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「そのころ、倒産の整理とかで、すごく忙しくて家にいなかったんだよね。それに、うちのお父さん、優しくて、特にお母さんのこと、すごく大切にしてて、だから、お母さんに注意したり、怒ったりなんてしてるとこ一度も見たことないんだ。優しすぎて」
「それって、優しいから?」
「……違うかも。お父さん、気が弱いんだ。普段、あんまりしゃべらないし」
「あざみちゃんは、お父さんに相談しなかったの? のんちゃんのこと」
「うーん、どうだったかな。最初は子供ながらにおかしいって思ってたんだよ。でも、お母さんがのんちゃんのことかまわなくなって、のんちゃんは泣いたり、暴れたりがひどくなって……。頭のこの傷、のんちゃんがかんしやく起こして投げたミニカーが当たったの。血がだらだら流れてやばかったらしい。たぶんそういうのが続いて、私もお姉ちゃんも、のんちゃんに関わるの、やめちゃったんだと思う」
「それで、のんちゃんは透明人間に?」
「不思議なんだけど、そこにいるのに、いないみたいになっちゃうんだ、本当に」
 そのとき、ふいに父と話した光景がよみがえった。
「あ、一度だけあった。お父さんにのんちゃんがごはんもらってないって話したこと」
「お父さん、なんて?」
「どんな話したか、全然覚えてない。でも、最後にボソッて言ったんだ。『おまえが男の子だったらな』って」
「どういうことだろう? あ、それであざみちゃん、いつも男の子っぽい服着てるの?」
「え、それは単純にリボンとかフリルが似合わないから、かな? 小っちゃいころから、かわいい服はお姉ちゃんので、私は青や緑のつなぎとか電車のワッペンがついたデニムとかばっか着せられてたし」
「あざみちゃん、電車好きだったの?」
「ううん、別に。あの服、東京にいたとき、のんちゃんも着てたな。私のお古だけど」
「のんちゃん、ごはんもらえなくて、どうしてたの?」
「食事の用意はしてもらえなかったけど、心中が来たときみたいに、手作りのおやつとか、なにかしらあったから、人目を盗んでそれを食べてたって感じ」
 心底ホッとしたように、心中は「よかった」と息を吐いた。
「この部屋に閉じ込められてたわけじゃないんだね?」
「外から鍵をかけるのは、のんちゃんが暴れたときとか、お客さんが来たときとか。お客さんって言っても野ばらさんくらいで、膝が悪いから、階段上ってくることはほとんどなかったけど。誰も家に上げちゃいけないって、家族の絶対ルールだったから」
「なのに、あざみちゃんは、私を入れてくれた。それで茉莉花ちゃんは私を見て、あんなに怒ったんだね。でもあざみちゃん、どうして? のんちゃんがここに閉じ込められてるって、私が誰かに話せば、あざみちゃんのお母さん、捕まっちゃうかもしれないのに……」
「私が心中をこの家に入れたのは、あんな寒いとこにいたら死んじゃうって驚いたから。でも、それだけじゃなくて、どこかで気づいてほしかったんじゃないかと思う。この家の異常さに。うちの中で家族のひとりがいないことにされてるってとんでもなく異常なことなのに、それがいつものことになって毎日が過ぎていくと、感覚が麻痺して、異常だと感じなくなるから」
「あざみちゃんも?」
「うん。でもね、こっちの学校に転校して、私、こんなだから、東京から来た偉そうで嫌なヤツって思われて、クラス全員から無視されたんだ」
 思い出すと、震えるような恐怖が、今もよみがえってくる。私のことが本当に見えてないみたいに、いない存在にされる恐怖が。
「そのとき、思ったの。ああ、透明人間ってこれかって。のんちゃんは毎日、こんな思いをさせられてるんだって。学校ならまだ家に帰れば逃げ場があるけど、のんちゃんにはどこにも逃げ場なんてないじゃん。私、なんてことしてたんだろうって」
「それで、あざみちゃんだけはのんちゃんに優しくしてくれてたんだね」
「お父さんやお母さん、お姉ちゃんにもおかしいって言ったけど、誰も聞いてくれなくて。お姉ちゃんには、もう遅いよってキレられた。うちがそんな家族だってことがバレたら、私たちも終わる。あんた、女優になる私の夢をつぶす気?って」
「茉莉花ちゃん、ひどい……」
「ひどいけど、お姉ちゃんも同じように感覚麻痺してたはずだから、今ごろ言うなって気持ちもわかるんだ。お姉ちゃんはあんなに綺麗で才能もあるから、夢じゃなくて本当に女優として活躍できるはず。それをつぶされたら、たまらないって思うの、理解できるしね。もし私にも才能があれば、同じように考えちゃうかも」
