悪の正体

 

 相変わらず、読むべき本が山積している。推理小説を読むのは娯楽だが、その時間がない。仕事の間隙をぬって、なんとか『フロスト始末(*1)』(創元推理文庫)を読む。これは以前、読んだことがあるが、翻訳が出ると再度読む。自分が英文をいかにいい加減に読んでいるか、さらに間違って記憶しているか、それがわかる。もっとも推理小説を丁寧に読んでもしょうがない。英語の勉強にしかならない。この歳でいまさら英語を勉強する気もない。帯に「全作ミステリベスト1位!」とある。勤め人に人気があるに違いない。著者のウィングフィールドは亡くなったようだが、これはいささか残念。フロストのシリーズは大好きな娯楽ものだったからである。

 どんな本が流行(はや)っているのかと思って、同じく創元推理文庫の『蘭の館(*2)』を試しに読んでみる。世界中で売れているという。読んでみて、なるほど、そういうわけか、と納得がいった。これはむしろファンタジーである。スイスはレマン湖畔の豪邸に住む姉妹の話で、まだまだ長く続くに違いない。主要な部分は恋愛ものだから、八十歳の爺がいまさら読む本ではない。

 まじめな方に戻す。佐藤卓『塑する思考(*3)』(新潮社)。これは毎日新聞に書評を書いたから、再説はしない。でもこれから創作活動をしようという若者には、参考になるに違いない。もっともちゃんと内容が読み取れるかどうか、それは保証できない。内容はむずかしくないけれども、「本当にそうだ」と思えるかどうか、そこらあたりで読者自身が問われる本である。

 佐藤優『悪の正体(*4)』(朝日新書)。飛行機に乗って、熊本に行くまでに思わず読んでしまった。なにしろ飛行機だから逃げ場がない。読み始めたら。やめられない。以前のことだが、同じ著者の『国家の罠(*5)』(新潮社)は素晴らしい本だった。そう思って、毎日新聞社、恒例の年末の企画「今年の三冊」にも挙げた覚えがある。テキトーな仕事ばかりしてきたし、見てきたような気がするから、著者が本気で仕事をしてきたことにいわば「打たれた」。じつは右に挙げた佐藤卓さんの本も同じである。仕事をするなら、本気でしてくれよなあ。その本気が伝わってくる本を私は評価する。内容が右だろうが左だろうが、そんなことはどうでもいい。

『国家の罠』はまさにドキュメントだが、この『悪の正体』は違う。著者の思想的な背景を知るのによい本である。著者はプロテスタントの神学を学んだ。私は個人的にプロテスタントが苦手である。中学・高校はイエズス会の栄光学園で、修道院が付属していたというか、修道院に付属していたから、カトリックには親和性がある。書いたものについても、明らかにプロテスタントの信者と思われる人から、いたくお叱りを受けたこともある。そう硬いことをいいなさんな。そういいたいのだが、それをいうと、もっと怒られるに決まっているから、反論はしなかった。もちろんプロテスタントにもいろいろあるから、一概に決めつけてはいけない。でもともかく、私がキリスト教信者になるとしたら、カトリックになる。

 

死の記憶と悪の正体

 実は『悪の正体』は読みたくない本だった。でも読んでしまった。おかげでいろいろなことを思い出した。なんの関係もないと思われるかもしれないが、まず父親の臨終。その話は書いたことがあるから再説はしない。ただその時に触れなかったが、最近気になることがある。それは臨終のときに、父が私の顔を見て笑ったことである。父は享年三十四、私は四歳だった。

 八十歳にほぼ届くようになって、自分は臨終のときに笑うだろうか、と考えるようになった。なぜ父は笑ったのだろうか。どう笑ったか、それはわからない。笑ったという記憶があるだけである。そのあと、即座に喀血かつ けつして、それが臨終だった。あるいは微笑ほほ えんだというべきかもしれない。でも私の記憶の中では、どういう笑いであったか、はっきりしない。笑ったということだけが明瞭なのである。

