はじめに

 

 先日、久しぶりに同級生に会ってきた。

 歳を重ねると昔話に花が咲くと言うが、咲いた花の中には「これ手入れしたほうがええやろ」という花もたくさんあった。

 過去に咲かせてきた切ない花の数々。いま思えば「私ごときがすみません」という気持ちにもなるが、あの頃はあの頃で、必死に毎日を生きていたのだと思う。

 人生にはガーデニングが必要だ。

 四十八歳のいま、乱れた花は摘み、そこに美しき花を植えたい。できるだけ自分が納得する花壇にして、生涯を終えたい。思った人生を歩んで、笑顔で最期を迎えたいが、死ぬときなんて、きっと誰でも少しは後悔する。

「ああ、もうちょっとマカロン食べたかったな」

 そんな些細なことだって、きっとひとつの後悔だ。

「まぁ、どちらかというとトータルで良かったんじゃないの?」

 そんなふうに終われたら、それは良い人生なんだろう。

 少しのことで血が騒いだ炎の10代。

 一瞬で人生観が変わる気がしていた雷の20代。

 物事の流れを読むようになった水の30代。

 そしていろいろ面倒になり、自由に生きることを決めた風の40代。

 出会いと別れ。

 骨の髄まで楽しんだおもちゃと漫画。

 挫折したRPG。

 散々こぼしてきたアイスコーヒー。

 接続を諦めたビデオデッキ。

 乾燥機にかけられたデニム。

 刈り上げすぎた襟足。

 数多のミッションを乗り越えてきた先に、いまの“なかにし成分”ができあがった。

 あらゆる知識と経験を配合し、変化に変化を重ねてきた結果が、いま目の前にいる短髪小太り眼鏡の私だ。

 それでも、裸眼にオーバーオールでピヨピヨサンダルだった頃に思い描いていた“最終形態”にはまだ程遠い。

 これで「なかにし最終形態です」とは、腹の底から言いたくない。

 だからこそ、このへんで一回セーブしておこうと思った。

 どうせこの先も変わるのなら、ゆるりと歩いてきたこの道を、一度誰かに見てもらおう。

 興味のある方、どうぞ寄ってきてください。

 一回読めばなかにしが喜び、

 二回読めば妻が喜び、

 三回読めば我が子が笑う。

 子どもが笑えば未来は明るい。

 途中退席、認めます。

 ふわりと浮かんで消えるのは、読んだ記憶とたばこの煙。

 流れる雲を見ているくらいの感覚で、ぼーっと読んでみてほしい。

 これは、私の人生の1巻から48巻までをまとめた“合本”である。

 最終巻がいつになるかはわからない。

 いまのところは、こんな感じ。

 中西家 次男・茂樹 四十八歳。

 これが、私の“いまのところ”。

 この本を手に取ったあなた。

 あなたの“いまのところ”は、どうですか?

 

■お笑い

 

【一番の親友】

 僕の相方は3歳年下のいとこ・那須晃行だ(以下、晃行と表記)。彼とは親戚でもあるし、子どもの頃からともに育ってきた幼なじみで、かつ親友でもある。自分の友達よりも晃行のほうが仲も良く、僕が考えた遊びで一緒に時間を過ごすことが当たり前になっていた。たとえばおもちゃ遊び。家にある人形を晃行と2人で持って、その場でストーリーを考えたりする。「このセリフを言うてくれ」と彼にお願いして、僕が言葉を返す……ということを家の仏壇の前で一日中やっていた。これを決して誰に見せることもなく2人でひたすら面白がり遊び続けていたが、そんな時間はいつまでも続かなかった。

 

一番の親友

 

【晃行と離れても】

 小学5年生のとき、両親の別居がきっかけで僕は山口県へ引っ越すことになった。晃行の住んでいる京都府と山口県は遠距離。普通ならそこで遊ばなくなると思うが、関係はまだまだ終わらない。山口に住んでからも京都の晃行とは電話で遊んでいたのだ。留守録機能を使って会話を録音し、電話を切ったあとに録音テープをお互いに聞いて「あの部分、面白かったな」と再び電話で延々と語り合ったりする。この長電話で親にこっぴどく叱られた記憶がある。

 このときは幼かったし、お笑い芸人になろうなんて考えもなかった。ただ、純粋に楽しくてやっていただけなのだ。しかし、こういう遊びの経験がいまに生きているのかもしれない。

 

晃行と離れても

 

【地方のテレビ事情】

 当時の山口県で驚いたことがある。テレビ番組が少ないことだ。民放の2局とNHK2局の4局しか映らない環境で、当時流行っていた『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系)や『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(フジテレビ系)なんて観たことがない。