「あざみちゃんと茉莉花ちゃんって、仲悪いのかと思ってた」
「特別仲良くはないけど、悪くもないよ」
「私なんて、お兄ちゃん、死ねばいいのにって毎日思ってたよ」
「それは、あのお兄ちゃんだから、しょうがないでしょ。うちは比較されて嫌な思いすることもあるけど、それってお姉ちゃんのせいじゃないし」
「あざみちゃんは優しいね。具合、大丈夫?」
「うん、痛み止めが効いてるんだと思う」
「じゃあ、もう一度聞いてもいい? さっきの質問」
 気遣うような視線を向ける心中を、しっかりと見つめ返す。
「……答えは、イエスだよ」
「えっ?」
「側溝で見つかった女の子は、のんちゃん」
 心中の顔に動揺が広がったが、声は乱れなかった。
「どうして、そんなことに? のんちゃん、この家から逃げ出したってこと?」
「違う。のんちゃんが転んで意識不明の重体になったのは、私のせい」
「あざみちゃんの? なにが……あったの?」
「あの夜、っていうか、もう明け方、トイレに起きたら、お父さんとお母さんが寝室でのんちゃんの話をしている声が聞こえてきた。気になって少しだけドアを開けたら、お母さんが今にも泣き出しそうな取り乱した声で『バレたのよ。なにもかも終わり!』って。のんちゃんのことが誰かにバレたなら、それは悪いことじゃない。お姉ちゃんにとってはつらいことになるかもしれないけど、それが正しいことでしょう? そう思ってドアを閉めようとした瞬間、お母さん、声を震わせてつぶやいたの。『他の誰かに気づかれる前に、あの子を始末しなきゃね』って」
「始末って、まさか……」
「私もまさかって思ったけど、やりかねないとも思った。それってすごく異常なことだけど、この家はずっと前からとんでもなく異常だったんだもん。心中の言う春しかない国なんかじゃ全然なかった」
「……それで、どうしたの?」
「のんちゃんを助けなきゃって思った。それでこの部屋に来て、押し入れで寝ていたのんちゃんを叩き起こして、逃がした」
「のんちゃんだけを?」
「一緒に行こうと玄関へ行ったとき、のんちゃんがパニックになったの。『しゅうぽんがいない!』って。サンタの帽子を被った、小さなクマのぬいぐるみ。昔、クリスマスにお揃いのをもらって、お姉ちゃんも私もとっくになくしちゃったのに、のんちゃんだけはボロボロになってもずっと大切にしてた。ここで騒がれたらまずいから、取ってくるって約束して、靴を持ってないのんちゃんに私の新しい靴を履かせた。のんちゃん、下着姿だったけど、私もパジャマしか着てなかったからかけてあげるものがなくて、しゅうぽんと一緒にコートを取ってきてすぐに追いかけるから、先に行っててって、のんちゃんの背中を押したの。階段を一階まで下りてエントランスを出たら坂があるから、一番下まで行って、灯りが点いてる家に入って待っててって」
「あ……新聞の?」
「そう、新聞販売店ならやってる時間だった。やってたはずだけど、のんちゃんは、そこにたどり着けなかった。まさか、四月に雪が降ってたなんて」
「雪で転んで、側溝に? あざみちゃんはあとを追いかけたんじゃなかったの?」
「そのつもりだったのに、しゅうぽんが見つからなかった。諦めてコートだけ持って行こうとしたとき、のんちゃんが自分の大切なものを押し入れの上の天袋に隠してたことを思い出した。急いで上って引き戸を開けると、天袋の中にクマのぬいぐるみがあったの。ホッとしたのがいけなかったのかな、しゅうぽん握りしめて、押し入れの上の段から丸めてあったブランケットの上に、ぽんって飛んだら左足に激痛が走って……」
「くじいちゃったの?」
「ううん。ブランケットの下に逆さまになったがあって、芯棒が足の裏に刺さっちゃってた」
「えーっ?」と顔を歪め、心中は包帯の巻かれた左足を痛々しげに見た。
「悲鳴を聞いて走ってきたお父さんとお母さんも、血塗れでのたうちまわってる私見て驚いて、慌てて野ばらさんの知り合いのお医者さんを呼んでくれたんだけど……」
「それで、のんちゃんを追いかけられなかったんだね」
「他のみんなもその騒ぎのせいで、のんちゃんがいないことにしばらく気づかなくて。全部、私のせい。のんちゃんが死んじゃったら、私、どうやって償えばいいか……」
 ぶるぶると震え出した左手を右手でぎゅっと押さえつける。すぐに追いかけるから、先に行ってと押し出したときののんちゃんの背中のあったかい感触が、今もこの左手の中に残ってる。死にたくなるほどの後悔と一緒に。
 そんな私を、心中はきょとんとした顔で見つめていた。責めてほしいのに、どうしてそんな顔?
「あざみちゃん、まだ聞いてなかった……の?」
 聞いてないって、なんの話?
