【市毛百合花】
立ち止まってしまったリサのところまで戻ってきた野ばらが、周りを見回し叫ぶ。
「カメラで撮影しているあなたがた、映像を流したりしたら、訴えますからね。わたくしはなにひとつ認めていませんから。全部ゆーちゃんのバカバカしい妄想なんですからね」
「私が百合花だってことは認めてくれたんだ」
「認めたくなんかないわ。あんなに可愛かったゆーちゃんが、そこまでぶくぶく太ってしまうなんて」
「そうだね、こっちに来てから余計にしんどくて、メロンパンとコーヒー牛乳を口にする頻度が東京の三倍くらいになってるから。でも苦しくても、今は逃げちゃいけないってわかってるし。姪っ子たちにこれ以上しんどい思いさせられないからさ」
「皆さん、騙されないでくださいね。こういうの、全部嘘ですから。この子は昔から、ひどい嘘つきなの。でもまさかわたくしの個展会場でこんな騒ぎを起こすなんて……。ちょっと、なに笑ってるの?」
「嘘で塗り固められた世界で生きているあなたに、嘘つき呼ばわりされたから、おかしくてつい。『わたくしの個展会場』からして嘘だしね」
「わたくしは嘘なんてつきません」
「じゃあ、いつから岩下ちふゆ先生の弟子になったの? 私が子供のころは草間節子が先生で、岩下ちふゆ先生の名前なんてただの一度も聞いたことがなかったのに」
「言ってたわ。あなたが子供でちゃんと聞いてなかっただけよ。私はちふゆ先生の東京のご自宅に何度も招かれて、絵を教わったんだから」
「ちふゆ先生のご自宅は、東京ではなく埼玉だけど」
「あら、引っ越しされたのかしら。ああ、昔のことだから草間先生と勘違いしたんだわ」
「草間先生のご自宅は静岡。おふたりのご遺族とお弟子さんに話を聞いてきたけど、両先生とも、市毛野ばらという画家とのつきあいはないとのことでした」
「野ばら先生、どういうことですか?」
リポーターの男性たちがざわめく中、野ばらは叫ぶ。
「嘘なんかついてないわ。嘘発見器にでもなんでもかけてみてちょうだいよ」
「確かに針は振れないかもしれない。昔から自分がついた嘘を本当のことと思い込んでしまうタイプだから。でもふたりの先生については言い訳の嘘を考えておいたほうがいい。私よりも前に、新聞社が確認に来ていたんで、すぐにバレるはず」
「それが本当なら、野ばら先生はどなたに師事されていたんですか? 独学でこれほど素晴らしい作品を?」
「そうですよね。嘘は良くないけど、絵は本当にいいですものね……って、それも全て嘘ですから」
「は?」
「ここにあるすべての絵が、市毛野ばらの作品ではありません。彼女が描いたのは、今、拡散されてる『柊ぐ』って家族の絵だけです。ひいらぐ心が絵筆を持って描いたとか言い訳していた、別人が描いたみたいに下手くそなあの絵だけ」
「じゃあ、ここにある絵は誰が描いたって言うんですか?」
声を上擦らせるリポーターを見つめ、ゆっくりと唇を動かす。
「私の姉、市毛桜子です」
「えっ? 野ばら先生は、自分の娘が描いた絵を自分の作品として発表していると?」
「いい加減にして! そんなことあるわけないじゃない!」
怒鳴る野ばらの声から、今までの取り繕った響きが消えた。
「だったら、なんで急に絵筆を折るなんて言ったの? お姉ちゃんが逮捕されたら、もう絵が描いてもらえないからでしょ?」
ずた袋から取り出した資料をリポーターの男性に差し出す。
「これ、姉が東京でイラストレーターをしていたときの作品です。専門家が調べれば、ここにある絵を描いたのは姉だと、わかってもらえると思います」
「ゆーちゃん、いい加減にして! この子はダメだわ。ねぇ、リポーターの人、桜子に訊いてよ。桜子なら、誰がこの絵を描いたか、真実を話してくれるはずだから」