 もしかすると、父は四歳の私に、「死を恐れる」感情を植え付けるのを恐れたのかもしれない。私は解剖学を専攻して、死者と絶えず向き合っていた。それが可能だったことは、これと関係しているのかもしれない。死が怖いと思ったという、幼時の記憶を語る人がある。私にはそれがない。父の死がすべてを覆ってしまったとも言えるし、父の微笑みが私を助けてくれたとも言える。

 それが『悪の正体』とどう関係するのか。死は自然がもたらす究極の悪だとも言える。でもそれは仕方がないから、普通は悪とは言わない。ただし時ならぬ死は、やはり悪であろう。私の感情は小学生の自殺に強く反発する。そんなことが頻繁に起こる社会がまともなはずはない。そう思ってしまう。それが偏見であるのか、そうでないのか、判断できない。しかし本書を読んで、私はそれを悪だと思っているのだな。そのことに気づかされた。

 悪について考えると、気分が暗くなるような気がする。私がプロテスタントを避ける理由はそれかもしれない。善と悪を裁断することがまず嫌いである。簡単には決められないじゃないですか。著者もそれはよく知っている。だからいろいろ議論をする。例も挙げる。でも根本的に善悪が「ある」と思うか、「ない」と思うか、そこに違いがあるのかもしれない。善人なおもて往生す、いわんや悪人においてをや。

 次に思い出すのは、戦争の末期から敗戦である。私は鎌倉市に住んでいた。敗戦の年は小学校二年生。夜の空を、火を吐きながら、B29爆撃機が落ちていくのを地上から見上げていた。焼夷弾が花火のように美しく、集団になって空から落ちてくる。私が広島や長崎に住んでいたら、どうだっただろうか。

 私はひたすら戦争に反対すると言ったことはない。なぜならそれは現にあったことで、「現にあったこと」を否定してもしょうがないからである。将来は起こさないと決意する。それはそれでいいので、だからクェイカー教徒が存在するのであろう。コスタリカに行くと、こうした人たちが移住していて、町を作っている。しかもコスタリカは永世中立国になっている。ただし海を見ると、沿岸にアメリカの軍艦が見える。ドイツの原発反対みたいなもので、フランスから原発による電力を輸入する。ブータンの人は殺生を嫌う。だから食べるウシは「崖から落ちたウシ」で、鶏肉は「インドから輸入した」ものである。

 戦後になって、いわゆる戦災孤児や予科練帰りが増えた。九歳年上の兄も予科練帰りだった。いつも遊びに行く川に行ったら、予科練帰りくらいの年齢の若者が二人、手下を引き連れて、二人の子どもをいじめていた。川の深みに放り込む。岸に上がってくると、また放り込むのである。いじめられている子たちは、私より明らかに年上だが、泣き叫んでいる。私と仲間は震えあがって、しばらくそれを見ていた。自分が出て行って助けてやれるのは、ファンタジーの世界だけである。一緒に川に放り込まれるに決まっている。でもそれをいまでも記憶しているのは、目前の「悪を見逃した」という気持ちがあるからであろう。

『悪の正体』を読んでいると、こういう思い出が次々に出てきてしまう。だから読みたくないんだよなあ。そう思うのだが、そういう本は読まなきゃいけないのである。べつにマゾなのではない。自分が抱えているものは、いずれにせよ抱えて行かなければならない。意識しないように、できれば忘れるように、考えないようにするのだが、どうせどこかで出てくるに違いない。それこそが「自分」だからである。

 本書のはじめに、ブルブリス元ロシア国務長官の話が出てくる。エリツィン大統領の黒幕で、万事を仕切っている。最高会議派との対立を武力で鎮圧するのだが、その後に著者に電話がかかってくる。「神は私のしたことを許してくれるだろうか」。長官は著者にそう尋ねる。むろん著者は返事ができない。する必要もない。したことはしたことで、いうなれば済んでしまったことである。

