【市毛野ばら】
わたくしには、桜子の他にもうひとり娘がおります。
桜子の妹で、名前は……皆様はすでにお調べかと存じますが、あの子のプライバシーを守るため、ここではA子とさせてください。
桜子が五歳、A子が三歳のとき、あの子たちの父親が重い病を患って他界し、頼れる親兄弟のいないわたくしは、幼いふたりの娘を抱え、途方に暮れました。
夫が亡くなる前、わたくしは主婦として家族の世話をしながら、趣味で絵を描いており、ある展覧会に出展した作品を、今は亡き、かの岩下ちふゆ先生が高く評価してくださって。
それがご縁で東京にある先生のご自宅に何度もお招きいただき、もったいなくも直接ご指導を仰いでおりました。
夫が急逝し、それを知ったちふゆ先生は、わたくしに東京へ出てきて絵をお描きなさいと、住むところがなければ自分の家に住めばいいとまで言ってくださり、身に余るお言葉に心は激しく揺れました。
ですが、絵で食べていける保証など、どこにもございません。
亡き夫に託されたふたりの娘にひもじい思いをさせてはならない。
それが一番大事なことだと自分に言い聞かせ、東京へ出て画家になるという夢を泣く泣くあきらめました。それから、わたくしは地元で中学の美術教師という職に就き、ふたりの娘を育ててきたのです。
桜子とA子は、姉妹なのに性格がまるで異なっておりました。
妹のA子は天真爛漫で、誰からも愛される娘でしたが、姉の桜子は子供のころから大人びていて常に人の顔色を盗み見ているようなところがありました。
小学校に上がると、桜子は多忙なわたくしを気遣って、ごはんをつくってくれることもあり、妹の面倒もよく見てくれていましたので、学校やご近所では、いいお姉ちゃんだと思われていたことでしょう。
恥ずかしながらわたくしも、A子の様子がおかしくなるまで、桜子は外面がよく、取り繕うのが上手いということに、気づけていませんでした。
わたくしの目の届かないところで、桜子はごはんの食べ方が汚いと言って小学三年生のA子を叱り、食事をこぼすと床に落ちたものでも無理やり口に突っ込んで食べさせ、牛乳をこぼしたときなど、這いつくばって床を舐めろと命じたこともあったとか。
他にも、言いつけを守らなかったことを理由にA子を何時間も立たせたり、おねしょをしてしまったA子を、寒い中、裸で外に放り出すなど、信じられない話を聞かされて驚きました。
なぜそんなことをしたのか問い詰めると、桜子は桜子で、A子が平気でひどい嘘をつくので困っていると訴え、どうすればいいかわからないと泣かれてしまって。
それからはより注意深くふたりの様子を見守っておりましたが、嘘をついていたのは、やはり桜子のほうでした。
早めに帰宅できたある日、桜子がA子を叱りつける声が家の外まで響き渡っていて、それはA子が訴えていたとおり、聞くに堪えないひどい言葉でした。
わたくしは桜子を叱りましたが、責めることはできなかった。
小学生の桜子が妹に嫉妬し、いじわるをするのは、母であるわたくしの愛情がA子に偏っていると感じているからに違いない。桜子もA子も、わたくしの愛情や関心をより多く得ようと必死なのだ、と胸が痛みました。
今は問題がある桜子も、愛で満たされれば、きっと変わってくれる。人様に迷惑をかけない人間に育ってほしい。その一心で、わたくしは睡眠時間を削って娘たちと向き合い、ふたりの娘にそれまで以上に愛情をそそぐよう努めたのです。
