【市毛百合花】
生中継は、すぐに打ち切られた。
なぜ逮捕されるべきか、理由まで話せず残念だったが、この会場でもまだカメラが二台回っている。客の中にも、スマホで動画を撮っている者が何人もいる。
中継を仕切っていた偉そうな男が泡を食い、なぜこの女を選んだんだとスタッフに怒りをぶつけている。偉そうな男とリポーターは市毛野ばらに平謝りし、不適切な発言を謝罪するコメントを入れますからと、スマホでどこかと連絡を取りながら、対応に追われこの場を離れていく。
「あなた……、誰なの? なにが目的で、こんなひどいことを」
声を震わせ、詰問したのは市毛野ばらだ。
「私が誰か、わからないんですね」
「え……?」
「野ばら先生、あたし、この人、知ってる!」と、リサが声を上げる。
「うちのマンションの周りをうろうろ嗅ぎまわってたフリーライターよ」
「そういえば、茉莉花もそんな話を……。名刺をもらったとかって」
「これですよね」と、名刺を一枚、市毛野ばらに差し出す。
「『山田百合花』の名刺を見ても、気づいてもらえなかったなんてびっくり」
「茉莉花はわたくしが描いた絵の女性に似てたって言ってたけど、そんなはずないって叱ったわ。だって、山田って人はすごく太っていたって言うから。ゆーちゃんが太ってるわけがないもの」
昔からこだわりが強く、自分が理想とする世界を壊されることをひどく嫌う人だった。少しも変わってないらしい。許せないものからは目を背け、なかったことにしてしまう。実の娘ですらも。
「野ばら先生、ゆーちゃんって、もしかしてこの人が桜子さんの妹?」
驚くリサに、慇懃に頭を下げた。
「市毛百合花です。ライターの時はペンネームで父の旧姓を名乗ってますけど」
「ちょっと、あなた、野ばら先生の娘なのに、どうして生中継であんなこと言ったの?」
怒りだしたリサを「だから、嘘なのよ、リサちゃん」と、野ばらがなだめる。
「ゆーちゃんがこんなに醜く太ってるわけないんだから。なにが目的かわからないけど、なんにしても場所を変えてふたりで話しましょう。カメラを止めてくださらない」
「……『醜い』、『みっともない』、子供のころ毎日のように言われたよね、あなたに」
当時の光景が蘇りそうになり、慌てて頭を振って払いのけ、深呼吸してから続けた。
「ある時から言われなくなったのは、私が美しくなったからではなく、私の代わりにお姉ちゃんが言われるようになったから、そうだよね?」
能面みたいに表情をなくした野ばらから視線を外し、リサに訴える。
それからはずっと、私は母に溺愛される愛玩子で、姉は母のストレスのはけ口にされる搾取子だった、と。
「野ばら先生がそんなことするわけないじゃない。それに美術の先生しながらシンママでふたりの子供育てるって本当に大変だったはず。少しは理解してあげなさいよ」
「リサさん、この人は家事も私の世話も小学生の姉に丸投げでしたよ。幼い私が癇癪を起こすと、姉を使って叱らせ、時に暴力で押さえつけた。私は姉を憎み、姉妹の関係は最悪だった。当時は母が自分の思い通りに姉を動かしてるなんて思いもしなかったから」
「意味がわからない。野ばら先生がどうしてそんなことを?」
声を上擦らせるリサを見つめる。「本当は心当たりがあるんじゃないですか?」 と。
「溝呂木志穂子さんが言ってました。野ばら先生は目をかけた人間を他のお気に入りと、つまり、あなたや根尾さおりさんや姉の桜子と競わせ、嫉妬させる。気が付くと、他の人よりも認めてほしくて、野ばら先生に尽くし、機嫌を取っているんだって」
思い当たることがあるのか、リサはなにも言い返さず、視線を床に落とす。
「姉も母の愛情が欲しくて、奴隷のように母に尽くしていた。絵の才能があったのに美大進学をあきらめ、すべての家事をこなし、バイトで得た金もすべて母に貢いで……。そこまでしていたのに、二十歳になった姉に、母からさらなる指令が下った。市毛家のために、今すぐ男の子を産め、と」
