足が重い。肺が痛い。心臓の鼓動が鼓膜まで響く。
すぐ前を進む鍛冶の背中を、ひたすらに追いかけながら小此木は荒い息をつく。
「つらそうだな、刑事さん。運動不足なんじゃないか」
鍛冶がからかうように声をかけてくる。
「山に慣れていないだけですよ。特にこんな登山道もない山は」
「ハイキングにきたんじゃないって言ったろ。道なんてなくて当たり前だ。ここは黄泉の森、『神の領域』なんだよ」
「神なんて信じているんですか?」
疲労で苛ついているせいか、挑発的なセリフが口をついてしまう。婚約者が失踪してから、二人で手を取り合って進むはずの幸せな未来が壊れてから、神仏の類に対して強い拒否感をおぼえるようになった。もし神がいるなら、なぜ自分から愛する女性を奪ったというのだ。
「神なんてそこらにいるぜ」鍛冶は大きく両手を広げた。「人間ってやつはな、太古から自分たちの理解を超えた存在を『神』として崇め奉ってきたんだよ。怒りをかって、自分たちが滅ぼされないようにな。だから、大自然の様々なものが崇拝の対象になっていた」
「自然現象なんて、ほとんど科学で解明されているでしょ」
息を整えながら言うと、「たしかにな」と鍛冶は肩をすくめた。
「だから、『神』はどんどん消えていった。人間が神を殺していったのさ。もう人間社会の中にはほとんど神は残っていない。けれど、ここは違う。この森は神の棲み処だ。ここには未だに神として存在している怪物がいる」
「ヒグマが神だっていうんですか? あんなのしょせんは野生動物に過ぎないでしょ」
「神さ。少なくともこの森に棲んでいるヒグマは、ずっと昔から神として崇められていた」
「ずっと昔から?」
「かつてこの地域に住んでいたアイヌは、『ウェンカムイ』が棲んでいるといってこの森を畏れた。その伝説が開拓民に伝わって、ここは禁域になったのさ」
「ウェンカムイ?」聞きなれない単語に、小此木は首を捻った。
「アイヌの言葉で、『悪い神』って意味だ。もともとアイヌは、ヒグマをキムンカムイ、つまりは『山の神』として崇めてきた。イオマンテぐらいは知っているだろ」
小此木は「ええ」とあごを引く。山で生け捕り、ある程度成長するまで飼育した子熊を殺して、その魂を神の世界へと送り返すアイヌの祭りだ。小学生のときにイオマンテの記録映像を見て、その迫力に圧倒されたことを思いだす。
「そしてアイヌは、人間を殺した動物はウェンカムイに堕ちると考えていた」
「つまり、この森には昔から人を殺したヒグマが棲んでいたって言うんですか?」
「そうさ。この森は人喰いヒグマの棲み処だったんだ。だからこそ、アイヌはこの森に入ろうとしなかった。そしてその禁忌は、開拓民にも形を変えて引き継がれたんだ」
「けれど、ヒグマの寿命は三十年くらいなんですよね。アイヌの伝説になった人喰いヒグマと、工事関係者を襲ったヒグマは違うやつですよね」
「そりゃそうだ」鍛冶は軽い笑い声をあげる。「猫又じゃないんだから、ヒグマが何百年も生きるわけがねえだろ。ずっと同じ怪物がこの森にいるとは思ってねえよ。けどな、もしかしたらこの森にはヒグマをデカく、そして凶暴にする『何か』があるのかもしれねえ。それこそ、日常的にヒグマを狩っていたアイヌが恐れおののくくらいの『神』にする何かがな」
「何かって、具体的にはなんなんですか?」
「さあな。特別な食べ物があるのか、それとも怪物ヒグマの子孫がこの森を縄張りにして……」
軽い口調でそこまで言ったとき、唐突に鍛冶が足を止めた。「どうしました?」と訊ねた小此木に、鍛冶は鋭い一瞥をくれると、唇の前で人差し指を立てる。その全身から醸し出される緊張感に、小此木は身をこわばらせるとせわしなく視線をあたりに彷徨わせた。
「近くにヒグマがいるんですか?」
小此木は小さくかすれ声を絞り出す。鍛冶はゆっくりと首を横に振った。
「いいや、まだ気配はしない。ただ、臭いがする。ヒグマの臭いだ」
小此木は「臭い?」と嗅覚に神経を集中させる。しかし、濃い土の臭いがするだけだった。
「鼻で感じる臭いじゃねえよ。俺の五感が告げているんだ。……ヒグマの領域に入ったってな」
腰を落とした鍛冶の口角が上がっていく。その双眸が爛々と輝きはじめる。
ベルトについているショットシェルホルダーと呼ばれる弾帯から銃弾を取り出した鍛冶は、ライフル銃のボルトを操作して装填していく。
「ちょ、ちょっと。だめですよ、装填しちゃ」
小此木は慌てて声をかける。銃刀法では誤射を避けるため、獲物を確認するまでは弾を装填してはならないと定められている。だからこそ、猟師たちはいつでも装填できるように指に弾を二発ほど挟んだまま銃を構えるのだ。