 放送時間も東京や大阪とは異なる。だから、夕方の5時に『笑っていいとも!』(フジテレビ系)が放送されたりしていた。『ウンナン世界征服宣言』(日本テレビ系)や『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ系)、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(TBS系)なんかは放送していたし、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ系)も深夜に放送していたから観てはいたが、お笑い好きの目線では観ていなかった。

 覚えているのは毎年放送される『24時間テレビ』(日本テレビ系)のこと。ある年の出演者にダウンタウンさんがいたのだ。人気芸人をたくさん見られる機会もなかったから、寝ずに24時間、ビデオを録画し続けた。VHSのテープを切り替えるためにずっと起きて録画を見守っていたのだ。このときは正直、ダウンタウンさんより起きていたと思う。

 

【お笑い芸人になったワケ】

 芸人を知らないで芸人になった僕の経緯は、周囲に比べたら少し特殊かもしれない。僕は子どもの頃から、晃行との時間がずっと続けばいいなと思っていた。だから「大人になってもずっと一緒に遊んでいこうな」と彼に言っていたのだが、ある程度の年齢になってから、この「大人になっても一緒に遊ぶ」を実現するにはどうしたらいいか……という現実の壁に当たる。

 そんなことを考えていたとき、たまたま松竹芸能の養成所の広告を新聞か何かで発見し、「オモロそうやから行こか」と思ったのがお笑い芸人になったきっかけである。憧れの人がいたわけでもなく、誰かに会いたいとかそういうものもなかった。純粋に晃行と一緒に楽しいことをしていきたい、というのが理由なのだ。

 

お笑い芸人になったワケ

 

【時間かせぎ】

 僕は、一度就職したらその職場を辞めずにずっと同じ場所で働き続けるような性格だと思う。だから進路を考えたとき、その後の人生も決まるだろう……そうあらためて考えると、一番いいのは晃行と一緒にいることだ。そうなるためにはどうしたらいいか考えていた。

 このとき、僕は介護福祉の専門学校へ通っていた。大好きだった祖母が亡くなったことがきっかけで、「将来はお年寄りのお世話をしてみたい」と親に言って入学までこぎつけたのだが、実のところは時間を引き延ばすのが一番の理由だったりする。

 将来、晃行と同じ仕事をしたいなと思っていたが、晃行も高校だけは卒業したほうがいいと考えていたので、彼の卒業を待ちつつ専門学生をやっていた。親に申し訳ない気持ちもあるが、思い描いた計画はうまく進んだと思う。

 

【養成所とネタ見せ】

 大阪の子どもは土曜日のお昼まで学校に行って、その後、家でインスタントラーメンを食べながら新喜劇を見る、というのが定番。僕もみんなと同じようにお笑いと食事がセットだったが、山口県では生活も一変した。だから、それらしいお笑い知識については、小学5年で引っ越す前までのものしか持ち合わせていない。

 そういった経緯もあり、養成所で作ったネタに関していえば「小さい頃に見ていた漫才のマネ事」と「遊びの延長」という表現が合っていると思う。かつてテレビで観ていた漫才師の口調を真似てみたり、幼いときに楽しかった遊びをネタにしていたこともある。

 当時、養成所でネタ見せ審査していたのは松竹芸能のマネージャーさんだったのだが、感想ではなく「服装が汚いな」などと、笑いとまったく関係ないことを言われてとても悔しい思いをしていた。

 

養成所とネタ見せ

 

【きっかけの喝】

 僕が養成所に通い始めた頃、父と母も住まいを山口から大阪に戻すことになり、僕は実家から養成所に通っていた。

 しかし、ネタ見せしてもうまくいかず、次第に顔を出さなくなる。辞めようと思っていたわけでもないが、急がんでもいいかなくらいの気持ちで、バイトばかりして遊び呆けていた22歳の頃。再び養成所に通い出すきっかけをくれたのは父だった。

 もともと応援してくれていた父だから、そんな息子の様子を見てついに痺れを切らしたのだろう。テーブルをどつきながらの激昂。あんなふうに怒られたのは小学校以来だった。なんなら、父が座椅子から立ち上がる姿を見るのすら久しぶりだった。

「お前がどんだけ成長しても、俺は絶対負けへんからな」というセリフは未だによく覚えている。父の偉大な背中を見た僕は、ようやく気が引き締まり、再び難波に戻ったのだ。

 

きっかけの喝

 

「いまのところ」は全3回で連日公開予定