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 手術着の上に白衣を纏ったまま、佐原茜は病院の職員用出入り口から外に出る。まだ十月だというのに、刺すように冷たい夜風がうなじから体温を奪っていく。
 スリッパを鳴らして小走りで病院の裏手へと回り込むと、年季の入った三階建ての建物が見えてきた。解剖学や組織学などの、基礎分野の研究室が入っている研究棟だった。その入り口近くでコートを着た中年男性が二人、煙草を吸っていることに気づき、心臓がわずかに跳ねる。一見するとサラリーマンのようだが、その全身から醸し出されているどこか危険な雰囲気は、男たちが堅気ではないことを示していた。間違いなく刑事だろう。
 これからしようとしていることを警察に知られたら、問題になるかもしれない。茜は深呼吸をくり返しながら、男たちに近づいていく。
「病院の敷地内は禁煙ですよ」
 動揺を悟られないように気をつけつつ声をかけると、男たちは「ああ、すみません」と慌てて携帯灰皿を取り出して煙草を消す。ばつが悪そうに目を伏せる男たちのそばを通って建物に入った茜は、大きく息を吐いた。なんとか怪しまれることなくやり過ごすことができた。
「よう、佐原」
 突然、背後から声をかけられ、身をこわばらせる。振り返ると、非常灯だけが灯った暗い廊下の奥に、Tシャツにスウェットのズボンというラフな姿の痩せた男が立っていた。
「なんだ、四之宮しのみやか。驚かさないでよ」
 茜は安堵の息を吐く。四之宮まなぶは医学生時代からの友人だった。出席番号が近いので、実習などで同じ班になることが多く、いつの間にか親友のような間柄になっていた。
「佐原が勝手に驚いただけでしょ。なんで、そんなにこそこそしているの」
「だって、私が手伝うってばれたら問題になるでしょ?」
「そんなわけないじゃん。僕が許可を出しているんだからさ。こう見えても教授様だよ。君の上司である柴田しばた教授とも立場的には対等なんだ。この前なんて二人で飲みに行ったんだよ。……二十歳近く年上の先輩教授と二時間近く話して、緊張しっぱなしだったけどさ。なんにしろ、ここは僕の城、僕の王国さ。ここで何をしようが誰にも文句なんて言えないよ」
 芝居じみた仕草で両手を広げる親友の姿に、茜は苦笑する。四之宮は去年、道央大学医学部法医学教室の教授に就任した。凄惨な遺体を取り扱うことも多い法医学教室に入局する医師は極めて少なく、道央大学医学部では二、三十年に一人といったところだ。それゆえ、その人物はほぼ間違いなく若くして教授に就任する。
「王様だけで、国民は誰もいない王国だけどね」
「嫌なこと言うなよな。それじゃあ、とりあえず行こうか」
 あごをしゃくった四之宮と並んで、茜は薄暗い廊下を奥に進んでいく。
「ねえ、なんで明かりをつけないのよ」
「これからやることを考えたら、こっちの方が雰囲気が出るでしょ」
 楽しげに言う四之宮を見て、茜は「悪趣味ね」とため息をついた。
「悪趣味で結構。僕みたいな変わり者がいないと、法医学っていう大切な学問がすたれてしまうからね。そうなったら、大きな損失だよ。特に、犯罪捜査の分野でね」
 四之宮はポケットから取り出した鍵で錠を外し、『法医学教室解剖エリア 関係者以外立入厳禁』と記された扉を開いた。四之宮に続いて扉をくぐった茜は部屋を見回す。
 十二畳ほどの空間が蛍光灯の光に浮かび上がっていた。右側には防護服やマスクなどの備品棚、手指洗浄用の洗面台などが設置されている。左側の壁一面に並んでいる巨大な棚に所狭しと陳列されているガラス瓶には、様々な臓器がホルマリンに浸かっていた。中には、頭部が二つある胎児の標本すらあった。思わず鼻の付け根にしわが寄ってしまう。
