まえがき
電気グルーヴのオールナイトニッポンを振り返るにあたって、客観的な出来事の記録ではなく、番組の記憶にまつわる私の心の感触を、どうにか掬い取って、書き残したいと思った。それでなくては、電気グルーヴのオールナイトニッポンの本質的なものが伝えられないと思った。
だから、「私」を中心に据えて、主観で語っていく方法を選んだ。加えて、私の個人史の時間軸に沿って、電気グルーヴのオールナイトニッポンの出来事、電気グルーヴ誕生の様子、高校時代の前身バンド「人生」のエピソードなどを、時期をバラバラにして散りばめるスタイルを取った。
その期間は、電気グルーヴが誕生する前年の1988年から、最終開催となった「WIRE13」の2010年代のはじめあたりまでだ。第1章だけ、2023年に放送された、オールナイトニッポン55周年を記念したスペシャル企画で、一夜限りの復活をした、電気グルーヴのオールナイトニッポンの制作準備期間の約1ヶ月が、時間軸になっている。
また、電気グルーヴに関する事柄だけでなく、90年代、00年代の時代の空気感も出来る限り、書き写しておく必要もあると思えた。だから、当時の社会風俗、文化、事件などにも話題は及んでいる。
その結果的、本文において、長く電気グルーヴやオールナイトニッポンに触れない部分がある。横道にそれた話題は、電気グルーヴのオールナイトニッポンの実像を浮かび上がらせるための舞台装置だと思って、付き合っていただけたら嬉しい。
そして、電気グルーヴやオールナイトニッポンの本質的な姿を描き出すために、最も語る必要があると感じた被写体は、その時代を共に生きた友人たちだった。
それは高校時代、静岡の「石野の部屋」にたむろし、上京後も密に時間を共有した友人たちであり、さらに電気グルーヴの強い引力によって、東京で出会うことになった、新たな仲間たちだ。
電気グルーヴのおかげで、私は非常に多くの、個性的な人たちと出会うことができた。何よりそれが、私の人生を豊かにしてくれた。
そして、私の人生を彩った仲間たちは、みんな問題児ばかりだった。私は問題児の集団の中で、これまでの人生のほとんどを過ごして来た。その中には、電気グルーヴをはじめとして、大きな成功をつかんだ人たちも多勢いる。
彼らについて語らずして、お互いの引力で影響し合う、電気グルーヴ銀河の正確な天体図を、絵描き出す事はできない。
さらに、その問題児たちのうちの何人かの、凄惨な死についても書き残しておきたいと思った。その死を語る事は、私たちが青春時代に、何を欲して、何を夢見たかを語る事と同義だからだ。
第一章
2023年の正月を私は、ずっと落ち着かない気持ちで過ごした。意識して正月らしく過ごそうとして、昼間から、おせち料理をつまみに酒など飲んでいても、ふとした瞬間に、約1ヶ月先に迫った、ある仕事のことが脳裏をよぎった。そして、頭の中はそのことで埋め尽くされた。
私はフリーランスのライターであり、雑誌やネット記事の寄稿、放送媒体で構成作家などをして生活してきた。22歳からこの仕事を始めて、いつの間にか年齢は、50代半ばを過ぎた。
仕事の量は、大体どの時期においても生きていくのにギリギリで、レギュラーの仕事が1本でもなくなれば、途端に生活は行き詰まってしまう。年齢的にもこの先仕事が増えていく事は考えづらい。労働は売文しかした事がなく、書く仕事を失ったら、途方に暮れてしまう。その不安は年々大きくなるばかりだ。
ただ、毎年、年末から正月にかけての2週間余りは、頭の中からこの心配を追い払うことができた。1年の間、仕事がなんとかつながって、年末までたどり着くことができたら、とりあえず精神的に一息つくことができたのだ。
仕事の量は多くはないが、何もしていない時でも、頭の中は何かしらのアイディアをこねくり回しているのが癖になっている。しかし、年末年始だけは、無い知恵を絞り出さなくてはならないプレッシャーから、しばし解放されるのが、嬉しかった。
正月だからといって、将来の不安が消えるわけでは無い事はわかっているが、この時期は「とりあえず今だけは何も考えるのはやめよう」と思えた。
1年の中で年末年始ほど、私が、真面目にそして古風に生活する時期もない。レギュラーの仕事の、その年最後の入稿を済ませたら、解放感を覚えつつ早速、「私生活の仕事」に取り掛かる。