 そういう立場には置かれたくないなあ。私はそう思ってしまう。だから政治にはかかわらないし、なにごとであれ、責任者にはなりたくない。なる時は成り行きで仕方がない時で、その時は覚悟をする。討ち死にを覚悟するわけだが、平和な戦後にそういう機会はなかった。多少あったとすれば学園紛争だが、あの時は助手になり立てだったから、下っ端もいいところだった。いまは体力がなくなったから、ますますトップはやらない。討ち死にする前に心臓発作で死んでいる。役に立つわけがない。

 ヘルメットをかぶって、ゲバ棒を持った学生が数十人でやって来て、研究室を追い出されたときは、さすがに腹が立って、怒っていたらしい。あとで近くにいた講師から「顔が真っ青だった」といわれてしまった。よほど喧嘩をしようと思ったのだが、忍の一字、あれでこちらが暴力行為に出たら、どうだっただろうか。いまでも時々考えてしまう。

 若いころだったから、逆に辛抱ができたのかもしれない。いまなら年老いて、辛抱ができなくなっているから、手ぐらい出ているだろうなあと思う。そのほうがお互いに良かったかもしれないが、これも済んでしまったことで、今更どうしようもないのである。

 

信仰と人生の重み

 著者の佐藤優はいつも聖書を読んでいるという。聖書を引き、さらにチェコの神学者フロマートカを引用する。著者の引用を読めば、まことにもっともだと思う。悪についての考察なんて、いままでしたことがない。ひたすら内容に感心するばかりである。ただし私は聖書が苦手で、旧約はともかく、新約聖書は読みたくない。いうなれば、一生を俗人で過ごしたいなあと思う。

 歳をとると、信心深くなる傾向がある。それはよくいわれることである。私の場合には、疲れるから、あまり暗いこと、重たいことは考えたくない。体力を消耗する。キリストが死んだというか、殺されたのは、三十代であろう。よくわからないけれど、昔からそう決めている。その年代と、八十代になろうという私では、生きる力が違う。私の方は死んで当たり前だから、キリスト教は若者の宗教じゃないのか。

 ソクラテスなら七十代で、これはよくわかる。とくに世間に喧嘩を売ったわけではない。でも世間はソクラテスを嫌って、だから死刑の宣告を受けた。アテネの若者に悪影響を及ぼすというのである。牢番に賄賂を払えば逃げられる状況だったから、それを知って市民も安易に死刑の宣告を出した。私なら賄賂を払って逃げると思うけれども、毒を飲むとしたら「面倒くさいから」とでも言うであろう。もっともその程度の生き方や考え方なら、そもそも死刑になんかならないはずである。

 著者は『ヨブ記』についてやや長く語る。確かにこれも聖書の中では、読みたくない話の一つである。ハッピーエンドになっているから、それでいいじゃないかというのが、安易な読み方だとすると、この話の真意はなんだろうか。「私に何かを与え、何かを奪うのも、神のご意志だ」。それについて、あれこれ言うべきではない。著者はそう解説する。それはやっぱりそうでしょうね。歳をとると、しみじみそう思う。うまく生きて来られたのは運で、失敗したのは自分のせい。運とはつまり神様の御手でしょうね。

 ともあれ『悪の正体』のおかげで、一生を振り返ってしまうことになった。著者にその意図はないかもしれないが、そういう効果もあるんですよ、この書物には。

(2017年8月)

 

 

 

*1『フロスト始末』上・下(創元推理文庫)R・D・ウィングフィールド 著/芹澤恵 訳

*2『蘭の館』上・下(創元推理文庫)ルシンダ・ライリー 著/高橋恭美子 訳

*3『塑する思考』(新潮社)佐藤卓

*4『悪の正体』(朝日新聞出版)佐藤優

*5『国家の罠』(新潮文庫)佐藤優

 

「読むこと考えること」は全3回で連日公開予定