「そんな顔しないでくれって。僕が集めたものじゃないよ。歴代の法医学教室の教授たちが集めてきたものだ。貴重な症例の標本も多いから、僕が勝手に処分したりはできないんだって」
「ねえ、本当に私もここに来てよかったの?」
 標本が並んだ棚から視線を外しつつ茜が訊ねると、四之宮は口角を上げた。
「言っただろ。僕は教授様だって。警察だって文句は言えないよ。それに、助手がいると実際に助かるんだ。うちの教室、僕しか医局員がいなくて慢性的に人手不足だからね。佐原こそ大丈夫だったの? 外科って忙しいんじゃない。このくらいの時間でも、よく呼び出しとかされるでしょ」
「大丈夫、後輩の姫野って子に、何かあったときの代役を頼んでおいたから」
「ああ、姫野ちゃんね。あの子、可愛いよね。学生時代、テニス部の後輩でアイドル的な存在だったんだ。僕は幽霊部員だったから、あまり親しくなれなかったけど。よかったら今度、三人で飲みに行こうよ」
「嫌よ。自分の恋路ぐらい、自分でどうにかしなさい。もういい齢なんだから。それより、早く解剖をはじめましょ。もう、遺体はついているんでしょ」
 二時間ほど前、とある遺体が司法解剖のために搬送されていた。警察の検視官により事件の可能性があると判断された遺体には、司法解剖が行われる。大学病院の法医学教室が警察から依頼を受け、死亡推定時刻や死因など、捜査の手がかりになる情報を徹底的に調べ上げるのだ。
 そして今夜、茜は助手としてその司法解剖に立ち会うことになっていた。
「佐原、くどいようだけど、本当にやる気かい?」
 四之宮の表情が引き締まる。
「今日、解剖する遺体は、行方不明になった君の家族と関係しているかもしれないんだろ」
 茜は拳を握り込むと、「……大丈夫」と頷いた。今日の昼過ぎ、小此木から連絡があった。黄泉の森で『神隠し』にあっていた作業員たちが全員遺体で見つかったと。
 どんな状況だったか茜が訊ねると、『発表していい段階になったら、あらためて連絡するよ』と言い残して通話は切られた。一昨日、事件のことを話したので、義務として一報だけを入れたのだろう。事件の詳細を一般人には漏らせないという強い意志が、電話越しに伝わってきた。
 なんとか事件の情報を手に入れたい。それが、家族失踪の謎を解くための手がかりになるかもしれないから。そう考えたとき頭に浮かんできたのが四之宮だった。
 道央大はこの地域では唯一、法医学教室がある大学だ。行方不明者が遺体で見つかったのなら、ここで司法解剖が行われる可能性が高い。そう考え、茜はすぐに四之宮に連絡を取ったのだった。予想通り、黄泉の森で発見された遺体の司法解剖の依頼が警察から来ていることを聞いた茜は、反射的に「私も解剖に立ち会わせて!」と叫んでいた。
「けど、大丈夫かな?」四之宮が目を覗き込んでくる。「今夜の遺体は、かなり損傷が激しい。一般人なら卒倒してもおかしくないほどに酷い状態だ」
「私は外科医よ。毎日のように開腹手術をして、臓器を見ている。心配ないでしょ」
「いいや、あるよ。手術と司法解剖は全く別物だ。絶命した瞬間から、人間の体は微生物による分解がはじまる。まず腹腔臓器が消化酵素によって自壊し、どろどろに融けて腐りはじめる。その腐敗臭におびき寄せられたハエが産卵をし、蛆が湧いて体の柔らかい場所から食べ始め、目や鼻、耳、肛門、膣などから体内に侵入していく。さらに腐敗が進むと、ガスが発生して体が風船のように膨らむこともある。条件によってはそれが腹腔内に溜まり、体が破裂して腐った肉片が周囲に飛び散ることだってあるんだ」
 生々しい内容に吐き気をおぼえ、茜は口を押さえてしまう。四之宮の顔にはっとした表情が浮かんだ。
