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「……ごめんね、待たせて」
 数分後、軽自動車で戻ってきた山田は、ここまで全力疾走してきたみたいに滝のような汗をかき、はぁはぁと肩で息をしていた。
「リョウ君、はぁ、茉莉花ちゃんを、はぁ、後部座席に、はぁ、寝かせてくれる? 狭くて、はぁ、悪いけど。横になってれば、はぁ、少しは、はぁ、楽でしょ、茉莉花ちゃん?」
 山田は具合がひどくなっていないかと茉莉花を気遣ったが、ホッとした顔でシートに身体を預ける茉莉花よりも、吹き出す汗が止まらない彼女のほうが病人のようだ。
「万が一、はぁ、気持ち悪くなったら、はぁ、そこに転がってるレジ袋に、はぁ、吐いちゃっていいからね。はぁ、我慢しちゃだめよ。はぁ、なにしてんの、リョウ君。はぁ、早く、はぁ、助手席乗ってよ。はぁ、病院連れてくから」
「……大丈夫っすか? 汗ヤバいけど」
 助手席に乗り込みながら訊くと、山田はタオルで乱暴に顔を拭いながら、ふーっと大きく息を吐いた。そして、路駐できそうなところまで車を走らせ、パンパンのずた袋をごそごそ漁って、ペットボトルのお茶を探し出す。
「ごめん、はぁ、ちょっと一瞬だけ、はぁ、休憩させて。はぁ、がんばって急いだんだけど、はぁ、見てのとおり走れる体型じゃないから、はぁ、こっちも倒れそうになっちゃって」
 山田はまるでビールをあおるように喉を鳴らし、ペットボトルのお茶を一気に飲み干す。
「ぷはーっ、生き返った。よし、えっと、ここから一番近い病院知ってる? わからなければ、ナビで……」
「病院はいい」
 後部座席に身体を横たえたまま、茉莉花がボソッと、でもきっぱり言った。
「なんでだよ? 今日二度も倒れてんだから、行っといたほうがいいって」
 俺の言葉にも、茉莉花は首を縦に振らない。
「病院行っても、全然効かないまずい薬出されるだけ。それに、だいぶ、落ち着いてきたし」
 そう言って茉莉花は上体を起こしたが、まだふらつくらしく、窓に頭を預けて目を閉じた。
「今日二度もって、学校でも倒れたの?」
 小声で尋ねてきた山田にうなずくと、彼女はまたごそごそとずた袋を漁る。
「茉莉花ちゃん、病院行きたくないなら、酔い止めの薬呑んでみる?」
「……酔い止め?」
「そう、車酔いに効くやつ。周りのものがぐるんぐるん回ってる回転性のめまいだったら、効くかも」
 山田は取り出した市販薬を、窓に寄りかかった茉莉花が見える位置に掲げた。
「なん……で?」
「え?」
「どうして、そんなこと知ってるの?」
 窓からシートに頭をもたれさせる場所を変え、茉莉花はバックミラー越しに山田の顔を見ている。
「私も、なるから。たまにだけどね」
 小さく息を吐くと、茉莉花は無言でてのひらを差し出した。その上にポンッと山田が市販薬を載せる。
「たまに……なのに、持ち歩いてるんだ」
 茉莉花の言葉が聞こえなかったのか、山田は後部座席のフットスペースを顎で指す。
「そこらへんにあるクーラーボックスの中に、水のペットボトルが入ってるはず」
「……ありがと」
「ほら、リョウ君、ペットボトル開けてあげて」
「ああ、うん」
「めまいが続くようなら、ちゃんと病院行ってよ。脳貧血かもしれないし。なんにしてもストレスが原因だろうから、それを取り除くのが一番だけど」
 薬を呑む茉莉花を見守っていた山田が「あ、でも、今、ストレスかけたの、私か」と自分のおでこをペチンと叩くと、強張っていた茉莉花の顔がかすかにゆるんだ。
「ごめんね。もう大丈夫そうだったら、家まで送るし。ここらで事件なんてめずらしいから、騒がれて大変なんでしょ。身体にも心にも負担がかかるの、想像つくよ」
「いや、そんなでもないっすよ。思ったほど騒がれてないし」
 反論すると、「そう?」と、山田は首を傾げた。
「リョウ君にはそんなでもなくても、茉莉花ちゃんの感じ方は違うかもよ」
「え、そうすか?」
 確かに根尾が犯人で、その根尾に狙われてるとしたら、茉莉花にとって学校の行き帰りとかひとりになる時間は恐怖かも。
