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【市毛あざみ】

「あざみちゃん、早すぎるってば。危ないよ!」
 心中が隣で悲鳴のような声を上げる。
「そんなに急がなくても大丈夫。あざみちゃんのお父さん、追いかけてきてないから!」
「え……?」
 恐る恐る足を止め、振り返る。ずっと追われているような気がしていたけど、心中が言うとおり、そこには誰もいなかった。
 三階と二階の中間踊り場から見上げても、三階の廊下にいたお父さんの姿は見えない。
 ホッとした途端、跳ぶのをやめた右足ががくがく震え出した。無理をし過ぎたかもしれない。
「お父さん、あざみちゃんのこと、見逃してくれたんだね」
「……それはわからないよ。あの人、部屋に戻って野ばらさんに電話してるかも」
 電話しながらペコペコ頭を下げてるお父さんの姿がリアルに浮かび、焦って心中の肩をつかむ。
「ちょっと、あざみちゃん、少し休もう」
「そんな時間ない。野ばらさんやお姉ちゃんに見つかったら、今度こそ終わり」
「だからって、そんなに急いだら足が……」
 足はまだがくがくしてる。でも心中の肩と手すりで身体を支えれば、まだ跳べそう。
 ほら、跳べた。
「コツがつかめてきたから、一気に行っちゃったほうがいい。ほら、ね!」
 ちゃんと跳べてる。休んでしまったら、足が動かなくなるかもしれない。それに……。
「でもさっきよりずっと苦しそうだよ。跳ぶたび怪我したほうの足にも響いてるんじゃない?」
「……そ、そんなことないよ」
 心中は本当に人のことをよく見てる。怖いくらいに。
 この階段で寒さに震えていた心中を家に連れ帰らなければ、こんなふうに肩を貸してもらうことも、この子の強さや賢さを知ることも、一生なかったはずだ。
 うちもヤバいけど、あんなひどい家で育った心中がよくこんないい子に……。
 心中が暮らしていた三階を見上げ、ふっと思った。
 お父さんはどうして三階にいたんだろう? 三〇一号室の心中の家族とも三〇二号室の古河内のおばあちゃんとも、親しい付き合いがあるわけじゃないのに。
 野ばらさんになにか用事を言いつけられたんだろうか。だとしたら、その報告をするため一階の野ばらさんの部屋へ行くはず……。
 考え事をしていたせいか一瞬集中が途切れ、あっと思ったときにはもう階段を踏み外しかけていた。
 よりによって中間踊り場から数段下りたばかりのところで、こんな高さから落ちたら、首の骨を折るかもしれない。
 怖い! と感じた瞬間、目に映るすべての景色がスローモーションになった。
 咄嗟に左手で強くつかんだ手すり、それでも体重を支え切れずに傾いていく身体、ゆっくりと、でも確実に、目の前に迫ってくる階段の踏み板――。
 思わず目をつぶったそのとき、背負っていたリュックがぐいっと後ろに引っ張られた。
 身体が引き戻され、階段に尻もちをつく。
「いった……」
 背中を丸めて痛みに耐え、呻きながらまぶたを開ける。
 目の前の光景に、痛みの感覚が飛んだ。
 数段下に心中が倒れている。
 私を引っ張った反動でバランスを崩し、滑り落ちてしまったんだ。
「心中!」
 呼びかけたが、心中は倒れたまま動かない。
 階段を這い下り、懸命に名前を呼びながら身体を揺すると、ようやく心中はゆっくりと目を開いた。
「……あ、あざみちゃん、大丈夫?」
「それはこっちのセリフ。心中こそ、大丈夫? 頭とか打ってない?」
 上体を起こし、心中はうなずく。
「うん。あざみちゃんは?」
「私はちょっとお尻打っただけだよ」
「足は? 怪我した足は平気?」
 手すりの格子をつかんでゆっくりと立ち上がり、足を動かしてみる。
「大丈夫みたい……ここ」
 言いかけた「心中のおかげで」は、感情のこもった「よかったぁ」という声にかき消された。
 嬉しそうに微笑みながら心中がリュックや服の汚れを払ってくれる。心中のほうが汚れてるはずなのに。その姿を見て、ぎょっと息を呑んだ。
「あんた、それ……」
 左手でパンパン汚れを払いながら、心中の右手はぶらんと下に垂れ下がったままだ。驚いてその手に触れると、心中はビクッと震え、身体を引いた。
「痛むの? 今ので肘、怪我したのね?」
 どうしよう。私のせいだ。そんな枝みたいに細い腕で、私が落ちるのを身体を張って止めてくれたから。
「大丈夫、曲げるとちょっと痛いだけ。伸ばしてれば平気だから」
「平気じゃないよ。今すぐ病院行って」
「行くよ。行くところだったでしょ」