その甲斐あってか、桜子が陰湿ないじめをすることはなくなり、A子にも笑顔が戻ってホッとしたのですが……。
一度ぎくしゃくしてしまった関係をもとに戻すのはたやすいことではなかったようで、思春期になるとまた姉妹の仲がこじれてしまいました。A子の日記には毎日のように、姉にどんなひどいことを言われ、されたか、『死ねばいいのに』という強い憎悪の言葉とともに書き記されるようになって……。
わたくしが再婚を決意したのは、そんな娘たちのために環境を変えたいという気持ちが強くあったからでございます。
二番目の夫は、岩下ちふゆ先生が所有していたわたくしの絵を気に入って買い取り、画家、市毛野ばらのパトロンになりたいと、わたくしの前に現れた人でした。
最初はからかわれているのかと思いましたが、彼は大真面目に美術教師を辞めて、画家として絵を描くべきですと説き、芸術への造詣が深い彼に、わたくしも次第に惹かれていって……。
資産家の彼はわたくしよりも一回り以上年上でしたので、自分にもしものことがあっても、わたくしと娘たちが困らないようにと、マンションを建ててくれました。
それが、プチシャトー市毛です。
狭いアパートから最上階の部屋へ移り、生活に余裕ができたからか、桜子がA子につらく当たるようなこともなくなっていきました。
なにか打ち込めるものが見つかれば、さらに落ち着くだろうと、絵に興味を持っていた桜子に美大受験を勧めたのですが、自分は家事手伝いが性に合ってると、高校卒業後は働きもせずに家でぶらぶらしているだけで。
一方、高校を卒業したA子は、わたくしの勧めに従い、地元の有名私大に進みました。
それから程なくして夫は亡くなってしまったのですが、A子の大学は彼の母校で、合格をとても喜んでくれましたから、少しでも孝行できたのではないかと。
けれど、そんなA子も大学を卒業することは叶いませんでした。
在学中に、子宝を授かったからです。
結婚前の娘の妊娠は世間様に顔向けできないなどと考える方もいらっしゃいますが、わたくしは飛び上がらんばかりに喜びました。
A子が立派な男の子を産んでくれて、かわいい初孫をこの手に抱いたときは、天にも昇る心地でしたわ。
我が家の宝である彼を、わたくしは柊吾と名付けました。
柊吾の世話をしながら、愛らしい姿を何枚も何枚も描き、幸せを噛みしめておりました。柊吾は身体の内側から光を放っているような特別美しい赤ん坊で、あの子の神々しさを描くのは至難の業でしたが、それもまた自慢の種でございました。
そんな幸せに満ちた日々がいつまでも続いていくものと信じておりましたのに……。
【市毛あざみ】
質問を差し挟まれまいとしてか、早口でまくし立てるように喋っていた野ばらさんが、ぴたっと口を閉ざした。
待っていたかのように矢継ぎ早に質問が飛んできたが、野ばらさんは電池が切れた人形のように動かない。
結局、なにが言いたかったんだろう。今、野ばらさんが話した桜子は、私の知ってるお母さんとは別の人みたいで少しも重ならない。
でも、のんちゃんのことがあって、お母さんのこともよくわからなくなってる。
野ばらさんが、私でも知ってるくらい有名な岩下ちふゆに絵を習っていたことにもびっくりだ。
ずっと昔、お母さんから聞いた野ばらさんの先生は別の人だったから。野ばらさんはふたりの画家さんに絵を教わっていたってこと? だとしても、お母さんはなんで岩下ちふゆの話をしてくれなかったんだろう?