「茉莉花、これからはできるだけ一緒に帰ろう。サッカー部のが早く終わったら、俺、演劇部終わるまで待ってるし。それが無理なときは、ファンクラブのヤツらに送ってもらえばいいよ」
「ファンクラブ?」
「うん、茉莉花のファンクラブ。映画のオーディションの一次審査通ったから、みんなで応援してて」
「リョウ君、やめてって!」
 後部座席から尖った声が飛んできた。
「私のことペラペラしゃべらないでって言ってるでしょ」
「悪いこと話してるんじゃないんだから、よくない?」
「まぁまぁ、リョウ君に悪気はないっていうか、茉莉花ちゃんのこと推してて、つい自慢したくなっちゃうんじゃない? でも本当にすごいよ、映画のオーディションに受かるなんて。二次審査もがんばってね」
「主役じゃなくて、その友だち役だし」
 茉莉花は自虐してるけど、ちゃんとセリフのあるそこそこな役で、これにかける茉莉花の意気込みがハンパないことを俺たちは知っている。個人的には、映画の出演が決まれば、茉莉花がまた手の届かない存在になってしまいそうで、複雑ではあるのだけど。
「そんな、主役じゃなくたって、友だちの役でも十分すごいことだよ。ご家族も喜んでるでしょう?」
 そう問いかける山田をバックミラー越しに見ていたはずの茉莉花はなにも答えず、車内に長い沈黙が落ちた。
「……どこかで会ってない?」
 沈黙のあとの茉莉花の意外な一言に、山田だけでなく俺も後部座席を振り返った。
「え……、私と茉莉花ちゃんが? いや、初対面だと思うよ。おばちゃん、物忘れ激しくなってきてるけど、こんな綺麗なお嬢さんに会ったことは、さすがに覚えてるはずだし」
 顔だけ見たらどこかで会っていそうな普通のおばちゃんだけど、この体型は、茉莉花だって一度見たら忘れないだろう。
「初対面なのに茉莉花ちゃんとかリョウ君とか呼んじゃってるのが馴れ馴れしすぎるのかな。距離感おかしいってよく言われる」
「そのぐいぐい来る感じ、なんかちょっと、野ばらさんに似てるかも」
「……野ばら、さん?」
 俺の言葉に、山田は一瞬、虚を衝かれたような顔をした。
「えっ、事件のこと調べてるのに知らないの? プチシャトー市毛のオーナーで茉莉花の祖母ちゃん」
「あ……、ああ」
「あと、天然っぽいとこも似てる」
「ちょっと、リョウ君、それ褒めてないよね」
 肩を叩いてきた山田の顔には笑顔が戻っていた。
「まぁ、私はいいけどさ。オーナーさん、私と似たタイプだったら、今回の件、ご自分でもぐいぐい調べてるんじゃない? 敷地の外で起きたこととはいえ、側溝で倒れていた女の子とどう関わっているかで、マンションのイメージ悪くなっちゃうから」
「ですよね、側溝で見つかったのが女の子の死体だったら、もっと大騒ぎになってただろうな」
「リョウ君の言うとおり。生きててくれてよかったけど、意識不明ってことは、危険な状態が続いてるってことでしょ? どうしてその子の親は病院に来ないんだろう? たとえニュースに気づかなかったとしても、自分の娘がいなくなったら当然捜すし、警察に行方不明者届を出すはずじゃない」
「本当にそれが気になって、東京から来たんすか?」
「うん。身元がわからないってどういうこと? って気になり過ぎて、ここまで来ちゃった。リョウ君と茉莉花ちゃんは、その幼い少女が誰か、思い当たる子いないの? プチシャトー市毛の住人じゃなくても、住人の家によく遊びに来ていた親戚とか、近所の子とか」
「俺も茉莉花も、いたら警察に話してるし」
「だよね。それで誰だかすでにわかってるはずだよね」
「さっき話に出た『側溝のプリンセス・ドゥ』ってスレッド読んでるって言ってたじゃないすか?」
「うん、関係者が書き込んでるんじゃないかって思わせる情報もあったから」
「プリンセス・ドゥって、なんのことか、知ってました?」
「へ? いや、知らなかったから調べたよ。アメリカで昔、実際に起きた殺人事件の被害者の身元がわからなくて、そう呼んだ仮名なんでしょ」
「あれ、カッコよくないっすか?」
「スレッドのタイトルがってこと?」
「なんかセンスあるなって」
「うーん、まぁ、よく知ってたなとは思うけど。なんでリョウ君、鼻の穴膨らんでんの?」
「え……?」
 鼻の穴なんて膨らんでないよな?
