土から、複数の腕、足、胴体、そして顔などが突き出している光景は、前衛芸術のオブジェのようで、現実感が希釈されていく。
 次の瞬間、土にめり込んでこちらを向いている髭面の顔を視線が捉えた。眼球を失った眼窩が、恨めしそうにこちらを向いている。そこに白い蛆がうごめいているのを見た瞬間、食道を熱いものが駆け上がってきた。とっさに顔をそむけた小此木は、体をくの字に折って嘔吐する。
「しっかりしろよ。刑事なんだから腐乱死体ぐらい見たことあるだろ」
 たしかに、孤独死などで発見が遅れ、腐敗した遺体を見たことはある。しかし、ここまで人間の尊厳が踏みにじられた光景を目の当たりにしたことはなかった。
「これは……なんですか?」口元を拭いながら小此木は訊ねる。
土饅頭どまんじゆうだよ。ヒグマは満腹になると、こんなふうにエサを土に埋めて保管するんだ。そして、腹が減るとまた喰うって寸法さ。あいつらは少し腐ったくらいの肉を好んで食べるからな」
 土饅頭。たしかに聞いたことがある。しかし、そのどこか牧歌的な響きから、こんな凄惨なものだとは想像していなかった。
「おいおい、何を立ち尽くしているんだよ。ここからは刑事の仕事だろ。あそこに埋まっている遺体を調べなくていいのか」
 呆れ声で言われ、小此木は我に返る。そうだ、行方不明者を捜すためにこの森に入ったんだ。埋まっているのが作業員なら、すぐにこの場所を捜索隊に伝えて遺体を回収しなければ。
 生理的嫌悪を必死に抑えつけ、腐った人体から発する悪臭を感じないよう、口で呼吸をするように努めながら土饅頭に近づいた小此木は、土から飛び出している顔を観察する。眼球や鼻、唇、耳などの柔らかい部分は蛆がたかって原形をとどめていないが、眉尻に刻まれた古傷には見覚えがあった。失踪した工事関係者の一人、山際清二の写真で同じ傷痕を見た。
「間違いありません。行方不明になった作業員です」
 振り返った小此木は身をこわばらせる。鍛冶が銃を構えていた。さっきと同様に片膝立ちになり、銃口をこちらに向けていた。その指は引き金にかかっている。
「な、なにを……」
 かすれ声を絞り出すが、鍛冶は全く反応しなかった。その眼球が素早く左右に動いているのを見て、自分が狙われているわけではないことに気づく。注意してみると、銃口もわずかに小此木からずれていた。
 何を狙っているというのだろう。周辺にヒグマはいないと言っていたではないか。
 そこまで考えたとき、小此木は子供の頃に祖父から何度も教え込まれたことを思い出す。
 ――山で動物が死んでいたら、絶対に近づいちゃいけないぞ。それはヒグマのエサかもしれない。ヒグマは執着心がとんでもなく強い。自分のエサを奪った相手は絶対に許さないで、死ぬまで追いかけてくるからな。
 小此木は足元にある人間を埋めた土饅頭を見る。これは間違いなくヒグマのエサだ。それに近づき、調べている自分は、ヒグマにとってエサを奪おうとしている敵に見えてしまうのではないだろうか。
 おとりにされた。鍛冶はわざと俺を土饅頭に近づけ、ヒグマをおびき寄せて撃つつもりなのだ。山では足手まといになる俺を連れてきたのは、このためか。
 離れなくては。すぐにこの土饅頭から離れ、捜索隊に連絡を取らねば。そう思うのだが、こちらに向いた銃口と、いつヒグマが襲ってくるか分からないという恐怖で体が動かなかった。
 背後からがさりと音が聞こえてきた。関節がびついたかのように動きが悪くなっている首を回して、小此木は振り返る。後方に広がる人の背丈ほどの笹藪が揺れていた。葉と葉がこすれ合う音が響く。なにかがいる。何か巨大なものが藪の中から自分を狙っている。
 喘ぐように酸素を貪りながら、小此木は視線を正面に戻す。片膝立ちでライフルのスコープを覗く鍛冶の表情を見た小此木は、背骨に冷水を注がれたような心地になる。鍛冶は笑っていた。瞳孔が開ききった双眸を爛々と輝かせ、口角が頬骨に届きそうなほどに上がった凄惨な笑み。この男は獲物を狩るためだったら、躊躇ちゆうちよなく俺に弾を当てるだろう。そう確信させるほどの狂気を、鍛冶は纏っていた。
 いまにも決闘をはじめようとしている二匹の猛獣。その間に挟まれてしまった。このままでは、たとえどちらが勝とうが自分は命を失うだろう。
 また後ろで音が響く。再度、首を回して笹藪を見た小此木の体が震える。
 目が合った。密に生い茂った笹藪で遮られているので、そこに潜むものの姿を実際に捉えたわけではない。しかし、それでも『何か』が自分の目をまっすぐに見ていることに気づいた。
 大蛇に睨まれた小動物の心地をおぼえる小此木の脳裏に、四十年の人生の記憶が走馬灯そうまとうのように流れていく。 
 ああ、俺はここで死ぬのか。覚悟を決めた小此木は目を閉じる。瞼の裏に、穏やかに微笑む美しい女性の姿が映し出された。七年間、ずっと捜し続けた女性の姿。
「……椿」
 唇の隙間から、愛する女性の名前が零れた瞬間、藪がひときわ大きく揺れる。
 しかし、『何か』が藪から飛び出してくることはなかった。葉と葉がこすれる音が離れていく。巨大な生物が急速に遠ざかっていく。そして、静寂が訪れた。
 助かった? 助かったのか? 全身の筋肉が弛緩していく。膝から崩れ落ちた小此木のすぐそばで、足音が聞こえた。見上げると、いつの間にか鍛冶が隣にやってきていた。
 囮に使われたことに対する怒りは湧いてこなかった。この森は、人間社会の常識が通用するような世界ではない。少しでも気を抜けば他の動物のにえとなるここでは、鍛冶の方が正しいのだ。
 藪に潜み、姿を見せなかったにもかかわらず、圧倒的な存在感を発していた『何か』と対峙したいま、小此木はそのことをまざまざと突きつけられていた。
「逃げやがったか」鍛冶は唇の片端をあげると、ライフルをスリングで肩にかつぐ。
「……なんで嬉しそうなんですか?」
「俺の予想通り、アサヒの野郎はこの森に潜んでいたから、そして俺の予想を遥かに超えた怪物だったからだよ。こんな単純な罠で、簡単に狩れちゃつまらねえ」
「予想を超えた怪物?」座り込んだまま、小此木はその言葉をくり返す。
「ああ、藪の動きからして規格外のサイズだった。体重一トンを超えるかもしれない。それに、頭も切れる。狙われていることに気づいて、姿を現さなかった。土饅頭に近づいた奴は殺すっていう本能を抑え込んだんだ。そんなヒグマ、普通じゃねえ。とんでもない怪物だ」
 ヒグマ……、怪物……。小此木は笹藪を見つめる。
 果たして、あの奥に潜んでいた『何か』は、本当にヒグマだったのだろうか。ただの野生動物が、あの神々しいまでの存在感を発せるものだろうか。
「ウェンカムイ……」
 その正体は分からないが、ここには人間の理解を超越した存在が棲みついている。
 恐ろしい存在が……。
 小此木は土饅頭を見つめる。蛆が湧いた空洞の眼窩が、恨めしげにこちらを見つめていた。

 

(つづく)