「知ってるのかと思って。そんなに心配してたのに、ごめん。先に話せばよかった」
 なんのことかわからず呆然としている私の震える手を、心中は優しく両手で包む。
「もう心配しなくて大丈夫だよ。のんちゃんの意識、戻ったって」
 なにかに打たれたみたいに、全身が震えた。
「……それ、本当?」
 確かめる声も震えてる。
「のんちゃん、本当に助かったの?」
「うん、そう聞いた。あざみちゃん、よかったね、のんちゃんが無事で」
 目の前に差し出されたハンカチを見て、自分が泣いていることにはじめて気づく。
「あざみちゃん、私も嬉しい。間違いないと思うけど、あれだったら、野ばらさんに確認してみたら? 連絡来てるんじゃない?」
 嫌な予感が胸をよぎった。
「あれ、どうしたの?」
「よかったけど、よくないかも」
「どういうこと?」
「うちの家族は、このままのんちゃんの意識が戻らないことを願ってた」
「そんな、まさか……」
「のんちゃんが死んでくれたら、どこの家の子供か探られずに済むって、みんなで話してた。事件以来、いつバレるか、のんちゃんがいつ目を覚まして本当のことをしゃべっちゃうか、全員、ビクビクしすぎておかしくなってる」
「でも、だからって……」
「心中、そこの窓から下の駐車場見て。一番左端に白い車、停まってる?」
「ううん、白い車はない。そこの車庫だけ空いてる」
「お母さん、行ったのかもしれない」
「のんちゃんの病院へ? だとしても、意識が戻ったって聞いて嬉しくて行っただけかも。まさか、のんちゃんをどうにかしようなんて……」
「『始末しなきゃね』って言った人だよ。あの子が誰かに余計なことをしゃべる前に……」
「ちょっと、あざみちゃん、どこ行くの? その身体じゃ病院は無理だよ。私が行く」
「ううん、私も行く。行かなきゃ」
「その足で、四階から一階まで下りる気?」
「肩、貸してくれるよね?」
 見つめ合い、その目の中に揺るぎないものを見たのか、心中はつぶやく。
「わかった。のんちゃんのためだもんね。でも、そのまえに電話貸して」
「いいけど。ああ、お父さんに?」
「違う。もしかしたら助けてくれるかもしれない人にかけてみる」
 誰? と尋ねたけど、心中はそれに答えず、リビングに走っていった。


【根尾本気】


「助けてくれよ」
「は? 公衆電話から電話してきていきなり、それ? まずは名乗ろうよ」
「あんた山田って人だろ。俺にこの名刺渡した」
「そうだけど、その名刺、いろんな人に渡してるんで、どちらさん?」
「名前は……言いたくない」
「ほう、それで、どうやって助けろと?」
「金、貸してほしい」
「それ、消費者金融の人が聞いたら、ぶったまげるよ」
「無駄話してる時間ねぇんだよ」
「小銭でかけなくても、携帯ショップとか行けば、スマホ充電できるけど」
「無理。スマホがねぇから」
「あ、スマホ、家に忘れてきちゃったとか? それは取りに帰ったほうがいいよ。今、スマホないと、なんもできな……」
「できるならそうしてるに決まってんだろっ!」
「じゃあ、スマホどうしたの? トイレに水没させちゃった?」
「違ぇよ、取られたんだよ、茉莉……、女に」
「今、『まり』って言った? 言ったよね? 私、つい最近、めちゃくちゃかわいい『まり』のつく女子中学生に会ったばかりなんだけど、その関係者かな? 返事がないけど、そうだとすると、候補はふたり。ひとりは昨日しゃべって声知ってるから、もうひとりの根尾本気君! どう、正解?」
「……だったら、なんなんだよ!」
「ちょっと、金貸してって頼んどいて、キレるってあり?」
「キレてねぇから、貸してくれよ」
「いくら?」
「できるだけたくさん。東京行って暮らせるくらい」
「スマホ持たずに東京行って、どうするの? とにかく一度家に帰って……」
「それができたら、あんたに電話なんかしてねーんだよ!」
「ふーん、察するに、制服のポケットに突っ込んであった私の名刺と小銭だけが命綱って感じ、かな? 小銭、あといくらある?」
「なんでそんなこと答えなきゃいけねぇんだよ?」
「だって、電話つながってるうちに、待ち合わせ場所決めないと、ヤバくない?」
「金、貸してくれんの?」
「お金は貸さない」
「はぁ?」
「でも、君の持ってる情報を買うことはできるよ」
「情報? あ、俺、いいの持ってる。側溝のプリンセス・ドゥが誰かわかる写真!」
「写真? スマホ持ってないのに?」
「あ……。チッ! でも、犯人が誰か知ってる。その情報を百万で売ってやる」
「百万? ぼったくりすぎでしょ。下手したら百円まで買い叩かれるよ。犯人なら、側溝のプリンセス・ドゥ本人に訊けばいいんだもん」
「は? どうやって意識不明のやつから?」
「意識戻ったって。だから、根尾君の持ってる情報には価値がない」
「嘘だろ、そんな……」
「でも、他の情報が興味深ければ、買うかも」
「他のって?」
「例えば、中学生の君が、なんで慌てて東京へ逃げようとしているのか、とか?」

 

(つづく)