【土屋リョウ】

 あ、悪い、起こした?
 保健の先生いなかったから。
 具合、どう?
 びっくりしたよ、授業中、急に倒れんだもん。
 あ、でも、顔色ずいぶんよくなってる。
 さっきは真っ青で人形みたいだったから、みんな、すごく心配してたよ。
「茉莉花さま、病気だったらどうしよう」って、鈴木とかファンクラブの女子たち、泣きそうだった。
 本当はみんなここへ来たかったはずなのに、リョウ君ひとりのほうがいいんじゃないって。
「姫を助けられるのは王子だけだから」なんて言われて、めっちゃ恥ずかったけど。
 病院行かなくて、大丈夫なの?
 そうだよな、俺も絶対病気じゃなくてストレスだと思ってた。
 昼休みにあんなことがあったんだから。
 あいつ、マジでなんなんだよ?
 もしかして、俺が行く前、あいつになにかされた?
 ホント? 本当に、なにもなかった?
 ……なら、いいけど。
 ごめんな、すぐ助けに行けなくて。
 茉莉花さまが根尾に校舎裏のほうへ連れて行かれたって鈴木たちが俺を呼びに来て、猛ダッシュしたけど、四階の教室からだったからさ。
 あいつ、とっとと捕まってくんねぇかな。
 側溝に女の子捨てたの、あいつに違いないのに、警察はなにしてんだよ。
 うちのマンションでそんなことするの、根尾以外に考えられないじゃん。
 ああ、悪い、あいつの名前なんて聞きたくもないよな。
 えっ、起きて大丈夫か? おばさんが迎えに来るまで寝てたほうがよくない?
 先生、茉莉花ん家に連絡したんだろ?
 しないでって頼んだの? なんで?
 いや、あの事件のせいで、おまえんちのおばさんも野ばらさんも大変なのはわかるけど、でも……。
 ちょっ、歩いて帰る気?
 ああ、茉莉花の鞄は持ってきたから、そのまま帰れるけど、無理すんなって。
 わかった。じゃあ、俺が送ってく。
 部活? あるけど、一日くらいサボっても大丈夫だよ。俺、他のサッカー部のヤツらとはレベチだから。
 ひとりで帰したら、茉莉花のファンクラブの女子とうちの母ちゃんにブチ切れられそうだし。
 立てる? いいよ、鞄は俺が持つから、公園とかで休みながらゆっくり帰ろう。