「もう訊いたよ。お姉ちゃんとも冬彦さんとも何度も面会して話を聞いてる。お姉ちゃんは最初お母さんのことを庇ってたけど、ようやく長い洗脳が解けたみたいだ。お姉ちゃんが市毛野ばらの名前で絵を描くことはもうないよ」
「……ゆーちゃん、どうして? あなたはなんで、あんなひどいことをした桜子たちを庇うの?」
「庇う?」
野ばらの一言が、感情を昂らせる。
「庇うってなに? 私は庇ってなんかいない。お姉ちゃんと冬彦さんがしたことは許しがたいと思ってるし、今もブチギレそう。幼い子供に対してあんなひどいこと、絶対にしちゃいけなかった。でも……、あのふたりは、自分がしてしまったことを心から悔いて、反省してる。服役して罪を償うのは当然のことだと思ってる」
「そりゃ、そうよ。あれだけのことしたんだから」
したり顔でうなずく野ばらに、我を忘れて「じゃあ、あんたは?」と、食ってかかった。
「あんたは、なにも感じていない。自分が悪いなんてこれっぽっちも思ってない。のんちゃんが側溝で死にかけたのは、そこまで周りを追いつめた、市毛野ばらのせいなのに……。だから、あんたがしたことがいかに深刻か、伝えなきゃいけないと思った。自分の承認欲求を満たすために、人の心をもてあそんで、弱い者に害をなす、市毛野ばらのような毒親が、他にもいるかもしれないから」
「毒親?」と、野ばらは鼻で笑った。
「ゆーちゃんの言うことはそのとおりよ。わたくしも同じように、あのふたりを許しがたいと思ってるわ。でもね、わたくしに関しては、ものすごく誤解があると思うの」
震える足で、やっとの思いでこの人の前に立っているのに、こちらの気持ちが微塵も伝わっていない虚しさに愕然とする。
「桜子とわたくしを一緒にしないでほしい。なぜって、桜子は人殺しじゃないの。未遂で取り押さえられたというだけで、桜子は自分の手で娘を殺そうとしたのよ。わたくしにはそんな恐ろしいこと、絶対にできないわ。たとえ『始末しなきゃね』と言われたとしても、それで本当に自分の娘を殺められるなんて、もう人間じゃない。桜子は、毒親を超えた殺人鬼よ!」
【市毛柊】
誰か、いる――。
ひとりじゃない。なんにんか。
笑ってる。
しゃべってる。
楽しそう。
「ねぇねぇ、あのね」
呼んだけど、誰もこっちを見ない。
なんで? どうして気づかないの?
……ああ、そうか。
とうめい、だからか。
とうめい、だから、見えないんだ。
あれ? でも、誰かがこっちを見た。
手を伸ばしてる。
泣いてる?
とうめい、なのに、見える人?
「のんちゃん!」
知ってる声。目を開ける。
まぶしくて、すぐまたつぶる。
誰かが、ぎゅってしてくる。
びっくりして、目を開けたら、すぐ近くにあざみちゃんの顔があった。
「ここ、天国?」
「病院だよ」
そうだ。起きたら、病院ってとこにいたんだ。
でも、いつもひとりなのに、今日はいっぱいで天国みたい。
「のんちゃん、ごめん……、ごめんね」
「あざみちゃん、どっか痛いの?」
どこが痛いかわかんないのか、あざみちゃんはもっと強くぎゅってしてくる。
「寒かったよね。怖かったよね」
ああ、うん。そう、すっごく寒かった。
すべって転んじゃって、どこかに落ちて、痛くて、寒くて、でもだんだん暑くなって、あざみちゃんがかけてくれたカーディガン脱いじゃった。
「でも、寒くて怖かったけど、冒険したよ」
外の世界、ひやってしてた。白いキラキラがひゃっこくてきれいで、マッチ売りの少女みたいって思った。そう言って笑うと、あざみちゃんも少しだけ笑った。
「あ、そうだ。のんちゃん、ごめん。しゅうぽんを持ってこようとしたんだけど、見つからなくて……」
言いながら、あざみちゃんの目が枕の横のくまのぬいぐるみに吸い寄せられる。
「しゅうぽん? あんなに捜したのに、どうしてここに?」
しゅうぽん、なんでここにいるんだっけ?
