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「……別に」と答えたきり、茉莉花はもう口を開かない。
「あれ? なんでこんな話になったんだっけ? ああ、根尾の母親がまともじゃないって話からか。あっ!」
「なに? どうしたの、リョウ君?」
「それ、本人に訊いてみればいいんじゃないすか」
「なに言ってるの? そりゃ、訊けるものなら訊きたいけど……」
 後ろから走ってくる自転車をバックミラー越しに指差すと、山田はポカンと口を開けたのち、「ええっ!」と叫んで、振り返った。
「嘘、あの自転車、根尾君なの?」
 俺がうなずくと、山田は息を止め、転がるように外へ出た。
「わわわ、ちょっと待って! 止まって、根尾君! ストーップ!」
 突然目の前に立ちはだかった女に驚いたのだろう、悲鳴のような急ブレーキの音を響かせ、根尾はギリギリで自転車を止めた。
「ひぃぃぃ、怖かったぁ。って、ごめんね、そっちも危なかったよね。突然、道塞いじゃって、ごめんなさい。どうしてもあなたに話を訊きたくて。私、フリーライターの山田です。側溝で見つかった女の子について……」
 根尾はすぐさまペダルに足をかけ、漕ぎ出そうとしたが、山田は「あ、ちょっ、待って、待って、待って!」と、ハンドルバーの真ん中をがっつり握って阻止する。
「あなたのことがネットに書かれてるの、知ってるよね? 『側溝のプリンセス・ドゥ』のカキコミ、読んだでしょ? 根尾君の実名まで晒されちゃってるやつ。それについて、根尾君にも言いたいこと、あるんじゃないかと思って。それ、ぜひ聞かせてもらえないかな?」
 無言のままハンドルを切って走り出そうとする根尾に食らいつき、山田は説得を続ける。
「お願い、ちょっとだけでいいから。根尾君は側溝の女の子が誰か、心当たりな……い? わ、わかった、待って! これ、私の名刺。受け取ってくれたら、退くから」
 山田のしつこさに辟易したのか、根尾は渡された名刺を受け取った。
「ありがとう。よかったら、連絡して。いつでも、真夜中でもいいんで」
 一言も発せず、走り去っていく根尾を見送りながら、山田は叫ぶ。
「待ってるからね、根尾君!」
 ああ、行っちゃったと、ため息をつきながら、山田は運転席に戻ってきた。
「無茶しますね」
「チャンスの女神は前髪しかないからね。自転車じゃなければ、もっと話せたのに、残念」
「うちの学校、自転車通学禁止なのに、あいつは無視してチャリで来てるから」
「そうなんだ。髪染めてるのも、あのブランドもののバッグも校則的にはアウトだよね。クラスでも浮いてそう」
「浮いてるっていうか、ヤバいから誰も近づかないし」
「一匹狼っていうか、一匹ハリネズミって感じ。全方位に針を立てて、自分を守ろうとしてるみたいな。なんて、こんなこと言っちゃダメか。言わないでね、根尾君に」
「言いませんよ。あいつとしゃべることなんてないし。山田さんだって、実際あいつに会ったら、考え変わったでしょ?」
「私は余計にしゃべってみたくなったよ、根尾君と。車で先回りしたらマンションの前でつかまえられるかもしれないから、出していい、茉莉花ちゃん?」
 どうして確認するのかと思ったけど、振り返った茉莉花の顔はこれまでにないほど色を失っていた。
「幽霊みたいな顔色の人にこんなこと訊くの酷だけど、茉莉花ちゃん、あなた、根尾君になにか弱みでも握られてるの?」
「弱み? 茉莉花が?」
「だって、窓におでこつけてもたれかかってた人が、根尾君の自転車に気づいた途端、すぐさまシートに伏せて顔隠したよね」
「それは、根尾が怖くて顔合わせたくなかったからだろ」
「茉莉花ちゃん、リョウ君はそう言ってるけど、本当? 校舎裏に無理やり連れて行かれたって聞いたとき、私、根尾君って、強面で身体の大きな不良っぽい少年に違いないって勝手にイメージしてた。でも実際に会った彼は、茉莉花ちゃんよりも小柄で華奢で、髪色なんかでイキって見せてるけど、あなたが怖がるような人とは思えなかった。さっき、根尾君に盗撮されたって言ってたけど、どんな写真を撮られたの?」
 そう尋ねたものの、青い顔で黙り込む茉莉花を見て、山田はすぐに謝った。
「ごめん、そんなの答えられるわけないよね、初対面の人間に」
「……それ、もう、解決してる、から」
「えっ?」
 後部座席に身体を横たえた茉莉花は、祖母が根尾の母親にかけあって、写真はすでに消去させたと、しんどそうな声を絞りだす。
「そう。ご家族がちゃんと茉莉花ちゃんを守ってくれたんだね」
「撮られたのは……お風呂上りの写真。でも、そんなきわどいものじゃなくて」
「そうなんだ。なんにしてもよかった。きわどかろうがなかろうがそんな写真、他人に持たれてるなんて、気持ち悪いもの。それに、悪用されたらたまらないしね。オーディションに受かれば、茉莉花ちゃんは女優さんになるんだから。そっか、根尾君、本当に盗撮してたんだね」
 外で星を撮っていたら窓辺で夕涼みしていた茉莉花が偶然写り込んでしまったと、根尾は苦しすぎる言い訳をしたらしい。
