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【市毛あざみ】

「うん、お父さんが三階の廊下を走ってきたのは、心中のお母さんが殺された日」
「そ、それがなんだって言うのよ、あざみ? 根尾のお母さんを殺したのは、根尾本気でしょ? だから、あいつは逃げて、家に帰ってこられないんじゃない。お父さんが三階の廊下を走ってきたからって、そんなの全然関係ないよ」
「そう思いたいけど、あの日のお父さん、様子がおかしかった」
「お父さんがパニくるのは、よくあることじゃん。それに、お父さんが根尾の家に行く理由なんて、あるわけな……」
 言いかけてハッと目を見開き、お姉ちゃんは黙り込んだ。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「……なんでも、ない」
「嘘! なにか思い出したんでしょ? お父さん、やっぱり心中のお母さんのところへ行ったの? お姉ちゃんの知ってること、全部話して」
 覗き込んだ大きな瞳の奥で揺れているのは、不安に違いない。
 そのとき、形のいいお姉ちゃんの唇が、小さく動いた。
「えっ、パソコン? 今、パソコンって言った?」
「……根尾が私のこと盗撮した写真の中に、のんちゃんが写り込んでたものがあって、あいつ、それで私のこと脅してきた」
 相談を受けた野ばらさんがお父さんと一緒に根尾家へ行き、本気のノートパソコンを持ち帰って、そのデータを消去させたという。
「お父さんはあの日、そのパソコンを返しに三〇一号室へ行ったの?」
「かもしれない」
「じゃあ、データを消したことを、心中のお母さんに責められて、それで……」
「なに言ってるの? あのお父さんが人を殺したりするわけないでしょ」
「そうだけど、なにかのはずみでそういうことになっちゃって、それで慌てて逃げたってことも……」
「やめてっ!」
 悲鳴のようなお姉ちゃんの声に、言葉を遮られた。
「お母さんが逮捕されて、お父さんまで人殺しなんてことになったら、私たち、どうすればいいのよ?」
「私だって嫌だよ! 心中にはすごく助けてもらったんだから。本当にお父さんが殺してたら、私、心中にどうやって謝ればいいのか……」
「大丈夫」と、お姉ちゃんが自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「最悪な結果になっても、私たちには野ばらさんがいる。野ばらさんなら、きっとどうにかしてくれるはず。なにがあっても、野ばらさんなら私たちのこと、守ってくれる」
 呪文のように「野ばらさん」を繰り返すお姉ちゃんの唇は、いつもより赤みがなく、カサついているような気がした。




【市毛野ばら】

 皆様、高いところから失礼いたします。
 本日はお足もとの悪い中、わたくし、市毛野ばらの個展『ひいらぐ野ばら』展にお運びくださいまして、誠にありがとうございます。
 そうご挨拶申し上げましたが、皆様がたがわたくしの作品を目当てにいらしてくださったわけではないということ、重々承知しております。
 午前九時の開場時刻までまだかなりお時間がございますのに、これほど大勢の報道機関の方がお越しになるとは想像だにしておりませんでした。
 雨の中、外でお待たせするのは心苦しく、急な事ではございますが、こちらの公民館様のご厚意により、開場前の個展会場にお通しした次第でございます。
 まずは、この場をお借りして、謝罪させていただきたいと思います。
 このたびは、わたくしの娘、市毛桜子が起こしました事件により、世間様をお騒がせし、ご迷惑をおかけいたしましたこと、誠に遺憾であり、大変申し訳なく思っております。
 娘の不始末はひとえに母親であるわたくしの責任と、悔やんでも悔やみきれません。
 このとおり、心より深く深くお詫び申し上げます。
 娘の話を聞かせてほしいと自宅までお越しになった方がこの中にもたくさんおられるのではないかと思います。事件以来体調を崩してしまい、ご対応できなかったことを深謝いたします。
 ご質問がございましたら、お答えできることはわたくしがお答えいたしますので、大変恐縮ではございますが、開場時刻が近づきましたら速やかにご退出いただき、一般のお客様にカメラやマイクを向けるようなことはなさいませんよう、平にお願い申し上げます。
 田舎のばあさんの手慰みとお思いでしょうが、これを観るために遠方からいらしてくださる方もおられますので、お客様が心静かに作品を楽しめるよう、ご配慮いただけましたら幸いです。
 ああ、リサちゃん、いいのよ。
 大変失礼いたしました。どうぞ展示作品の撮影、お続けになってください。
 お気遣いいただき、ありがとうございます。拙作へのお褒めのお言葉、お世辞でも嬉しゅうございます。
 開場前であれば、作品の写真撮影もご自由にしていただいてかまいません。
 ええ、各媒体で使ってくださって結構でございます。
 ただ、ご覧いただいておわかりのとおり、今回は家族をテーマに作品を展示しております。家族が不祥事を起こしたにもかかわらず、急なことで個展の内容を変更することができず、ご不快に思われる方もいらっしゃるのではないかと、申し訳なく思っております。
 お時間が限られておりますので、まずは今回の事件について順を追ってお話しさせていただきます。
 ああ、その前にご紹介します。こちらはわたくしの絵画教室の生徒、土屋リサでございます。こうしていつもわたくしのことを親身になって支えてくれておりますの。
 彼女の作品も廊下に展示されてますので、ご覧になってください。
 さて、警察の方がはじめて我が家へお見えになったのは、季節外れの雪が降った四月の寒い朝のことでした。
 わたくしがオーナーを務めるマンションの前の坂道で、側溝に倒れている幼い少女が発見されたと聞かされ、とても驚き、心を痛めたことを覚えております。