「のんちゃんの病院じゃなくて、肘の怪我を治してくれるとこだよ! 駅まで行けば、遅くまでやってるとこあったはずだから、すぐに行って診てもらって」
「あざみちゃんは、どうするの?」
「私は……、ひとりでも大丈夫だから」
「大丈夫じゃなかったじゃない。私、もし途中であざみちゃんが動けなくなったら、おぶって四階の部屋に戻ろうと思ってた。でももうおぶれない。だから、下りるしかない」
「だから、下りてって言ってるでしょ。ひとりで階段下りて、病院へ行ってよ。このせいで心中の肘が動かなくなったら、私、今度はきっとその悪夢を見続けることになる」
「悪夢ってなに? のんちゃんの病院に行かなくていいわけ?」
「だからひとりでも行けるってば」
「絶対、嘘。あざみちゃん、諦めるんだ? 階段から落ちそうになって、怖かったから?」
「違う、そうじゃな……」
 途中で言葉に詰まった。そうじゃないって言い切れる? 実際、首の骨折って死ぬかもって、ものすごく怖かった。右足はがくがくしてるし、左足もズキズキと痛い。身体もきつくて、もう限界。もともとこんなこと無理だったのに、考えもなしに突っ走って、心中に怪我させて、私、最低だ。
 肩を落とす私に、心中はポケットに手を突っ込んでつかみ出したなにかを突きつける。
「あざみちゃん、これ」
 ゆっくりと指を開いた手のひらの上に乗っていたのは、小さなマッチ箱だった。あやめの花が描かれ、『スナック・アイリス』と印字されている。
「なに、これ?」
「お守り」
「このマッチ……が?」
「私がこのマンションからいなくなる直前、うち、ボヤ出したの覚えてる?」
「ああ、うん。心中のお母さんが煙草の火をちゃんと消さずに寝ちゃって、火事になりかけたんだよね」
「みんなそう思ってるみたいだけど、違うんだ。本当は、私がやったの」
「えっ?」
「溝呂木のおじさんのポケットから盗んだこのマッチを擦って、食べかけで置いてあった、でも私だけ食べさせてもらえなかったピザの箱に火をつけた」
 びっくりして心中を見たけど、その目は澄んでいて、嘘をついているようには見えない。
「あのときはおかしくなってて、今度お兄ちゃんに変なことされそうになったら、火をつけようって決めてた。でも実際につけたら、すごい煙が出てゲホゲホが止まらなくなって、信じられないくらい苦しくて、火を消そうとしたけど消せなくて……。私のせいでこのマンションが燃えて、みんな死んじゃうかもしれないってものすごく怖くなった。それでゲホゲホしながら溝呂木のおじさんを呼びに行ったの。おじさん、消火器で火を消してくれて、そのおかげで他のお部屋が燃えずに済んで、誰も死ななくて済んで、本当にありがたかった。めちゃくちゃ怖くて、絶対にやっちゃいけないことだったんだって、ものすごく反省した」
「えっ、ちょっと待って。なに、それ、本当? 誰も見てなかったの? 心中が火をつけたとこ?」
「お兄ちゃんは見てた。それをみんなに話したけど、私が溝呂木のおじさんを呼びに行ったからか、誰もお兄ちゃんの言うこと信じなかった。ママ以外は」
「お母さんは、どうしたの?」
「ママは、まるで化け物でも見るみたいな目で、私を見てた」
 そう話す心中の顔は寂しそうなのに、どこかホッとしているようにも見えた。
「それまでママの言いなりで、一度も逆らわなかった私が、まさか火をつけるなんて考えもしなかったんだろうね。怒り狂うかと思ったけど、すごく怖がってた、私のこと。一緒にいたらまた火をつけて焼き殺されるかもって、ママはそれが怖くて、私をパパのところへ行かせたんだと思う。だからね……」
 そこで言葉を切って、心中は手の中のマッチ箱をじっと見つめた。
「……これはお守りなの。やったことはめちゃくちゃだったし、すごく反省してるけど、このマッチが勇気をくれて、私をあの地獄から救い出してくれた」
 心中は無言でそのマッチ箱を差し出す。
「え?」
「これ、下に着くまで、あざみちゃんが持ってて。もう無理だって思っても、きっとこのマッチ箱が力をくれるから」
 手渡されたマッチ箱はあたたかくて、心中の想いがぎゅっと詰まっている気がした。
「心中……、でも本当に大丈夫なの、その右手?」
「前にママにぐいって引っ張られたときもこんな感じになったけど、病院行かずに治ったから平気。よかったよ、右手で。左手だったら、左肩をあざみちゃんに貸せなかったもん」
 微笑む心中の顔がにじんでぼやけ、慌てて上を向く。
 握りしめたマッチ箱がぼわんと熱を持ち、本当にこのピンチを助けてくれるかもしれないと、特別な力を感じた。


