【根尾心中】
校門からランドセルを背負った子供たちが次々と出てくる。
嫌な思い出ばかりの学校の前で待つのは不安だったけど、汚れた服を着ていなければ誰も心中だと気づかないのか、私のことをバイキンと罵ることなく通り過ぎていく。
そんな中、片足を引きずりながら、ひとりで歩いてくる女の子の姿が目に入った。ゆっくりだけど、あざみちゃんが松葉杖なしで歩けるようになっていてホッとする。
手を振りかけてやめたのは、後ろから歩いてきた六年生の女子三人組が、追い抜きざまあざみちゃんに気付いて、わざと聞こえるようにひそひそ話を始めたからだ。
「よく学校に来られるよね。あの子のママ、妹に男とられて、ブチギレて妹の赤ちゃん殺したらしいよ」
「自分の子供も虐待してたんでしょ? あの足の怪我も鬼母にやられたんじゃない?」
「シッ! 悪口が聞こえたら鬼母の娘、すごいスピードで追いかけてくるって噂」
「マジで? 怖すぎるんだけど」
ケラケラ笑いながら校門を出ていく彼女たちを、慣れているのか平然と受け流し、あざみちゃんは通学路を外れ、人気のない細い裏道へ入っていく。こんな状況でも学校を休まないあざみちゃんの強さに圧倒されながら、急いで後を追った。
「あざみちゃん!」
「えっ、心中? なんで、こんなところに?」
「おうちに電話したら茉莉花ちゃんが出て、あざみちゃんは学校だって教えてくれた」
茉莉花ちゃんがいるなら、あざみちゃんの家へ行っても、ゆっくり話せそうにない。
「ああ、お姉ちゃんは、ずっと学校休んでるから」
「のんちゃんは元気?」
「そう聞いてるけど、会えてないんだ。病院が子供の面会を制限するようになって」
表情を曇らせたまま、「心中は大丈夫?」と、あざみちゃんが顔を上げる。
「え? あ、学校なら行ってるよ」
「それもだけど、お母さんのこと」
「あ、ああ……うん、まだなんか自分でも自分の気持ち、よくわからない感じだけど。あんなに可愛がられてたお兄ちゃんがお母さんを? って理解できなくて、でも、山田さんが、お兄ちゃんは犯人じゃないよって言ってくれたから」
あざみちゃんがふいに足を止めた。その顔は固く強張っている。
「疑ってるよね……、うちのお父さんのこと?」
あざみちゃんは、ママが殺された日、三階の廊下を慌てて走ってきたお父さんの姿を思い浮かべているんだろう。今日、あざみちゃんに会いに来たのも、その話がしたかったからだ。でも、あざみちゃんのほうが先に口を開いた。
「私、本当のことが知りたくて、学校さぼってお姉ちゃんと一緒にお父さんに会いに行ったの。でも面会できる時間ものすごく短くて、お父さんは『ごめん』と『大丈夫だから』を繰り返してて、訊きたかったこと、なにもわからなかった」
「そうなんだ。山田さんもあざみちゃんのお父さんとお母さんに面会しに行ったって言ってた。あざみちゃんのお父さん、あの日、うちのママのところに茉莉花ちゃんのパソコンを返しに行ったことは認めたけど、それ以外は黙秘してるらしい」
「黙秘……? なんで、話せないの?」
「山田さんも聞いたけど教えてくれなかったって」
「心中、どこに行けば、山田さんと会える? 直接話したい」
山田さんは埼玉に行くと行っていたから、すぐには無理だと言いかけ、背後から走ってきた車がすぐ後ろで停まったことに気づく。こんな細い道なのにと驚きながら脇に避けると、若い男がふたり車から降りて、スマホを手に近づいてきた。走って逃げようとしたけど、あざみちゃんの足ではすぐに追い着かれ、前に回り込まれてしまう。