「刑事さん、まだ分かんねえのか?」
低くこもった声で鍛冶が言う。圧を感じて小此木は一歩後ずさった。
「ここはもう神の領域、人間の法が通用するような世界じゃないんだよ。コンマ一秒の遅れが勝負を左右する。文字通り、命がけの勝負をな。それでも、あんたは法を守れって言うのか?」
小此木が「いえ……」と口ごもると、鍛冶は鼻を鳴らした。
「俺を逮捕したけりゃ好きにしな。ただな、それはこの黄泉の森を出たあとだ。ここでは俺のやり方でやらせてもらう。いいな」
刑事として、違法行為を認めることはできない。しかし、この深い森では自分は場違いな闖入者にすぎないことも理解していた。小此木は目を伏せる。
「分かってくれたみたいだな。ああ、そうだ。刑事さん、あんた拳銃は持っているか?」
「え、ええ、一応……」
刑事は普段、銃で武装はしていないのだが、人を襲ったヒグマが潜んでいるかもしれないということで、拳銃携帯許可が出ていた。
「あんたも念のため、拳銃を抜いておけよ。とっさに撃てるようにな」
「あ、はい」
懐のホルダーからスミス&ウェッソンの三十八口径のリボルバー式拳銃を取り出した瞬間、鍛冶が無造作に手を伸ばしてきた。一瞬で拳銃をもぎ取られた小此木は「なにを!?」と目を剥く。
「大きな声出すなよ。どこにヒグマがいるか分からないんだぞ。ただ、弾を抜いとくだけだ」
鍛冶は慣れた手つきで弾倉を外して銃弾を取り出すと、拳銃を小此木に差し出した。
「どうして弾を抜くんですか!?」
慌てて拳銃を取り返した小此木は、上ずった声で訊ねる。
「そんなちゃちな拳銃じゃ、ヒグマにゃ効かねえよ。あいつらの分厚い毛皮と脂肪、そして筋肉に跳ね返されちまう。そして、中途半端な傷を負わされたヒグマは怒り狂って走ってきて、あんたの体を和紙みたいに簡単に引き裂くぞ」
「……頭を撃てばいいじゃないですか」
「頭? やめとけ。ヒグマの頭蓋骨は鉄兜みたいに頑丈なんだ。ライフル弾でも角度が悪けりゃ跳ね飛ばされちまう。それに、奴らの脳みそは小さい。俺たちも基本的に頭は狙わねえよ」
「なら、どこを狙うんですか?」
「心臓だ」鍛冶は小此木の胸の中心を指さす。「心臓さえ撃ち抜けば、さすがのあいつらも即死する。正面なら首元、側面からなら脇腹、あばら三枚って呼ばれる場所を狙って心臓を破壊するんだ。さて、無駄話はこれくらいにして、そろそろ『神殺し』をはじめるぞ」
ライフル銃を構えたまま、うって変わって慎重に歩を進めはじめた鍛冶に、小此木は「待ってください」と近づく。
「いいから、もう黙れって。俺がアサヒを撃ち殺したら、ちゃんと弾を返してあんたにも撃たせてやるから。そうすれば、あんたも婚約者の復讐ができるだろ」
復讐がしたいわけじゃない。椿がどこに行ったのか、なぜ彼女が消えたのか知りたいだけだ。
軋むほどに奥歯を固く噛みしめながら、小此木は鍛冶についていく。七年間、血眼で探し続けていた神隠し事件の手がかりが目の前にある。しかし、それに近づくためにはこの猟師の協力が必要だ。いまは従うしかなかった。二人は息と足音を殺しながら、森のさらに奥へと向かう。それにつれて、鍛冶が纏う空気が張り詰めていった。
「なあ、刑事さん。ナイフは持ってきているか?」
辺りの笹藪に刃物のように鋭い視線を注いだまま、鍛冶が話しかけてくる。
「ええ、登山用ナイフを一つ、持ってきていますけど」
「いざってとき首を切れるように、いつでもそれを取り出せるようにしておけよ」
「ヒグマに襲われたら、ナイフで首を切ればいいんですか?」
「違えよ。ヒグマにとっちゃ、ナイフで切られるなんて蚊に刺されるようなもんだ」
嘲笑するように鼻を鳴らすと、言葉を続けた。
「切るのは自分の頸動脈だ」
「自分の頸動脈……?」首筋に刃物を当てられたかのような寒気をおぼえ、声が震える。
「ライオンとかトラと違って、ヒグマが雑食性だってことは知っているな? つまり、奴らは生来のハンターじゃない。とんでもない体力と、デカい鎌みたいな爪があるから獲物を捕まえられるが、ネコ科の肉食獣ほどに狩りはうまくないんだよ」
「それはいいことですよね? つけ入る隙があるってことだから」
話の筋が読めず、困惑しながら訊ねると、鍛冶は「いいや、最悪だ」と低くこもった声でつぶやく。その顔にまた、どこまでも昏い影が差した。
「本物の肉食獣なら、本能的に獲物の首に噛みついて頸椎を折るか、窒息させるかして、しっかりととどめを刺してから獲物を食べる。けれど、ヒグマは違う。あいつらはとりあえず獲物が動けなくなったら喰いはじめるんだ」
「それって……」
「そう、あいつらは生きたままの獲物を貪るんだよ」