リョウ君のお母さんが野ばらさんに駆け寄り、終わりにしましょうと促すと、会場から不満の声が上がった。
「まだ、時間あるじゃないですか」
「ちゃんと質問に答えてくださいよ」
「今の話はなんだったんです? 柊吾君はどうなったんですか?」
もう終わりにしてほしかったのに、柊吾の名前に反応し、顔を上げた野ばらさんは、個展会場の後方の一角を指で差す。
「柊吾なら、あそこに」
みんな、驚いて一斉に野ばらさんの指先を目で追う。
でもそこに柊吾と思われる人影はなく、赤ちゃんの絵が何枚か展示されているだけだった。
みんなの視線が赤ちゃんの絵に向く中、私の目はその少し先の空間に吸い寄せられた。等間隔に絵が並べられた個展会場で、そこだけぽっかりと不自然な空間ができている。かかっていた絵を外したみたいな。
赤ちゃんの絵を見ていた人たちが、口々に反応する。
「えっ、それってつまり、柊吾君は赤ん坊のときに亡くなったってことですか?」
「死因はなんだったんです?」
「桜子さんとどういう関係が?」
質問が渦巻く中、野ばらさんの身体がぐらりと揺れた。
駆け寄ろうとしたお姉ちゃんの腕をつかんで慌てて止める。そのとき、舞台袖の奥、後ろ向きに立てかけられた大きなキャンバスが視界に入った。
倒れそうになった野ばらさんをリョウ君のお母さんが抱きとめ、呼びかける。
両手で胸を押さえながらも、野ばらさんが大丈夫よとうなずき、気丈に立ち上がると、すぐさま質問が飛んできた。
「ご体調が優れない中すみませんが、A子さんのお子さんは亡くなられたんでしょうか?」
恐る恐る尋ねた女性に、野ばらさんは悲痛な表情でうなずく。
「なにが原因だったんですか?」
喉の奥から声を絞り出し、医者に乳幼児突然死症候群の疑いがあると言われたと、野ばらさんは明かす。
「なぜ今、そのお話を?」
その問いかけに、野ばらさんは一瞬我に返ったような顔になり、「あなたがたのせいだわ」とつぶやく。「墓場まで持って行くつもりだったのに」
「それはどういうことですか? やはり、桜子さんが関わっていたんですね?」
「わかりません。でも……」
野ばらさんは床に視線を落とす。
「あの日、プチシャトー市毛の四〇一号室で柊吾の世話をしていたのは、母親のゆーちゃ……いえ、A子でも彼女の夫でも、わたくしでもなく、桜子でした。桜子が自ら買って出て、あの子のそばにいたんです。医者を呼んできたのも、桜子だったわ。A子やわたくしが悲しみに暮れ、呆然としている間に、桜子が連れてきたんです!」
興奮してまくし立てる野ばらさんに驚き、お姉ちゃんと顔を見合わせる。
野ばらさんは、お母さんが柊吾って子を殺したと思ってるの? どうして? それに、だとしても、なんでここで、マスコミの人の前でそんな話をするの?
「桜子さんを疑う理由が、なにかおありなんでしょうか?」
訊いてほしかった疑問を誰かが投げかけ、野ばらさんは「ええ」とうなずく。
「わたくし、見たんです。みんなが柊吾の死に打ちひしがれている中、ただひとり、片頬を不自然に歪めていた桜子の顔を。笑ったのだと気づくのに、時間がかかりました。あまりにもその場にそぐわない表情だったからです。ゾッと背筋が凍ったのに、わたくしは見間違いだと思おうとした。だって、桜子もわたくしの大切な娘だから」
唖然とした。そんなことで殺したと決めつけられるなんて、いくらなんでもお母さんがかわいそうだ。
心の声が聞こえたみたいに、「他にもあるわ」と、野ばらさんが声を上げる。「桜子が柊吾を殺したいと思う理由が」
それはなにかと尋ねる声が、会場のあちこちから上がった。
でも野ばらさんは答えず、洞穴のような目をなにも展示されていない、ぽっかりと空いた空間に向ける。
「あそこに展示されていた絵が、わたくしの最後の作品です」
お姉ちゃんが「えっ?」と驚きの声を上げ、会場もざわつき始める。
