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【根尾本気】
「お帰り、本気ぅ! ねぇねぇ、見て、ママのネックレス! これ、ピジョンブラッドルビーって言うんだってぇ。鳩の血みたいに濃い赤だから……」
「ベタベタ抱き着いてくんじゃねぇよ! 俺がイラついてんの、見てわかんねぇのかよ?」
「えーっ、嘘、全然わかんなかったぁ。本気、なんでイラついてんの? なにかあったのぉ?」
「だから、ベタベタ触んなって言ってんだろ! おい、今すぐ市毛のばーちゃんとこ行って、俺のスマホ、取り返してこい!」
「えーっ? どうして本気のスマホ、野ばらさんが持ってるのよぉ?」
「ばーちゃんは関係ねぇけど、市毛茉莉花に盗まれたんだよ」
「嘘ぉ、茉莉花ちゃん、ひどくなぁい? なんでそんなことするのかなぁ」
「ヤバい写真、削除しようと思ったんだろ。バカだよな、スマホの写真消したって、意味ねぇのに。いいな、今すぐ行ってこいよ。あれ……俺の部屋、入った?」
「あー……えっと、それはねぇ」
「勝手に入んなっていつも言ってんだろ! えっ……俺のパソコン、どこだよ? おい、なに黙ってんだよ。どこにやったって、訊いてんだろうが!」
「怒らないでよ、本気ぅ。今日ね、ちょっとだけ野ばらさんたちが来てぇ」
「は? なんで? えっ、まさか、おまえ、あいつらを俺の部屋に入れたんじゃねぇだろうな?」
「あたしもダメって言ったんだよ。本気に怒られちゃうから、困るんですぅって。でも、どうしてもって言われてぇ、ほら、野ばらさんにはすごくお世話になってるから、断りきれなくてぇ……」
「ざけんなよ! 俺のパソコン、持ってかせたのか?」
「だって、しょうがないじゃない。ここに住めるの、野ばらさんのおかげだしぃ。悪いことしたのは、本気のほうなんだからぁ」
「はぁ? 俺がなにしたって言うんだよ? 写真撮っただけだろうが!」
「でもぉ、本気だってイヤでしょ? ママが溝呂木さんとかに裸の写真撮られちゃってぇ、その写真があの人のパソコンの中に残ってたりしたらぁ」
「バカか! どーでもいいわ、そんなクソしょーもねぇこと! っていうか、茉莉花の写真とてめぇのキモいぼよんぼよん写真、一緒にしてんじゃねぇよ!」
「キモくないもん! ぼよんぼよんって、なに? 本気、ひどぉい!」
「前々から思ってたけどな、おまえ、クソキモいんだよ! おい、今すぐ、俺のパソコン、ババアから取り返してこいって!」
「無理だってばぁ。写真はきっともう消されちゃってるしぃ」
「はぁ? あの写真削除されたら、茉莉花を奴隷にできな……ああ、クソ! もしそうなってたら、俺なにするかわかんねぇかんな。ババアにそんな知識あるわけねぇから、今すぐ行って、取ってこ……おい、たちって誰だ?」
「えっ?」
「さっき、野ばらさんたちって言っただろ? たちって誰だよ?」
「あ、うん、野ばらさんとぉ、茉莉花ちゃんのお父さん?」
「なんでロリコンオヤジが一緒に来てんだよ?」
「なんかねぇ、倒産させちゃったの、IT系の会社だったみたいでぇ……」
「なっ、そんなやつにパソコン渡したのか? おまえ、どう落とし前つけんだよ! まだ間に合うかもしれねぇから、とにかく取り返してこい!」
「えーっ、そんなの無理だよぉ。あ、そうだ、新しいパソコン買ってあげるから。ほら、溝呂木さんに最新式の一番高いやつ買わせちゃうしぃ……」
「おまえ、頭わいてんのか? 俺がほしいのは、茉莉花の親父が持ってったパソコンなんだよ。なにグズグズしてんだよ。早く行けって!」
「痛ぁい! やめてよ、本気、蹴らないで!」
「蹴られたくなかったら、今すぐ行けって、おら!」
「痛いってばぁ。そんな怒っちゃ嫌だよ本気ぅ」
「俺をブチ切れさせたのは、てめぇだろうが!」
「ママのかわいい本気はそんな悪い子じゃないでしょぉ? 落ち着いて。ほら、ギュってしてあげるから」
「てめぇ、クソキモいって言ってんだろ! 俺に抱き着くんじゃねぇ! 離せ、ババア! 離せ、離せって!」
「ひっ!」
「……おい、どうしたんだよ? ちょっとぶつけただけだろうが。なに寝てんだよ? とっとと行けよ! おら! おらっ!」
「うっ……頭、痛い……」
「足しか蹴ってねぇだろ。起きろって。なんで動かねぇんだよ。おまえが抱き着いてくんのが悪いんだろ。ふざけてないで起きろって! えっ、血……? 嘘だろ、やめてくれよ。おいって、起きてよ、ママ! 起きてくれよ……。俺……どうすればいいんだよ」


【市毛あざみ】
 遠くでチャイムが鳴ってる。
 またあの人が来たんだ。さっきの……フリーライターの人。
 ドアを叩いて、また叫んでる。
 あざみちゃん、開けて! って。
 ん? でも、これ、あの人の声じゃない。この声は……。
 あれ? どうして、私、リビングの床で寝てるんだろう? 受話器を握りしめたまま……。
「あざみちゃん、大丈夫? 私、心中!」
 心中?
