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【溝呂木忠芳】

 妻が忘れ物を取りに戻ったのかとうっかり開けたドアの向こうに、太った女が満面の笑みで立っていた。慌てて閉めようとしたドアの隙間にその巨体からは想像もつかない機敏な動きで、靴の先を突っ込んでくる。
「ちょっとぉ、困りますよ、こういうの。あなた、マスコミの人でしょ?」
「すいませーん。フリーライターの山田と言います。少しだけお話聞かせていただけませんか?」
「僕、もう取材受けてるから、勘弁してくださいよ」
「ああ、テレビで見ました。溝呂木さんがインタビューを受けてらっしゃるの」
「レポーターっていうの? ああいう人たちに外で囲まれて、あんまりしつこいから仕方なくちょっと喋ったら、テレビで全国に流れちゃって、まいったよ」
「いやぁ、カッコよく映ってましたよ」
「またまたぁ、そんなおだてたってダメだよ。今、妻が体調崩して休んでるから、こういうの困るの。とにかく帰って」
「またまたぁ。奥様なら、たった今お出かけになったじゃないですか」
「な、なによ、見てたの?」
「はい。奥様、お戻りになられたんですね。別居されてるってうかがってましたが」
「それ、誰が言ったの? 確かに妻はこの半年くらい家を空けてたけど、実家に帰ってただけだよ」
「そうだったんですね。失礼しました。ちなみに私、奥様と同じ七月生まれです」
「えっ、なによ、妻とも喋ったの? 取材に応じたってこと?」
「はい。でも今日はお急ぎのようだったので、後日改めてお願いすることに」
「それ、あなたが強引に頼んだだけでしょ。妻は取材なんて受けないはずだよ」
「でも、ご主人様のことでなにかお話ししたいことがあるみたいでしたよ」
「僕のことで? え、なに、それ? 妻はなんて言ってたの?」
「先に取材させていただいてもよろしいですか?」
「いや、だから取材って言っても、テレビで話したことがすべてだよ。三〇一号室を訪ねたら、根尾さんが倒れてて」
「びっくりされたでしょうねぇ」
「そりゃ驚いたよ。ドアを開けたら倒れてたんで、慌てて救急車呼んだんだから」
「そのドアって、玄関のドアですか?」
「はい?」
「根尾さおりさんが倒れていたのは息子の本気君の部屋と伺ってますが、玄関のドアを開けたら見えたんですか? 倒れているさおりさんが?」
「え……? あ、いや、すぐには見えなかったけど、玄関で声をかけても出てこないから、心配になってちょっと上がって、見つけたって感じ?」
「根尾さんのお宅は、いつも鍵をかけていらっしゃらなかった、とか?」
「は? いや、そんなことはないんじゃない?」
「でも、部屋にはさおりさんしかいなくて、倒れていたわけですから、玄関のドアが施錠されていたら、溝呂木さんは中に入れませんよね?」
「ああ、刑事さんにも訊かれたけど、あのときは鍵かかってなかったから」
「溝呂木さんは、どういったご用事で根尾さんのお宅を訪ねたんですか?」
「ご用事? いや、とくには……。よく頼まれごとをしてたんで、ほらあの家、ご主人がいないからさ、あの日もなにかあるかなって寄ったんじゃなかったかな。もっと早く行けてれば、助けられたかもしれないと思うと、残念で……」
「あの日もいつものように根尾さおりさんと密会の約束をされていたんですか?」
「み、密会? ちょっと失礼じゃない。僕とさおりさんをどんな関係だと思ってるわけ?」
「不倫関係ですよね?」
「やめてよ、誰になにを聞いたか知らないけど、僕ら、そんな関係じゃな……」
「私、根尾心中さんと親しくさせてもらってまして」
「えっ、心中ちゃんと?」
「溝呂木のおじさんが来る日はどんなに寒くても、部屋から追い出されてたって」
「そ、それは……」
「あ、失礼。そのことを記事にするつもりはありません。きちんと事実確認をしたいだけなんで。溝呂木さんはさおりさんと密会の約束をしていたから三〇一号室へ行った。玄関チャイムを鳴らしても反応がなく、施錠されていなかったドアを開けて中へ入ったところ、本気君の部屋でさおりさんがあおむけに倒れていた、と」