「絵筆を折るということですか?」
「展示してあった作品をなぜ外したんです?」
「なにが描かれていたんですか? ぜひその絵を見せてください!」
「素晴らしい作品ばかりなのに、どうして絵を描くことをやめてしまうのか聞かせてください」
震えるような小さな声で、野ばらさんは答えた。
「ひいらいでしまうから」
ひいらぐ? この個展のタイトルが、『ひいらぐ野ばら』展だった。
「『ひいらぐ』は、ひりひりと疼くように痛むという意味です。柊吾を喪ってから、わたくしの心はずっとひいらいだまま。もちろん絵を描くときも。それでも描くことはやめられなかった。だけど……今回の事件の後、ここにあった絵を描いたときは、いつもと違った。キャンバスの前からわたくしが消え、ひいらぐ心が絵筆を持って、血を流しながら作品を描いているような、壮絶な痛みを味わったの」
閃くものがあり、ついさっき一瞬視界をよぎったキャンバスに駆けよる。
ゆっくりと表をこちらへ向けると、背後で「あっ!」と、お姉ちゃんが叫んだ。
「これよ!」
声を抑えながらも興奮した様子で近づいてきて、絵を覗き込む。
「これがあざみに見せたかった絵。私が野ばらさんのアトリエで見た絵とは違うけど、同じ人物が描かれてる」
奇妙な絵だった。話を聞いてなければ、野ばらさんの昨品か疑ってしまったと思う。タッチがひどく粗いし、なにより野ばらさんの絵の魅力である生き生きとした人物がそこには描かれていない。いや、五人の人物が描かれているけれど、誰かが野ばらさんの画風を真似て描いたできのわるいコピーみたいだ。
五人のうち三人は、知ってる。真ん中に野ばらさん、両端にお母さんとお父さん。みんな、今よりずいぶんと若い。逮捕されたお母さんが描かれているから、展示から外したのだろうか。
そして、野ばらさんの隣に、赤ちゃんを抱いた華奢な女性。
「わかった?」と、お姉ちゃんが顔を覗き込んでくる。
赤ちゃんは柊吾だと野ばらさんが言ってたから、彼を抱いている女性がお母さんの妹のA子で、お姉ちゃんが見せたかったのも、この人に違いない。
でも、見覚えがな……い?
あれ、この人の顔、どこかで見たことがあるような気がする。どこでだろう? たぶん、つい最近も……。
像を結びかけ、誰かの顔が立ち上がってきそうだったのに、あるものに邪魔をされ、心が乱されてしまう。
それは、そこに描かれたお母さんの表情だ。
プチシャトー市毛の四〇一号室。窓をバックに並んだ五人の一番右端に立つお母さんは、隣にいるA子の胸に抱かれた赤ちゃんを見つめている。
粗いタッチで描かれていても、片頬を歪めているのがわかる。さっき野ばらさんが言ったように、お母さんは柊吾にねっとりとした視線を向け、不気味な表情で笑っているのだ。
ひとりごとのように、野ばらさんが、柊吾につけた植物の柊も、「ひいらぐ」が語源だそうだと語っている。
「柊は、ギザギザした鋭い葉を持っていて、触れると痛いでしょう。でもだからこそ、魔を除けるとされていて、花言葉は『家庭の幸せ』だったのに」
「それを桜子さんが壊してしまったとお考えなんですね?」
最前列の男性に問いかけられ、野ばらさんは今にも泣き出しそうな顔でうなずく。
「さっきの話の続きを、聞かせてもらえませんか?」
「続きって、なんのことかしら?」
「桜子さんが柊吾君を殺したいと思う理由が、他にもあるとおっしゃいましたよね」
「ああ、それは……桜子はゆーちゃんから大切なものを奪おうとしたの」
「妹さんから、大切な息子を奪おうとした? 桜子さんは、なぜそんなことを?」
「ゆーちゃんに大切なものを奪われたと思ったからじゃないかしら。母親のわたくしや、恋人を」
「恋人?」
「ええ、ゆーちゃんが結婚したのは、桜子が結婚を認めてもらうために我が家へ連れてきた恋人だったから」
ざわついていた会場が、一瞬静まり返った。
(つづく)