 少し前の記憶がぼんやりとよみがえってくる。
 そうだ、さっきここで心中と電話で話してた。それで、心中の質問で、私……。
「しっかりして、あざみちゃん! 聞こえる? 今、救急車、呼んでくる!」
「ま、待って!」
 這いずるようにして玄関に向かい、靴箱に手をついて、なんとか鍵とドアを開ける。
 階段へ行きかけていた心中が、それに気づいて戻ってきてくれた。
「あざみちゃん! よかった、無事で。電話の途中で苦しそうな声出して、いくら呼びかけても、返事してくれなくなっちゃったから」
「ごめん、それで来てくれたんだ?」
「大丈夫って言ってたけど、怪我がひどくて倒れたのかもと思って」
 心配そうに顔をのぞき込んでくる心中は、あのときみたいにガリガリじゃない。
 高価なものではないかもしれないけど、こざっぱりとした服を着て、髪や爪も清潔に整えられている。
 寒さでガサガサだった頬は、走ってきたからか上気してつるんと赤く健康的で、こんなにかわいい顔をしてたんだなと、改めて思う。
「あざみ……ちゃん?」
「あ……ごめん、上がって」
「えっ、いいの? 心配でつい来ちゃったけど、大丈夫なら、休んだほうがよくない? あざみちゃん、ひどい顔してる」
「……なら、部屋まで肩貸して」
 一瞬驚いた表情を見せた心中が、「あ、うん、いいよ」と、小さく微笑む。
「足、やっぱりそんなに悪いんだね」
「やっぱりって?」
「あざみちゃん、そういうの、我慢して嘘つきそうって思ってたから」
 驚いて顔を見たけど、心中はすぐさま、包帯の巻かれた左足側にまわって私の身体を支え、これでいい? と目で尋ねてきた。そのまま心中の肩に左手を載せて少しだけ体重を預け、けんけんで廊下を進む。低学年にしか見えない彼女の身体は頼りないけれど、懸命に支えようとしてくれているのが伝わってくる。
「やっぱり広いね、あざみちゃんち。何度も来させてもらったけど、あざみちゃんのお部屋は行ったことなかったな」
「あ、今日は手作りのおやつ、なにもない」
「えっ? いいよ、そんなの。ちゃんと食べてるし、今は。それより、けんけんでしか歩けないって、全然大丈夫じゃないよね。どこで怪我したの?」
「そこ」
「え? ああ、ここがあざみちゃんのお部屋? この鍵、なんで外側に……?」
「ドア開けて」
「うん。えっ……、ここって?」
「物置部屋。狭くて汚いけど……、のんちゃんの部屋でもあった」
「のんちゃんの?」
「うん」
「やっぱり、本当にいたんだ、のんちゃん」
 心中の瞳が潤み、何とも言えない複雑な表情を浮かべた。
「イマジナリーフレンドとか言い出すから、びっくりしたよ。この子、私が思ってたよりずっと病んでるなって」
「あのころのこと、つらすぎてよく覚えてないの。思い出そうとすると、灰色で塗られていく感じで。でもね、この家のリビングであざみちゃんにおやつもらったり、のんちゃんと話して笑ったりした記憶にはちゃんと色がついてる。きらきらした明るい色が」
「……ごめん、病んでるとか言って」
「ううん、病んでたし。完全におかしくならなかったのは、ここでの時間があったから。でもね、あったかくて幸せで夢みたいで、とても現実のこととは思えなくて……。だから、イマジナリーフレンドの話を保健の先生から聞いたとき、きっとそうだ、そうに違いないって思っちゃったんだよね」
 今ならわかる気がする、この子の気持ちが。
「あざみちゃん」
 私の身体を支えてくれていた心中が、至近距離からまっすぐ顔を覗き込んでくる。
「聞かせてほしい、のんちゃんの話」
 うなずこうとして、ふらついてしまった。
「ああ、ごめん、やっぱりベッドで休んだほうがいいよね? あざみちゃんのお部屋、どこ?」
「ううん、ここでいい。押し入れに座布団入ってるから、出してくれる? 椅子のほうがよければ、そこのランボルギーニ、心中なら座れるかも。のんちゃんもよく椅子代わりにしてた」
「のんちゃんが?」
 心中は愛おしそうに指でその子供が乗れるラジコンカーを撫でた。