【溝呂木ただよし

 ああ、もしもし! 一一九番?
 えっと、いえ、消防じゃないです。救急車を!
 今、部屋へ行ったら、知り合いが倒れてて。
 女性です。三十代の。
 ああ、住所はえっと、桜が丘二丁目のプチシャトー市毛です。坂の上のマンションで、そこの三〇一です。
 とにかく早く来てください!
 なんか、息してないみたいで。
 はい、意識ないです。
 呼んでも、返事なくて。
 へ? AE……? AEDってなんでしたっけ?
 ああ、心臓にショック与えるやつ?
 ええっと、どうだろう? ちょっと見た覚えないんで、このマンションにあるかどうか……。
 あ、ここのオーナーに訊いてみましょうか?
 心臓マッサージ? いや、やったことないんで、やり方が……。
 ああ、教えてもらえるんですか?
 え、でも、僕にできますかね?
 はい? 携帯をスピーカーホンに?
 それって、どうやってやるんでしたっけ?
 ああ、はい、じゃあ、耳んとこ挟んでこのまま。
 状況ってなんですか?
 どんなふうに倒れてるか?
 えっと、えっと、部屋に仰向けに倒れてます。
 状況わかんないけど、殴られたのか、いや、どっかにぶつけたのかな? 頭から血が……。
 はい、血です。
 あ、言ってなかったでしたっけ?
 血が出てます。
 え? 止血? タオルとか当てて?
 でも、ここ、僕んちじゃないんで、タオルがどこにあるか……。
 そんなことより、早く来てくださいよ!
 ああ、もう救急車こっちに向かってるんですね。
 すみません、取り乱して。
 わかりました。タオルみたいの、探して、頭に当てます。
 えっ、通報者って、僕の名前?  いるんですか?
 ああ、はい。溝呂木です。同じマンションに住んでる。
 ねぇ、あとどのくらいで着きますか?
 タオルは、今、探してますけど。
 ああ、名前? もちろんわかります。
 ご近所さんなんで。
 被害者の名前は、根尾さゆりさんです。

 

(つづく)