「そんなことより、プチシャトー市毛の住所も書き込まれちゃってたよね。大丈夫? なにかされてない?」
「ああ、落書きされてましたよ、三〇一号室のドアに『ペドフィリア』とかって」
「根尾君の家に? ペドフィリア……、小児性愛ってことだよね? このあたりにもいるんだ、そういう陰湿なことする輩が」
「まぁ、でも、根尾がここに越して来る前、小学生にいたずらしたっていうのは本当みたいだし」
「それ、根尾君本人が認めたわけじゃないんでしょ? 匿名の誰かが書いたものが、真実かどうかなんてわからないじゃない。根尾君、大丈夫なの? 学校、行けてる?」
「さっきも言ったじゃないっすか、茉莉花を校舎裏に強引に連れて行こうとしたって」
「ああ、それって、どういうことなの? なんで根尾君は茉莉花ちゃんを?」
「だから、狙ってるんでしょ。茉莉花のこと、盗撮してたし。今日だって俺が助けに行かなかったら、どうなってたか」
「盗撮!? 根尾君が? それ、本当なの、茉莉花ちゃん?」
 後部座席を振り返り、山田が息を呑んだ。窓にもたれかかった茉莉花の顔は、また人形みたいに生気を失っている。
「茉莉花、大丈夫か?」
「茉莉花ちゃん、もしかして、薬が合わなかった?」
「大丈夫」と力なくつぶやき、茉莉花は両手で耳を覆う。
 根尾の名前を聞きたくないのか? そのせいで体調がわるくなったのだとしたら……。
「おまえ、やっぱり根尾になにかされたんじゃないの?」
「状況がよくわからないんだけど、根尾君はなんで茉莉花ちゃんを校舎裏に連れていったの?」
「俺だってわかんねぇけど、エロいことしようと思ったんじゃないんすか」
「校舎裏でエロいことなんてしようとする? エロいことして側溝に女の子を捨てたんじゃないかって、ネットで叩かれてるこの状況で」
「そういうの止められないヤツだから、こんなことになってんでしょ。山田さん、なんで、かばうんすか?」
「別にかばうつもりなんてないよ。根尾君と会ったこともないし、彼のことなにも知らないんだから。ただ、なにが目的で校舎裏に行ったのか気になって。校舎裏ってケンカとかいじめとか、危険なイメージだけど、違う目的でも使われるじゃない。ほら、告白スポットとか」
「はぁ? 側溝に女の子捨てるようなヤツが、校舎裏で好きな女子に告ると思います?」
「リョウ君は、根尾君が今回の事件の犯人だと思ってるの?」
「俺だけじゃなく、みんな思ってますよ。根尾本気が女の子を側溝に捨てたって」
「その決めつけは危険じゃないかな。みんなって、いったい誰よ? それに、プチシャトー市毛のエントランスから側溝まで、雪の上に残されていたのは、女の子が履いてた少し大きめの靴の跡だけだったんでしょ?」
「その靴を履いてたのは根尾かもしれない。抱いて運んだ女の子を側溝に捨てたあと、靴を女の子の足に引っかけて、自分は裸足で側溝を逃げたから道に足跡が残ってないとか」
「側溝にだって、足跡は残るでしょ?」
「こんな田舎の警察がやることなんて、見落としだらけだと思うんすよね。警察の見立てが正しくて、雪の上の足跡が女の子のものだったとしても、犯人は根尾ですよ。根尾がさらってきた女の子が、早朝、部屋から逃げ出そうとして雪で転んだんだよ、きっと」
「確かに、それだったら女の子の足跡しか残っていない説明はつくよね。だけど、根尾君じゃなくて、リョウ君がさらってきた子だったって可能性も同じようにあるんじゃない?」
「はぁ? さらってこねーし、百歩じゃなくて百万歩譲ってさらってきたとしても、うちに連れ込めるわけないっしょ。そんなことしたら親がブチ切れてるって」
「それ、根尾君もまったく一緒じゃない? 一人暮らしだったわけじゃなく、家族が同居している家に、小さな女の子を連れ込むなんて、ましてや監禁するなんて、無理があるよね?」
「根尾のところは、母親もまともじゃなかったから」
「まともじゃない? それ、どういうこと? どんなふうに?」
「そこ、気になります?」
「いや、当然気になるでしょ。環境が人を変えるんだから」
「環境が人を変える?」
「うん、だから、もし本当に根尾君の母親がまともじゃないなら、せめて……、せめて学校は彼にとっての安全地帯であってほしいと思って」
「いや、あいつがいることで、茉莉花が安全じゃないんだって。なぁ?」
 後部座席を振り返ると、人形のような茉莉花が目を閉じたまま、つぶやいた。
「この世の中にまともな母親なんて、いる?」
「は? おまえがなに言ってんの? 俺んちの母ちゃんと比べて、茉莉花んちの母親なんて神……」
 俺がしゃべってるのに、山田が真剣な顔で割って入ってくる。
「茉莉花ちゃん、それ、どういう意味?」

 

(つづく)