男児に異常なこだわりを持つ母に繰り返しそう言われた桜子は、ある日、交際相手を家に連れてきた。
「それが冬彦さんね? なのに妹のあなたが奪った」
「リサさん、それは冬彦さんじゃない。母は彼を家に上げもせず玄関先で追い返した」
「リサちゃん、それは桜子にふさわしい相手じゃないと、私がすぐに見抜いたからよ」
すかさず言い訳する野ばらの言葉を、「違う」と跳ねのける。
「気に入らなかったのは、お姉ちゃんのお相手が司法試験に合格したエリートだったから。娘が自分より幸せになるなんて、許せなかったからでしょ?」
「そんなことあるわけないじゃない。あの男は性格に問題があったのよ」
「じゃあ、次の人は? その次の次の人も? みんな、話も聞かずに追い返したよね」
「だから、それは全部桜子のために」
「正確な数は覚えてないけど、そうやって何人もの男性が、母の一存で却下された」
さすがにリサも、驚いて野ばらの顔を見た。
「でも、冬彦さんのことは一目で気に入って家に上げた。たぶん彼が心に傷を持つと見抜いたから。それが一番の母の特技。人の弱いところやコンプレックスを見抜いて、それを利用して抉り、その人を操る」
「ちょっと、野ばら先生のことばっかり悪く言ってるけど、桜子さんから冬彦さんを奪ったのは、妹のあなたなんでしょ?」
「違うわ、リサさん。私は奪ったりしていない。母が姉に言ったのよ。『この人はいいわ。すごくいい。だから、冬彦さんを、妹に、ゆーちゃんにあげなさい』って」
あなたは、お姉ちゃんなんだから――。
リサも絶句し、個展会場は水を打ったように静まり返る。
そんな中、リポーターの男性が、おずおずと近づいてきた。
「ひとつうかがってもいいですか? たとえ命令されたとしても、言われたとおりにするなんて、おかしくないですか?」
今まで沈黙していた野ばらが味方を得て、顔を輝かせる中、彼は続ける。
「今、SNSで拡散されているこの個展会場から外された『柊ぐ』という絵、二十年ほど前の野ばら先生、桜子さん、赤ちゃんを抱いた百合花さんと一緒に描かれているのが、なぜ冬彦さんなのかという疑問は解けました。でも命じられたとおり、あなたが姉の恋人と結婚し、子供をもうけたのだとしたら、失礼ながらあなたも、桜子さんも、冬彦さんも、みんな、どうかして……」
彼が言い淀み、呑み込もうとした言葉を引き取る。
「ええ、どうかしてました。姉も私も洗脳されていたんだと思います。母のお眼鏡にかなった冬彦さんはさらに洗脳しやすかったはずです。なぜなら、彼は優しくて気が弱く、子供のころ同じように自分の母親から虐待されていて、しかも目の前でその母親に自殺された過去があったから」
リポーターの男性は大きな目をさらに見開き、「……すみません」と頭を下げた。
「壮絶すぎてすぐに理解が追い付きませんが、桜子さんがあなたと冬彦さんの息子、柊吾君を殺害したのは、自分の恋人と妹の子供だからということなのでしょうか?」
「いいえ、姉は柊吾を手にかけていません。医者が言うとおり、あの子は病死だった。でも待望の男の子を失った母は、また姉の心に罪悪感を植え付けた。『おまえがちゃんと世話をしていれば、こんなことにはならなかった。おまえが柊吾を殺したんだ』って」
私は子供の死で目が覚めて、母から逃げることを決意し、冬彦と離婚して母のもとを離れた。
「母から逃げれば、楽になれると思ってました。でも、そんなに簡単じゃなかった」
搾取子だったころ、この人に繰り返し罪悪感を植え付けられたから。
あなたがいなければ、画家になる夢を諦めずに済んだのに。
あなたを育てるために、ストレスしかない美術教師の仕事を続けてきたのに。
そして愛玩子となってからも、常に母親の顔色をうかがって生きてきたから。
東京へ逃げてからも、いつも不安で、自分が悪い気がして、どこにも安心して休める場所がなかった。
怖くてたまらなくなると、メロンパンをコーヒー牛乳で流し込んだ。