「じゃあ、なんで彼に校舎裏に連れていかれたのかも、思い当たることはないの?」
 茉莉花は小さくうなずいたが、シートに顔を伏せていたので表情は見えなかった。
「根尾君が本当に幼い女の子のことが好きでそういう対象として見ているなら、茉莉花ちゃんを盗撮したり、校舎裏に連れて行ったりするの、矛盾していると思わない? そういう人もいるのかもしれないけど」
「いるんだよ、そういうやつも。俺には意味不明だけど」
「ねぇ、茉莉花ちゃんも、リョウ君と同じ意見? 根尾君が今回の事件に関わってると思ってる?」
 長い長い沈黙の末、茉莉花は答えた。
 わかりません――と。
「慎重なんだね、茉莉花ちゃんは」
「ちょっと、それ、俺が慎重じゃないってことっすか?」
 口を尖らせると、山田が、ははっと乾いた声で笑った。
「私もリョウ君のこと言えた義理じゃないけどね」
「そうっすよ。気になったからって、いきなり東京から来ませんよ、普通。どこの誰かもわからない子の事件なのに」
「どこの誰かもわからない子……」
 浮かんでいた自嘲の笑みが消え、感情の読めない顔で山田は小さく息を吐く。
「……私、子供亡くしててね。もうずっと昔のことなのに、それでも子供の事件、気になっちゃうんだ。なにかできることがあるんじゃないかって。特に今回の事件は……」
 ずっとシートに伏せていた茉莉花が、少しだけ顔を動かし、山田のほうを見た。
「ああ、ごめんね、変な話しちゃって。そう思って来てみたものの、こんなしょーもない太ったおばちゃんにできることなんて、そうそうないんだけどね。あ、なに、リョウ君、聞くよ」
「は?」
「いや、また鼻の穴膨らんでるから、得意げにしゃべりたいことあるんじゃないかと思って」
「鼻の穴なんて膨らんでねぇし。ただ、さっきの、家族と同居してる根尾はさらってきた女の子を家に連れ込めないから犯人じゃないって説は覆せるなと思って」
「ほう。リョウ君はどうしても根尾君を犯人にしたいんだね。お説拝聴しましょう」
「根尾本気は女の子をさらってないし、監禁もしていない。だけど、側溝で見つかったプリンセス・ドゥは、根尾に虐待されて、あいつの家から逃げてきた子」
「えっ、どういうこと? プリンセス・ドゥは、もともと彼の部屋にいたっていうの? そんなの無理でしょ。だって、三〇一号室には、根尾君の母親と妹が……」
 真剣な表情で頭をひねっている山田を前にニヤニヤを噛み殺しているとき、小鼻が横に広がるのを感じた。鼻の穴が膨らんでるって、こういうことか。
「あっ! もしかして、プリンセス・ドゥは彼の妹?」
「正解! 根尾の妹はうちの妹と同じ小四だけど、痩せて身体も小さかった。そして、事件後、根尾心中は忽然と姿を消してる」
 小鼻に力を入れながら山田を見たが、そのリアクションは俺の期待したものとはかけ離れていた。
「そうだね。事件後、根尾君の妹の心中ちゃんの姿を、誰も見ていない。それ、私もすごく気になった。だから、根尾君が小学生にいたずらしたって事件の裏を取るより先に、心中ちゃんのこと、調べてみたんだ」
「えっ?」
「安心して。今、病院のベッドにいる意識不明の女の子は、根尾心中ちゃんじゃない」
「……どうして?」
「確かめたから。心中ちゃんは、離婚したお父さんのところにいるって」
「ええーっ!? マジで?」
「ちょっ、リョウ君、声デカい。そんなに驚くようなこと? 逆に……」
 山田は振り返って後部座席を窺う。
「茉莉花ちゃんは、全然驚かないんだね」
「え……?」
「もしかして、知ってた? プリンセス・ドウは、根尾君の妹じゃないって」
 茉莉花は小さく首を横に振ったが、その顔はひどく強張っている。
「そう。茉莉花ちゃん、私、もうひとつ調べたんだけど、あなたの妹のあざみちゃん、事件以来、ずっと小学校をお休みしてるよね。なんで?」
「妹が……、あざみが、プリンセス・ドゥだって言いたいの!? そんなわけない! あざみはちゃんと家にいるから! あの事件のせいで体調崩して、寝込んでるだけだから!」
「茉莉花ちゃん、落ち着いて。誰もあなたの妹さんがプリンセス・ドゥだなんて言ってないのに、どうしてそんなに怒ってるの?」
「……怒ってなんかないし」
 いや、俺もぎょっとしていた。茉莉花はいつも柔らかく微笑んでいて、こんなふうにキレるところを見たことがない。そして、山田もそんな茉莉花の表情の変化を何一つ見逃すまいと、バックミラー越しに鋭い視線を投げている。
「ごめんね、そんなに動揺させるなんて思ってなくて」
「動揺もしてないから」
「そう。なら、よかった。あざみちゃん、事件にショックを受けて、学校をずっと休んでるなんて、心配ね。これからあなたたちをおうちに送っていくから、もしあざみちゃんが大丈夫そうなら、少しだけ話を聞かせてもらえない?」
「無理! あざみは怪我もしてるし」
「えっ、怪我!? なんで? あざみちゃん、どこを……?」
「たいした怪我じゃないわ。でも話をするのは、絶対に無理!」
 シートに這いつくばりながら、ぴしゃりと撥ねつける幽鬼のような女の中に、俺は自分の知っている茉莉花を見つけることができなかった。

 

(つづく)