【市毛あざみ】

「野ばらさん、大丈夫かなぁ」
 低い壇上に立って話す野ばらさんを舞台袖から見つめ、お姉ちゃんが心配そうにつぶやく。
 今朝、帽子やマスクで変装まがいの格好をさせられ、お姉ちゃんに無理やりこの会場に連れてこられた。
 あざみに見せたいものがある――と。
 朝早くから個展の準備をしていたリョウ君のお母さんに中へ入れてもらって捜したが、お姉ちゃんのお目当ての絵は見つからず、そうこうしているうちにマスコミの人たちが詰めかけ、外に出られなくなってしまった。
 謝罪の気持ちを伝えたいと言い出した野ばらさんを、みんなで止めたけど、聞いてくれなくて……。きっとこのままだと、個展を観に来てくれたお客さんたちに迷惑がかかると思ったんだろう。
 それはわかるけど、野ばらさんが謝罪会見を開いて質問に答えても、ここにいる人たち、個展のお客さんからも話を聞こうとするんじゃないかな。
 あ、でもマスコミの人たちも、展示された絵を見て、おおーって声を上げたり、「これほどとは」なんて言って驚いたりしてたから、野ばらさんのファンにしつこくしないでくれるかも。
 私はお姉ちゃんみたいに野ばら教の信者じゃないし、苦手なとこのほうが多いけど、それでも野ばらさんの描く絵は、好きだ。
 今、壇上の野ばらさんは『側溝のプリンセス・ドゥ』という掲示板で犯人と疑われた家族へのお詫びを口にしている。名前は言ってないけれど、会場にいる全員が、根尾家のことだとわかってる。
 そして、野ばらさんは別の事件で亡くなった心中のお母さんに、名前を伏せたまま、お悔やみを言う。描いてプレゼントした家族の絵を心中のお母さんはすごく喜んでくれたのに、今日、ここにその絵を飾ることができず、とても残念だと、野ばらさんは涙を拭った。
 こんなふうに、野ばらさんが一方的に話してる間にさくさく時間が過ぎて、九時になるといい。時間切れになって、マスコミの人たちはちゃんと約束を守り、静かに出て行ってくれるといい。
 でも、そんなにうまくいくわけなくて、三人目の孫の存在を知らなかったと野ばらさんが申し訳なさそうに言った直後、会場のあちこちから質問が飛んだ。
「ちょっと待ってください。四年前から同じマンションで暮らしているのに、知らなかったなんてことがあるんでしょうか?」
「同じマンションといっても、部屋は別なんです。桜子一家が東京から戻ってきたとき、四階の広い部屋をあの子たちに譲り、わたくしは一階へ移りましたから」
「それでも、お互いの部屋を行き来する機会はあったはずですよね?」
「ええ、上の孫娘の誕生日会に呼ばれたことはございます。でも、うちのマンションにはエレベーターがありませんので、膝を痛めてからは階段で四階まで上るのがつらくて……。それで、いつも娘のほうがわたくしの部屋へ来てくれていたんです」
 次々と投げつけられる質問に、野ばらさんは懸命に答えていく。
 のんちゃんの存在を知らなかったはずだから、野ばらさんは嘘をついていないと思うけど、引き攣った顔や不安そうな姿が、なにか隠しているように見えてしまう。
「娘さんとあなたはとても仲のいい母娘だったと近所の方から伺いましたが、それだけ近くにいて、桜子さんが娘を虐待していることにまったく気づかなかったんですか?」
「はい。お恥ずかしい話ですが、そばにいたのに気づいてあげられなかった自分の迂闊さ、いたらなさを悔やむことしかできません。桜子がなぜ自分の娘にあんなひどい仕打ちをしたのか……」
「母親として、思い当たることはないんですか?」
「それは……」
 言い淀む野ばらさんを見て、会場がざわめく。
「なにかあるなら、聞かせてください。それが母親の責任じゃないですか」
「……あの子は妹と違って、幼いころから少し難しいところがあって。ですから、不安や心配がなかったといえば嘘になりますが、母親としてできうる限りの愛情を注いできたつもりです」
「難しいところって、具体的にどういうことかわかるように説明してくださいよ」
 野ばらさんは黙ってしまい、質問したおじさんを舞台袖からお姉ちゃんが睨みつける。
 やいやい騒がしかった会場が急に静まり、見ると、野ばらさんが顔を上げ、口を開きかけていた。

 

(つづく)