「どーもー。市毛あざみちゃんだよね? ちょっと話、聞かせてもらえる? あれ? きみ、根尾さおりの娘じゃない? そうだよね? 俺ら、ずっとこの事件追ってるから、わかっちゃうんだよ。え、ふたり、なんで一緒にいるの? 友達? うわ、マジか? ヤバッ。ちょっ、逃げないで。とにかくこの絵見て。市毛野ばらの個展で外されてた『柊ぐ』って絵だってSNSで拡散されてて、本物かどうか確かめてほしくてさ」
男が差し出したタブレットに表示された絵を見て、あざみちゃんは息を呑んだ。
「ああ、やっぱり、これ、市毛野ばらが描いた本物なんだ?」
「……知りません。誰が、これを?」
気丈に尋ね返したあざみちゃんに、若い男は『側溝のプリンセス・ドゥ』ってスレッドに投稿された画像だと話す。
「絵に描かれてるの、君のお祖母さん、お父さん、お母さん、叔母さんと甥っ子でしょ? この時期結婚していたのは赤ちゃんを抱いてる叔母さんのほうでお母さんは独身だったはずなのに、なんで男がお父さんだけなのか、不思議じゃない? で、調べたら、姉から妹に乗り換えたクズ男の名前は、なんと、市毛冬彦! 君のお父さんだった。これ、ヤバくない? つまり、この赤ん坊は、君の腹違いのお兄さんで、その後、お父さんはまた妹から姉に乗り換えて君らが生まれたってことだよね?」
えずいて口を押さえたあざみちゃんの顔に、片方の男がスマホを向ける。
「勝手に撮らないでください。あざみちゃん、大丈夫? 行ける?」
うなずいたあざみちゃんの手を取り、進もうとしたが、もうひとりの男に逆の腕をつかまれ、あざみちゃんは「痛っ」と声を上げた。
「大袈裟だな。そんな強くつかんでないじゃん。足怪我してるんでしょ。車で家まで送ってあげるから乗りなよ。代わりにちょっと質問に答えてくれるだけでいいからさ」
「手を離して! いいんですか、これ、生配信されてますけど」
スマホを掲げ、叫ぶと、男は驚いてあざみちゃんから身体を離す。
「え、嘘。いつから、撮ってたんだよ?」
「最初からです。問題ですよね。配信者かなんか知らないけど、小学生に取材を強要して、暴力振るいましたもんね」
「暴力なんて振るってねぇ……」
「あざみちゃん、行こう」
手を強く握り、今度こそこの場を離れる。背後でなにか叫んでいたが、男たちはもう追いかけてはこなかった。
「すごいね、心中。スマホ買ってもらったばかりで、もう生配信って」
「そんなのできるわけないでしょ。動画撮ってただけだよ。こんなに手ぇ震えてたのに、信じてくれてよかったぁ。あ、あざみちゃん、足、大丈夫?」
うなずくあざみちゃんの速度に合わせ、歩調を落としながら、ささやく。
「気にしちゃだめだよ。さっきあの人が言ってたこと、本当かどうかなんてわからないし」
「うん。でも本当なんじゃないかな。あの絵を見た時から、私もおかしいって思ってたから。お父さんがお母さんの妹と結婚してたなんて信じたくないけど、お父さんがなに考えてるか、全然わからないし」
淡々と話してるけど、あざみちゃんの言葉の端々から困惑やつらい思いが伝わってくる。
「お父さんは人を殺せるような人じゃない。でも、心中のお母さんのこと、パソコンを返しに行ったときに、パニックになるようなことがあって、それできっと……」
「あざみちゃんはさっき私に『疑ってるよね?』って訊いたけど、お父さんがうちのママを殺したって疑ってるのは、あざみちゃんのほうだよね? それはどうして?」
「だ、だって、あの日あの時間に、お父さんは三階の廊下を慌てて走ってきて、私たちのことを見て、ものすごく動揺してた。それで黙秘してるっていうなら、もうそうとしか……」
「あざみちゃん、お父さんが黙秘してるのも、同じ理由なんじゃない?」
「……え?」
「パソコンを返しに行ったら、うちのママが倒れてて、驚いて部屋を飛び出すと、階段にあざみちゃんと私がいた。あざみちゃんがお父さんを疑ってしまったように、お父さんも、あざみちゃんと私が、ママを殺したんじゃないかって思って、それで私たちを庇おうとして、黙秘しているとは考えられない?」