大掃除をする。年賀状を書く。金銀融通のご利益があるといわれている「一陽来復」のお札をもらいに行き、大晦日の決まった時間に、年ごとに変わる方角に向かって、そのお札を壁に貼り付ける。年が明けたら、初詣に行ってお参りをして、前年に買ったお札をお焚き上げして、新しいものを購入する。
1年のうちで唯一の、頭を空っぽにして、リラックスできる期間なのに、これらをこなしていくと、あっという間に時間が過ぎてしまう。それでもそうせずにはいられない。新しい年を無事に過ごすための、脅迫観念にも似た儀式なのだ。
しかし、そんな縁起担ぎの習慣も、この10年余りに身に付いたものだ。若い時は、そんな迷信じみた考えは露ほどもなかった。むしろ、子供の頃からだらしなく、掃除や片付けなんてまったくできなかった。
歳を取ったのだ。私の願い事は、図々しくも「現状維持」なのだ。30年前の私は、年末年始などまったく意識して生活していなかった。縁起担ぎも、初詣のお参りも興味がなかった。商売繁盛のお札をもらうなんて、格好悪いことだと思っていた。一番の望みは、好奇心が満たされることだった。
2023年2月、オールナイトニッポンの55周年を記念したスペシャル企画で、過去の人気パーソナリティーが、一夜限りの復活を果たすことになった。
その中で、電気グルーヴも、オールナイトニッポンの長い歴史を彩ったパーソナリティーの代表として選ばれて、レギュラー放送から約30年ぶりにオールナイトニッポンを任されることになった。
電気グルーヴは、1991年6月から1992年10月まで土曜日の2部を、1992年10月から1994年3月まで火曜1部のパーソナリティーを担当した。合わせて2年9ヶ月の放送期間だった。
私は、30年前に電気グルーヴのオールナイトニッポンの見習い放送作家として、スタッフのひとりに加えていただき、番組の終了までサブ作家として在籍した。そして、今回の復活電気グルーヴのオールナイトニッポンで、構成作家を担当することになった。
本来ならば、当時、メイン作家を務めていた赤松裕介も番組に参加するべきだった。しかし、赤松さんは、行方不明らしく、私一人に今回の任務が任された。赤松さんがいたら、どんなに心強かっただろう。
かくして2023年の正月は、電気グルーヴのオールナイトニッポンの仕事のプレッシャーで、例年のように、年末年始をリラックスして、過ごすことができなかった。
初詣では、真っ先にこの仕事が滞りなく済むことを祈った。
電気グルーヴの仕事をする事は、大変なプレッシャーだ。彼らは厳しい批評家であり、レベルが低いと感じたものや、偽善的なものに対して、容赦なく辛辣な言葉を浴びせる。そうすることによって、自分たちの価値観や審美眼をはっきりと示して、電気グルーヴのアイデンティティーを、世間に理解させてきた。
デビュー間もない彼らが、オールナイトニッポンを任されて、自らの価値観をはっきりと宣言して、自分たちが何者であるかを世の中に認識させるチャンスを得た事は、その後の活動に大きく役立ったことだろう。
電気グルーヴのオールナイトニッポンの放送を、今聴き返してみると、私の記憶以上に、世の中や他人に対して、手当たり次第に噛み付いていて驚かされる。若さに任せて、やみくもに噛み付いている印象すら受ける。非常に獰猛で、理不尽ですらある。今の時代ならば、きっとネットが炎上するだろう。
しかし、電気グルーヴのオールナイトニッポンで、彼らの発言が問題となり、後に謝罪をしたのは、放送中に地震が発生したときに、瀧さんが「一緒に揺れてください。そうすれば大丈夫ですよ」と言ったことについての、ただ1回だった。
彼らは、過激な発言はするけれど、当時の基準からすれば、番組が大きな問題になるような事はなかった。電気グルーヴは、常識とバランス感覚を持ち合わせていた。だからこそ、禁忌のスレスレまで近づいて反転するような、曲芸をすることができた。電気グルーヴは、そうしたセンスを持ち合わせていて、さらに、それを自負していることも、普段の彼らの会話からうかがうことができた。
そんな批評精神の塊であり、簡単に他者を受け入れることをしない彼らに、放送作家として、番組のアイディアや台本を提示する事は、とても恐ろしい。ましてや、私は電気グルーヴの2人とは、高校生からの付き合いなのだ。
「オールナイトロング 私にとっての電気グルーヴのオールナイトニッポンとその時代」は全4回で連日公開予定