「勘弁してよ。なんなの、あなた」
「ただのフリーライターです」
「このこと、妻に言ったりしないよね?」
「私が知りたいことは他にあるので、それに答えてくれさえすれば。テレビのインタビューで、発見した時点でさおりさんに意識はなく、一一九番に電話し、指示を受けて止血のためのタオルを探して頭に当てたと答えてらっしゃいましたが、間違いありません?」
「タオルは頭のそばに置いただけだけど。出血がひどくなりそうで、怖くて頭に触れなかったから」
「出血はこめかみのあたりからじゃなかったんですか?」
「ああ、確かに右のこめかみのあたりからも血が出てたけど、頭の後ろが血だまりみたいになっちゃってて、持ち上げるの怖くて」
「傷が二カ所あったってことですね。後頭部と右側頭部に」
「後ろは見てないけど、血が出てたからたぶん」
「もうひとつお訊きしたいんですけど、根尾さおりさんはなにかアクセサリーを身につけていませんでしたか?」
「えっ!? アクセサリー……って?」
「たとえば、ネックレスとか」
「……どうだったかな。いや、つけてなかったと思うけど」
「本当ですか?」
「たぶん」
「おかしいですね」
「おかしいって、なにが? 警察でもネックレスのことなんて訊かれなかったけど」
「ええ、警察は知らないはずですから」
「……は? 警察が知らないことを、あなたが知ってるの?」
「はい」
「ん? ん? どうして、山田さんが?」
「私ではなく、本気君が見たと証言しているからです。あの日、根尾さおりさんは鳩の血のように紅いピジョンブラッドルビーのネックレスをしていた、と」
「り、本気君? あなた、なんで彼から……? もしかして、匿ってるの?」
「いいえ。そのピジョンブラッドルビーは溝呂木さんからプレゼントされたものだとさおりさんは言っていたそうなんですが、それは合ってますか?」
「そ、それはそうだけど、そんなことより、本気君だよ。彼はさおりさんを殺して、逃げてるんでしょ。匿ってるんじゃないなら、どうしてあなたと……?」
「本気君から電話がありまして」
「彼は今、どこにいるの?」
「わかりません。最初は東京へ行くと言ってましたが、まだこの辺りにいるようです。会って話そうとって呼びかけているんですけど、応じてくれなくて」
「それ、警察には?」
「警察には、これから行こうと思ってます」
「僕と話すより先にそっちやらなきゃダメじゃない。彼は逃亡中の殺人犯なんだから」
「私、本気君を助けたいんです。できる限りのことはすると約束したので」
「いや、そんなこと言ってる場合じゃ」
「大丈夫です。希望の光が見えてきましたから」
「希望の光?」
「本気君は自分に抱き着いてきたさおりさんを振り払おうとして突き飛ばしてしまったと認めています。そのとき、彼女が机の角に右側頭部をぶつけ、出血したことも」
「ほら、やっぱりあの子が母親を殺したんだ」
「でも、本気君の証言では、彼がつけた傷はひとつだけ。後頭部の傷についてはなにも言っていなかった」
「頭の後ろの血だまりも側頭部からの出血だったのかも」
「いえ、ついさっきここに来る前、知り合いの記者に確認したのですが、根尾さおりさんの死因は鈍器のようなもので後頭部を殴打されたことによる脳挫創のようです。本気君は鈍器で殴りつけるようなことはしていません」
「え……? でも、それ、パニックになって記憶が飛んでるのかも」
「そういう可能性もなくはないですけど……、ちなみに溝呂木さん」
「は、はい」
「二階のご自宅から三〇一号室へ行く間、誰とも会いませんでしたか?」
「え、ええ、誰とも。あっ! もしかして、本気君と僕の間に、三〇一号室へ行った人間がいて、その誰かがさおりさんを殺害した、ってこと?」
「わかりません。その可能性もあるというだけですから。あ、それから、奥様と喋ったというのは嘘です。ごめんなさい」
「は?」
「いつもはそんなことしないんですが、今回はどうしても本気君を助けたかったので。ご容赦ください」
 ぺこりと頭を下げた女はここへ来たときと同様に満面の笑みを浮かべていたが、その裏に底知れない気味の悪さを感じ、背筋が粟立った。

 

(つづく)