子供の頃、お姉ちゃんが買ってくれてふたりで半分こして食べた同じ銘柄のものが、唯一の精神安定剤。姉を憎んでいたのに不思議だったけど、どこかでわかっていたのかもしれない。本当に悪いのは、姉じゃない、と。
「姉とは連絡を取っていなかったけど、知人を介し、姉が冬彦さんと結婚し、東京で暮らしてると聞いてホッとした。でも、男児の出産にこだわる母は、柊吾の命を損なったのだから男の子を産めと姉に執拗に迫っていたらしい」
女の子をふたり出産した後、次も女児だったらと怯え、不安定になった姉は、妊娠を周囲に隠して出産。生まれたのが女児だったことに絶望し、母には知らせられないと、出生届を出さず、人目から隠し、家の中だけで育てることにしたという。
しかし、冬彦が事業に失敗し、プチシャトー市毛で暮らさざるを得なくなり、三女は柊吾のおもちゃがそのまま残された納戸に軟禁された。
「昔みたいに毎日、母の身の回りの世話をさせられ、姉は精神的にどんどん追い詰められていき、三女の世話ができなくなった、と。絶対にここには帰ってきてはいけなかったのに。姉はどこかでまだ、母に認めてもらいたいと切望していたんでしょうね」
「あの」と、リポーターの男性が恐る恐る声を上げる。「さっきのはどういう意味ですか? 『側溝のプリンセス・ドゥ』事件で逮捕されるべきは野ばら先生だって。あなたは、その三女を虐待していたのが、本当は野ばら先生だったと言いたいんですか?」
「そんなわけないでしょ!」と、野ばらが金切り声を上げる。
「わたくしは、あの子の存在なんて、本当に知らなかったんですから」
母を無視し、リポーターの男性に向き合う。
「姉も義兄もこの人にバレないよう必死に三女を隠していたのは事実です。でもある時、三女の存在が、母に知られてしまった。事情を知った母は、姉に言ったそうです。『だったら、始末しなきゃね』って」
「嘘よ、そんなこと、このわたくしが言うわけないわ」
「いかにも言いそうだけど。『始末しなさい』って命令じゃなく『始末しなきゃね』って、お姉ちゃんが自分で決断したように追い込む汚いやり口が。なんにしても、それを桜子の言葉だと勘違いした彼女の娘が妹を逃がそうとして起きてしまったのが、今回の事件です」
「そんなデタラメで、わたくしは逮捕されなくちゃいけないの?」
「証拠がないから逮捕は難しいと思い、こういう方法をとりました」
「皆さん、この方がいかに卑劣な手段でわたくしを貶めようとしたかお聞きになったでしょ。時間の無駄だわ。リサちゃん、行きましょう」
会場を出ようとする野ばらについていくリサ。その背中に声をかける。
「リサさん、この人から早く逃げたほうがいいですよ。じゃないと、いつか根尾さおりさんのようになってしまうかもしれない」
「なに言ってるの? 彼女は不倫相手だった溝呂木さんに殺されたんでしょ?」
そう、溝呂木忠芳は、根尾さおり殺害容疑で逮捕された。
彼は事件当時さおりさんが身につけていたピジョンブラッドルビーのネックレスを所有者である妻のもとに持ち帰っていたが、そのネックレスからさおりさんの血痕が検出されたことにより、ようやく殺害を自供したのだ。
「殺害したのは溝呂木さんだけど、市毛野ばらがいなくても、さおりさんは溝呂木さんと不倫していたと思います? 市毛野ばらによって溝呂木志穂子さんをライバル視させられたから、さおりさんは年の離れた溝呂木さんと交際したというのは穿った見方でしょうか」
その言葉に、リサは足を止めた。
「早くいらっしゃい」と野ばらに呼ばれても、彼女はその場から動けなかった。
【土屋リョウ】
屋上にひっくり返り、市毛野ばらの出演番組をスマホで視聴していたら、生中継で山田が爆弾発言をした。
自分が立ちあげたスレッド『側溝のプリンセス・ドゥ』に、すぐさま「真犯人は、市毛野ばら?」と書き込む。