 校門を出ると、桜並木が続いている。
 見慣れた景色なのに、隣に茉莉花がいるだけでなんだかいつもと違って見えた。
 でも、花はまだ全然咲いてない。
 こんなに寒い春じゃなければ、満開の桜の下を茉莉花と歩けたかもしれない。
 隣を歩く彼女の足取りは思ったよりもしっかりしている。背の高い茉莉花に肩を貸せるのは俺くらいで、それができないのが少し、いや、かなりがっかりだ。
 人通りの少ないこの時間帯なら、おぶってやってもいいと思ってたのに……。
 でも、表情はちょっとつらそうだから、途中でへばって俺を頼るかもしれない。
 弱ってるときがチャンスだって、なんかの漫画に書いてあったな。
 四年前はじめて会ったときは、まぶしすぎてまともに見ることすらできなかった茉莉花が今、手が届くかもしれない存在になっている。
 体調が悪くても、やっぱり茉莉花は綺麗だ。
 あの薄気味悪い犯罪者の根尾も、茉莉花を狙っているに違いない。
 俺が、守ってやらなきゃ……。
 ふいに、茉莉花がびくっと足を止めた。
 根尾が待ち伏せていたのかと慌てて視線を追ったが、桜の樹の陰にいたのは、えらく太った中年女で、こちらに背を向け、パックのコーヒー牛乳を直飲みしながら、大きなメロンパンをむさぼり食っている。
 一種異様な光景から目が離せずにいる茉莉花の手を引いた。
「茉莉花、行こう」
 その声に弾かれたように中年女が振り返った。
 目が合った次の瞬間にはもう、彼女は桜の樹の下から飛び出し、大きな身体で俺たちの行く手を塞いでいた。
「市毛茉莉花さん?」
 茉莉花はなにも答えず、警戒の色を湛えた瞳をそのおばさんから俺に向ける。
 同級生の母親か? でも、見覚えがない。
「あの……」
 誰か尋ねようとした俺の言葉を遮り、女は口を開いた。
「いきなりごめんね。私、フリーでライターやってる山田っていいます」
「えっ?」と思わず驚きの声が口から漏れてしまった。口もとにパンくずをつけたまま微笑む女の姿が、自分がイメージするフリーライターとかけ離れていたからだ。
 女は食べかけのメロンパンをパンパンに膨らんだずた袋のようなバッグに無造作に突っ込み、ごそごそ探して取り出した名刺を、茉莉花に差し出す。
 そこには、『フリーライター 山田百合花』と印字されていた。
「側溝で見つかった女の子について調べてるんだけど、少しお話聞かせてもらえないかな?」
 その言葉が終わらぬうちに、茉莉花は女の横をすり抜けていた。
「ちょっと待って。時間取らせないから協力してもらえると嬉しいんだけどな。私、事件のこと知って、東京から来たの」
「えっ? 東京から?」
 茉莉花の後を追おうとしていた足を止めてしまった。
 ひとつには、近所のスーパーにでも行くようなだぼっとした普段着で東京から来たのかと驚いたから。そして、もうひとつの理由は……。
「側溝で女の子が見つかった事件、東京で話題になってるんですか?」
 反応してもらえて嬉しかったのか、山田はニコッと人懐っこい笑顔を見せた。悪い人間ではなさそうだ。
「ううん、私、地元がこっちなのよ。それで、すごく気になっちゃって」
 東京で盛り上がっていないのは残念だが、こっちですら思ったほど騒ぎになっていないのだから仕方がない。
「取材した記事って、週刊誌とかに載るんすか? 事件について、なにかわかりました? 新情報とか?」
「えっとね、まだ始めたばっかりで、掲載誌とかわからないんだけど、いい取材ができたらいい結果につながると思うの。カレシさんは取材に興味持ってくれてる感じ? お名前教えてもらってもいい?」
「あ、土屋リョウって言います。茉莉花と同じマンションに住んでて」
「えっ、あなたも、プチシャトー市毛に? だったら、ぜひお話聞かせて。市毛茉莉花さーん、カレシさんが協力してくれるから、あなたもぜひ一緒に……」
「あ、えっと、俺ら、まだつきあってるとかじゃないんで」
「あら、カレシさんじゃなかったの? それは失礼! 美男美女ですごくいい感じだったから、てっきり……」
 ふっと頬がゆるむ。俺らのことを全然知らないおばちゃんが見ても、やっぱりそう思うんだな。
「取材、俺はいいっすよ。えっと、山田さん? が持ってる情報教えてもらえるなら。ただ、茉莉花はちょっと。今日、いろいろあって神経質になってるし」
「いろいろって?」
「取材してるなら、知ってますよね、根尾本気?」
「ネットの掲示板に犯人じゃないかって、名前とか個人情報書き込まれちゃった子だよね? 中学生なのに」
「あ、それ、『側溝のプリンセス・ドゥ』のことっすよね? 読んでるんすか?」
「もちろん! え、根尾本気君もあなたたちと同じ中学なの?」
「っていうか、同じクラス」
「そうなんだ! その根尾君と茉莉花さんがどうしたの?」
「根尾が茉莉花を校舎裏に無理やり連れて行って……」
「ちょっと、リョウ君!」
 かなり先まで歩いていた茉莉花が振り返って睨みつけてくる。声を潜めたのに、聞こえたらしい。
「知らない人になんでもペラペラしゃべらないでよ!」
「いや、根尾のことなら、別にいいだろ」
「よくない! とにかく、やめ……て」
 言葉の途中で、茉莉花の頭がぐらりと傾いだ。
「おい、茉莉花!」
「えっ!? 嘘、ちょっと、やだ、茉莉花ちゃん?」
 くずおれそうになる茉莉花の身体を直前でなんとか支え、その肩を揺する。
「おい! 大丈夫か、茉莉花!? しっかりしろ!」
「リョウ君、ダメ! 身体揺すらないで! 意識ある? 茉莉花ちゃん、わかる? 大丈夫?」
 山田の呼びかけに茉莉花は薄く目を開き、小さくうなずく。
「……ちょっと、めまい、しただけ」
 そう言って身体を起こそうとしたが、ぐらんと頭が揺れ、茉莉花はまたすぐに俺の腕の中へ戻ってきた。
「茉莉花ちゃん、吐き気はしてない? 救急車呼ばなくて平気?」
 俺の胸に身体を預け、目を閉じたまま何度もうなずく茉莉花を見て、山田はすっくと立ち上がる。
「リョウ君、茉莉花ちゃんをお願い。私、この先の駐車場に止めてある車、取ってくるから!」
 言いながら腹の肉を揺らしドタドタと走っていく山田の姿は、ひどく滑稽なのになぜか頼もしく見えた。

 

(つづく)