「もしかして、お姉ちゃん?」
「あ……、夢に茉莉花ちゃん、出てきたかも。しゅうぽん、はいってして、頭ぽんぽんってしてくれた」
「それ、夢じゃないね。なんでひとりで来るかな。お姉ちゃんらしいけど」
「あっ、心中ちゃん!」
「のん……ちゃん」
手をぎゅってしてくれた心中ちゃんのお顔はぐちゃぐちゃだった。ううって下を向いちゃったけど、なにも言わなくても心中ちゃんの気持ちは伝わってくる。
のんちゃんにまた会えて、すごく、すごく、すごく嬉しいって。
はじめて会ったときからそう。心中ちゃんが思ってることは、お顔を見ただけでわかる。心中ちゃんも同じって言ってたから、心中ちゃんにも伝わってるはず。
心中ちゃんにまた会えて、すごく、すごく、すごく嬉しいって思ってることが。
「のんちゃん、この人は山田さ……」と言いかけて、あざみちゃんはすぐ言い直す。
「じゃなくて、おばさんだよ。百合花おばさん」
「のんちゃん、はじめまして。よく頑張ったね」
すごく大きな百合花おばさんが、顔を近づけてきて、びっくりした。
「えっ? 見えるの?」
「見えるよ。私だけじゃない。のんちゃんはみんなに見えてるよ」
「とうめい、なのに?」
「とうめいじゃい。あざみや心中と同じ。今まで、本当に偉かったね。虐待の負の連鎖をあんたたちは自分の力で断ち切ったんだから」
難しくてわからないことを言いながら、百合花おばさんはあざみちゃんと心中ちゃんと三人まとめてぎゅーーってした。
「おばさん、のんちゃん、死んじゃうから」
「あ、ごめん、ごめん」
笑ってるあざみちゃんに訊く。
「おばさんって……?」
「お母さんの妹」
「お母さん? お母さんは?」
「大丈夫だよ、のんちゃん、ここにはいないから。もう怖いことさせないし」
「怖いこと? 怖いことって、なに?」
「覚えてないなら、そのほうがいいよ」
あざみちゃんは教えてくれないみたいだ。
「ねぇ、あざみちゃん、そのタオル、お湯でぎゅってして」
「これ? いいけど」
手を洗うとこですぐにぎゅっとして、あざみちゃんはタオルを渡してくれる。
開いて、パンパンってしてから、心中ちゃんのぐちゃぐちゃな涙を拭いてあげる。
「大丈夫、大丈夫」
百合花おばさんにも同じことしようとしたら、タオルを持った手をぎゅってされた。
「のんちゃん、これって……?」
「え? お母さんが、やってくれたの」
「でも、お母さんは、のんちゃんのこと見えないって」
「のんちゃんが泣いたときだけ、とうめいじゃなくなるみたい。お母さん、いつもあったかいタオルで『大丈夫』ってふきふきしてくれた」
「あのときも」と、あざみちゃんが大きな声を出す。
「この病室にはじめて来た夜も、のんちゃんのほっぺ、涙で濡れてた」
「じゃあ、姉さんは、口を封じようとしたんじゃなく……」
百合花おばさんはハッと口を閉じた。タオルを持った手を見て、ちょっとだけ泣きそうな顔をしたけど、「のんちゃん、それは今度やって」と、立ち上がる。
「あざみ、まだギリ間に合うと思うから、姉さんに面会してくる」
「私も行く! ごめんね、のんちゃん、またすぐ来るから」
急いで走っていくふたりを見送り、心中ちゃんは残ってくれた。
「なにがあったの? あざみちゃんたち、どこへ行ったの?」
「のんちゃんのお母さんのところ。のんちゃんは元気だよって、お母さんに伝えてくれるよ。でも……、私はのんちゃんのお母さんがのんちゃんにしたこと、たぶんずっと許せないと思う。たとえ、どんな理由があっても」
「心中ちゃん?」
「のんちゃん、これから一緒にいろんなとこへ行こうね。今まで行けなかったところへ行って、おいしいものいっぱい食べて、楽しいこといっぱいしよう」
「わー、冒険?」
「うん、冒険! 怖い?」
「ううん。心中ちゃんが一緒なら怖くない。それにね、お母さんがつけてくれた柊って名前、悪いものを来なくするって意味があるんだって」
「魔除け、だね。アメリカでは悪魔を寄せ付けないためにクリスマスに柊を飾るって本で読んだよ。男の子につけたかった名前をそのままつけて、読み方を『のえる』にしたのかと思ったけど、それだけじゃないのかもしれないね」
「なに?」
「ううん、みんながプリンセス・ドゥって呼んでたけど、のんちゃんには最初から、ちゃんと素敵な名前があったんだなって思ったの」
「心中ちゃん、あのね、のんちゃん、行きたいところがある」
「本当? じゃあ、一番最初にそこに行こう。のんちゃんの行きたいところってどこ?」
「えっとね、春しかない国」
「えっ?」
「心中ちゃん言ってたでしょ、春しかない国の話」
「うん、あのときの私にとって、いつもあったかくて美味しいもの食べさせてもらえる四〇一号室が春しかない国だった。でも、のんちゃんにとっては違ったんだよね。あ、でも、ちょっと待って。ほら」
心中ちゃんが開けたカーテンの向こうに、小さな青いお花がいっぱい咲いてるお花畑があった。
「わー、すごい! ずーっと向こうまで、春しかない国だ!」
「このお花が咲いているのは今だけだけど、のんちゃんのいる場所は、私にとってずっと春しかない国だよ」
「えっ、じゃあ、のんちゃんも、心中ちゃんのいるとこが春しかない国!」
笑う心中ちゃんの後ろで、お花畑が風に揺れる。
青いお花も一緒に笑ってるみたいだった。
(了)