茉莉花の末妹が側溝のプリンセス・ドゥであることがわかり、両親が逮捕されて、このスレは役目を終えるものと思っていたが、市毛野ばらの会見で再燃し、山田のこのひとことでまたバズるに違いない。山田の発言の続きを拾いたかったけれど、昼休みが終わってしまう。
これで茉莉花も完全に終わりだなと思いながら自分の席に戻ると、教室の空気が変わっていた。
その理由は、すぐにわかった。
窓際の後ろから二番目、ずっと空席だった場所に光が射しているように見える。
そこに茉莉花がいたからだ。ネットに写真を晒され、怯えていたはずなのに。俺が学校に来いとお義理で言ったから登校したのだろうか。すぐに話しかけるのは得策ではないので、様子を見ていると、茉莉花のファンクラブの女子が俺に話しかけてきた。
「ねぇ、茉莉花様のお祖母さんが描いた家族の絵を投稿したの、リョウ君なの?」
「……は? 違うよ、俺がそんなことするわけないだろ」
合鍵つくってアトリエに忍び込んだところを茉莉花に見られたのはまずかったけど、証拠を握られたわけではないから、知らないで押し通せる。
「茉莉花様の妹さん、そのせいで、危ない目に遭ったんだって。ひどくない?」
「それは大変だったね。だけど、俺はそのことになにも関わってないから」
「でも、根尾の件にはがっつり関わってたよな」と、今度は前の席の男子が口を挟む。
「側溝に女の子捨てた犯人と決めつけて、疑われて攻撃されるように仕向けてたろ」
「そのあと根尾が逃げてたときも、母親殺しの小児性愛者を狩ろうって煽ってたし」
「嘘、あれ、リョウ君がやってたの。最低」
「いや、俺、そんなことしてないって」と否定したけど、この中の何人かには根尾に鉄槌を下すと得意げに宣言してしまった。
つい一時間前までこのクラスは俺を中心に回っていたのに、いきなりのアウェイ感に戸惑う。この空気をつくりだしたのは――。
「なぁ、茉莉花、俺がいない間になに言ったんだよ?」
窓の外を見ていた茉莉花はこちらに顔を向けたけれど、なにも答えず、その涼しい顔にイライラが募る。
「茉莉花の家がいろいろあって大変なのはわかるけど、なんの根拠もなしに関係ない人を貶めるようなことするの、よくないと思うよ」
「うわっ、母親殺してなかった根尾をあれだけ叩いてたリョウが、どの口で言ってんの?」
「茉莉花様はなにも言ってないよ。うちら、もともとリョウ君に引いてたんだよ」
いや、絶対に嘘だ。こいつらが冷ややかな目で俺を見てるのは、女優志望の茉莉花がその表情や声で、こいつらの感情をコントロールしたからに違いない。
「茉莉花が誰かに当たりたくなる気持ちはわかるよ。あんなキモくてヤバい親に育てられたら、そりゃ……」
言葉の途中で俺を見つめるやつらの目がさらに冷ややかになった。
「キモくてヤバいのはリョウのほうじゃん」と、ひそひそ話が広がっていく。
「は? なんだよ、その目? おまえらだって根尾を叩いて喜んでたくせに。叩かれる根尾見て、ストレス発散してたの、わかってんだからな!」
「ねぇ、リョウ君」と、俺の前に立ったのは、茉莉花ではなく、ファンの女子だ。
「隠れていた根尾君が、リョウ君のせいで見つかって、怪我をさせられたり、殺されてたかもしれないんだよ。それでもリョウ君の心は少しも痛まないの? リョウ君は、『側溝のプリンセス・ドゥ』のスレッドで、いったいなにがしたかったの?」
なにも言えず、黙り込む俺を見て、茉莉花が立ち上がる。
「ひとつだけ、いい?」
凛と通る涼やかな声に、そこにいる全員が耳をそばだてる。
「前から思ってたんだけど、茉莉花様っていうの、やめてほしい」
誰もがきょとんとした顔で、茉莉花を見た。
全員の視線が自分に注がれる中、茉莉花はほんの少しだけいたずらっぽく笑う。
「茉莉花でいいから」
その一言に、クラス中がふっと笑み崩れた。こんな状況にもかかわらず、俺さえも。
つらい経験をした茉莉花の顔は疲れている。なのに、なんで前より綺麗に見えるんだよ?
少し痩せてより凛々しくなった茉莉花がまぶしくて、思わず目を伏せた。
(つづく)