「あ、悪い。脅しすぎたね」
 恨みがましく「本当よ」と睨むと、四之宮は頭を掻いた。
「ただ、本当の話なんだよ。しかも……」そこまで言ったところで、四之宮は口ごもる。
「しかも、私の家族も同じ目に遭っているかもしれない」
 押し殺した声で茜が言葉を引き継ぐと、四之宮は「うん」と重々しく頷いた。茜は胸に手を当てて深呼吸をくり返す。ホルマリンの刺激臭が鼻をついた。
「たとえそうだとしても、私はこの解剖に立ち会いたい。七年間、家族がどこにいったのか、なんで私を置いて消えてしまったのか悩み続け、苦しみ続けてきたの。もう、みんなが生きているなんて希望は持ってない。ただ、たとえ骨だけでもいいからもう一度会いたい。そして、きちんととむらいたいの。そうじゃないと、私は先に進めないの」
 想いを包み隠さず伝えると、茜は親友の反応を待つ。四之宮は大きく息を吐いた。
「佐原さ、海外留学の話があったんだよな。アメリカの大学病院の移植外科に誘われていたんだろ」
「うん、そうだけど……」
 急に話が変わったことに戸惑いつつ、茜は頷いた。去年、アメリカの有名病院で外科部長を務める医師が、道央大に講演と技術指導にやってきた。移植手術を専門にしているその医師は、道央大病院で生体肝移植を実演してくれた。ドナーの肝摘出から、レシピエントへの移植まで二十時間を超える手術を、休憩をとることもなく第一助手としてサポートした茜を気に入って、その医師は自分の下で移植手術を学んでみないかと勧誘してきた。
 移植手術の本場であるアメリカで、一流の移植外科医の指導を受けられる。その魅力的な誘いに心は大きく揺れたが、いまだに答えを保留したままだった。
「留学に行かなかったのは、家族のことがあるから?」
 四之宮が静かに訊ねてくる。茜は数秒の躊躇のあと、「……ええ」とあごを引いた。
 失踪した家族は近くにいる。見つけてもらうことをきっと望んでいる。いま北海道を離れるわけにはいかない。まだ、ここでやるべきことがある。その強い想いが留学の決断を妨げていた。
「僕さ、佐原にはアメリカに行って欲しいと思っているんだよね。佐原はこんな小さな国に縛られるべきじゃないよ。君は世界に羽ばたくべきだ。それだけの才能を持っているよ」
「何よ急に。お世辞なんか言わなくていいって」
 急に持ち上げられ、照れくさくなって茜は目を伏せる。
「お世辞じゃないさ。医学生時代から佐原は飛びぬけていただろ。陸上部のエースで、短距離と中距離どっちもこなして、東医体では断トツで毎年優勝してた。勉強でも実習でもいつも積極的にやっていて、みんなが疲れ果てて動けなくなっているような状態でも一人だけ元気だった」
「姫野もそうだけどさ、みんななんで私を化け物みたいに言うのよ」
「体力は外科医にとって重要なファクターでしょ。それに、佐原は超一流の外科医になるっていう圧倒的な熱意がある」
 たしかに子供のときに医師に憧れてから、一流の外科医になることを目指し続けてきた。手術がうまくなりたい。メスを振るい、美しい手術をしたい。その想いは茜にとって生理的欲求に近いほどに強いものだった。
「だから、今日の解剖に立ち会うことで佐原が前に進める可能性が少しでも高まるなら、僕は止めはしないよ。佐原が選んでくれ」
 私は凄惨な腐乱死体を見ても大丈夫なのだろうか? 家族が同じ目に遭ったかもしれないと知っても、平静でいられるのだろうか。目を閉じて数秒間、自問したあと、茜は瞼を上げた。
「立ち会わせて。きっと、それが私の義務だから」
「分かった。それじゃあ、準備をしよう。防護服と長靴、アイシールドにマスクをとって、奥にある女性用ロッカーで着替えてきてくれ」

 

(つづく)