「あ、でも、座布団使わせてもらうね。わー、押し入れの中にも、おもちゃいっぱいある。あ、恐竜のレゴだ。このプラレール、昔、お兄ちゃんがほしがってたやつ。座布団はここだね。はい、これあざみちゃんが座る用と壁に寄っかかる用」
 心中は畳の上のものをどかして座布団を敷き、また身体を支え、座らせてくれた。
「ありがと。いいね、楽かも」
「しんどくなったら、あざみちゃんはお部屋のベッドで休んでね」
 小さくうなずき、「のんちゃんのことだけど……」と言いかけ、戸惑う。
「……なにから話せばいいんだろう」
「のんちゃん、自分のこと、誰にも見えてない透明人間だって言ってた」
「うん。ここへ越してくる少し前から、そうなって」
「東京に住んでたときは違ったの?」
「前に心中、ダイニングキッチンの椅子の話をしてたでしょ。自分の家はママとお兄ちゃんの椅子しかないけど、四人家族のこの家は人数分の椅子がちゃんとあるって。でも、うちものんちゃんの椅子だけなかった。ここに越してくる前に住んでた家にはあったのに」
「のんちゃんは、あざみちゃんの……?」
「……妹」と答えるまでに間が空いたのは、うしろめたさのせいだ。
「妹だけど、あざみちゃんのお母さんの本当の子供じゃない、とか?」
「そんなことないはず。お母さん、のんちゃんを家で産んだってお姉ちゃんが言ってたから」
「病院じゃなく、家で? ああ、えっと、お産婆さんだっけ? とか呼んで?」
「ううん、お父さんがお湯とかわかして全部やったみたい。私はのんちゃんと二つ違いだからそのときの記憶ないけど、お姉ちゃんはお母さんが死んじゃうんじゃないかと思って怖かったって言ってた。生まれるまですごく苦しそうだったし、赤ちゃんが生まれた直後、お母さん、叫んで気を失っちゃったんだって。意識は戻ったけど、そのあともずっと泣いてたらしくて」
「それって、テレビでやってた赤ちゃんを産んだあと、うつになっちゃうやつかな?」
「でも、お姉ちゃんと私が部屋に呼ばれたときはいつものお母さんに戻ってて、そこで言われたんだって。のんちゃんが生まれたことは誰にも言っちゃダメって」
「えっ、どうして?」
「わからないけど、のんちゃんは生まれたときから、いないことにされてたのかも。私やお姉ちゃんみたいに幼稚園にも小学校にも行ってないし、近所の公園で遊んだこともない。家族でどこかへ行くときも、のんちゃんひとりだけ留守番だった」
 心中が大きく目を見開く。
「じゃあ、外へ出たことがないの? 私でさえ、小学校には行かせてもらえてたのに。でも、それダメなんじゃない? 小学校は義務教育ってやつでしょ?」
「のんちゃんがうちにいたこと、本当に誰も知らないんだと思う。お母さん、お腹大きかったとき、全然外出なくなって、買い物とかも全部お父さんがしてたらしいから」
「本当に、最初から、いないことにされてたってこと?」
「うん。でも前の家では、お母さん、のんちゃんにもごはんつくってたし、お風呂入れたり、世話してたんだよ」
「あざみちゃんちのお母さんは、うちのママとは違ってすごくいいお母さんだもんね」
「いつもおいしいごはんをつくってくれて、家のことも学校のことも完璧にやってくれて、友達から自慢のママだねって言われてた。それなのに、ある日突然、お母さんの目には、のんちゃんが見えなくなった」
「どうして、そうなったの? きっかけがあるはずだよね?」
「わからない。私も最初は、のんちゃんがなにか悪いことして、それで罰としてごはん抜きなのかと思ってた。のんちゃんの椅子がなくなったのも、引っ越しの準備で先に新しい家に運んだのかなって」
「あざみちゃんたちがここへ越してきたのって?」
「四年前。私が六歳のとき、お父さんの会社が倒産して、前のとこに住めなくなって、三か月くらいでここへ来た」
「会社の倒産はお母さんにとってもストレスだったはずだから、そのはけ口みたいなのに、のんちゃんがなっちゃったのかな?」
 考え込んでいた心中が、「お父さんは?」と身を乗り出してくる。
「お父さんは、のんちゃんを守ってくれなかったの?」

 

(つづく)