引きずりながら歩いていたあざみちゃんの足が止まる。張っていた気がプツッと切れたように、あざみちゃんはその場にしゃがみ込み、肩を震わせる。
道端のハルジオンが、なにか言いたげに揺れる。
優しい香りを含んだ風が、背中をそっと押してくれたのか、あざみちゃんは涙を拭い、顔を上げた。
【市毛野ばら】
展示された絵一枚一枚への熱い思いを、テレビカメラに向かって語る。
午前中なら来場者もそんなに多くないと踏んで受けたテレビ取材だったが、個展会場にはすでに百人を超える人の姿があった。
新聞や雑誌、テレビなどが作品を紹介してくれたおかげでたくさんの人の目に触れて話題となり、来場者数は連日予想をはるかに上回り、個展の開催期間も延長された。
打ち合わせどおりに絵の説明を終え、目を輝かせて話を聞いてくれていた人たちに向き合い、ほんの少しだけ微笑む。
「娘があんなひどい事件を起こし、孫娘のひとりがわたくしに一緒に海外へ逃げようと言いました。それを叶えてあげられず、孫娘が不憫でたまりませんでしたが、つい先日、海外の企業様からも個展のお誘いをいただき、孫が行きたがっていたニューヨークやパリに連れて行ってあげられるかもしれません。これもひとえに、皆様がわたくしの絵を愛してくださったおかげです」
カメラに向かって深く頭を下げると、割れんばかりの拍手に包まれた。
OKが出てこちらの取材は終了となったが、テレビクルーを見送る市毛野ばらの姿をまた別のカメラがとらえている。地元のテレビ局の密着取材を受けているのだ。
しかもこの後、全国放送のお昼の情報番組に生中継で出演することになっている。
そちらはまず絵を観ている数名のお客さんから感想を聞き、最後に私が挨拶をする段取りだと説明されたので、今のうちに、リサにメイクをなおしてもらう。
予定よりも少し早く中継がつながるとアナウンスされ、テレビで見たことのあるリポーターが挨拶に来た。実物のほうがイケメンと騒ぐリサをたしなめたが、端整な顔立ちで好感が持てる。
少し離れた場所で絵を観ていた男性に彼がマイクを向け、中継が始まった。
スタジオとのやりとりを挟み、同じように二人目、三人目と絵の感想を聞いていく。特に三人目の女性の絵の見方は興味深く、熱い称賛の言葉を嬉しく聞いていると、インタビューを終えたリポーターとカメラマンが笑顔でこちらへやって来た。
「皆様、大変お待たせいたしました。この会場に展示されている素晴らしい作品を描かれたのは、こちらにいらっしゃる市毛野ばら先生です。野ばら先生、本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「早速、今回の個展についてお話をうかがいたいのですが……」
「その前にひとつだけいいですか」
背後からかけられた声にリポーターが驚いて振り返ると、直前に話を聞いた女性がついて来ていた。
一瞬ぎょっとしたものの、彼はプロらしく表情を取り繕い、笑顔で話をつなぐ。
「ああ、先ほどの。こちらの方、野ばら先生の大ファンだそうで、先生に直接お訊きしたいことがあるのかな? できたら、最後にお時間を設けますから、ちょっと待っていてもらえますか?」
「いいえ、質問ではありません。それに私、展示されている絵は好きだけど、市毛野ばら先生のファンではないんで」
「えっ? えっと……」
「時間は取らせません。ひとつ言いたいことがあるだけです。今年四月に側溝で少女が見つかった事件、皆さん、ご存じですよね?」
「ちょっと待ってください。今、生放送中なので……」
「所謂『側溝のプリンセス・ドゥ』事件で、本当に逮捕されるべきは、ここにいる市毛野ばらです」
(つづく)