【市毛あざみ】
のんちゃんが入院している総合病院に、どうにかたどり着いた。
正面の入口はすでに閉ざされていて、夜間入口と書かれた奥のドアから灯りが漏れている。また心中に肩を借り、そこからこっそり入ろうとしたのだけれど、窓口の眼鏡をかけたおばさんに見つかって、呼び止められてしまう。
「あなたたち、お見舞いかしら? 病室へは、この用紙に記入してからじゃないと、入れませんよ」
眼鏡のおばさんが事務的な口調で差し出した用紙を前に、私も心中も固まってしまう。
病院のお見舞いなんてはじめてで、なんて書けばいいのかわからない。
のんちゃんの病室の部屋番号も知らないし、知っていたとしても、たぶんそれは書いちゃダメなやつだ。
「どうしたの? 部屋番号がわからないの? 誰のお見舞い? 入院してる方のお名前は?」
立て続けの質問に怯んで、なにひとつ答えられずに突っ立っている私たちを見て、眼鏡のおばさんの表情が険しくなる。
「誰のお見舞いに来たかも言えないって、どういうこと? こんな時間に子供だけで、お父さんかお母さんは? あら、あなた、その足、どうしたの? お見舞いに来たんじゃなくて、あなたが患者さんじゃないの?」
「ち、違います。これは……」
眼鏡のおばさんが手招きし、奥にいた警備員のおじさんが走ってくる。
このままでは追い出されてしまう。焦って心中と顔を見合わせたとき、廊下に大きな影がかかった。驚いて夜間入口を振り返ると、自動ドアが開き、ものすごく太った知らないおばさんがどすどすと入ってきた。
「遅くなって、ごめーん! ふたりとも、お待たせ!」
親しげに手を振りながら、ニコニコ駆け寄ってきたけど、やっぱり知らないおばさんだ。
「あ、すみません。もしかして、うちの子たちがご迷惑おかけしちゃいました?」
そう言って眼鏡のおばさんにも愛想よく笑いかけ、「お母様ですか?」と訊かれて笑顔でうなずく。
その人はすぐさま、そこにあった入館票にすらすらと書き込み、用紙と引き換えに受け取った時間の書かれたシールみたいなものを、私と心中の服にもペタペタと貼り付けた。
「では、失礼しまーす。あんたたち、お父さんのお見舞い、行くよ」
お父さん? と首を傾げながら、心中に支えてもらって恐る恐るついていく。
角を曲がって窓口からの目が届かなくなった瞬間、そのおばさんは「間に合ってよかったー」と座り込み、ずた袋みたいなバッグから取り出したバスタオルで風呂上がりのように顔の汗を拭う。
「えっと、あの、誰?」
この声どこかで聞いた気が……と思いながら心中に訊くと、「フリーライターの山田さん」と紹介された。
「山田さんって、えっ? さっき、うちに来た?」
立ち上がれないのか、廊下に膝をついたまま山田さんは、ペコッと頭を下げる。
「あざみちゃん、はじめまして。山田です。ごめんね、ピンポンいっぱい鳴らしちゃって」
居留守はバレバレだったらしい。
「あの、お姉ちゃんと会った人ですよね?」
「うん。茉莉花ちゃん、なにか言ってた?」
言われたことをそのまま伝えることなどできるわけもなく困っていると、「あっ!」と山田さんが声を上げた。
「足の怪我、思った以上にひどいじゃない。えっ、嘘、あのマンション、エレベーターないのに、その足で四階から階段下りて来たの?」
「あ、はい。心中が支えてくれたから」
「信じらんない! あんたたち、ホントすごいよ!」
むくっと立ち上がった山田さんは大きく腕を広げ、私と心中に抱きついてこようとした。でも、直前でため息をついて手を下ろす。
「感動のハグがしたかったけど、私、今汗だくだったわ。今度改めてハグさせてね。そのままタクシーで来たんなら、水分摂らなきゃ。はい、これ」
ずた袋から取り出した一リットル入りの紙パックのコーヒー牛乳を突きつけられ、戸惑っていると、すぐに、五百ミリリットルの水のペットボトルを二本手渡された。
「よかったら、メロンパンもあるよ」
「あ……、大丈夫です」
「ホントごめんね、私が部屋まで迎えに行けてれば、あざみちゃんをおんぶして下りてこられたのに。直前で別件の電話があって、そっちも緊急っぽかったもんだから」
「あの、どうしてそこまで? 心中とはどういう関係なんですか?」
「山田さん、うちに取材に来てくれて」と、心中が答える。「のんちゃんの意識が戻ったって教えてくれたのも、山田さんなの。そのときはのんちゃんじゃなくて、側溝のプリンセス・ドゥだったけど」
「うん、で、さっき心中ちゃんから電話もらって、プリンセス・ドゥはのんちゃんだって聞いて、それなら行かなきゃって、ね」
見つめ合うふたりを見て、心中が山田さんを信用しているのが伝わってきたけど、彼女はマスコミの人間だ。
「ん? どうしたの、あざみちゃん?」
「山田さんが親切にしてくれるのは、のんちゃんのことを記事にするためですよね?」
「できればね。でも、それだけじゃない」
「どういうこと?」
「あざみちゃん、その話、あとでにしない? のんちゃんのことが心配だから、足に怪我してるのに無理して病院まで来たんでしょ? なら、急ごう」
「そうだけど、のんちゃんがどこにいるのか……」
「わかるよ、部屋番号」
「えっ?」
「この病院を取材したとき仲良くなった看護師さんから訊きだしたから」
驚く私と心中を「こっち」と手招きし、山田さんはずた袋をかついで人気のない廊下を歩き出す。心中の目が「大丈夫だよ」と訴えていた。
三人で乗り込んだエレベーターのドアが閉まると同時に、山田さんは心中に訊く。
「本気君が行きそうなとこ、どこか知らない?」
「えっ、お兄ちゃんの?」
「よく行くお店とか、仲のいい友達の家とか」
「全然わかんないです。買い物はネットでしてたし、友達とかいないと思う。なんでですか?」
それに答えず、山田さんは質問を重ねる。
「心中ちゃん、今日、プチシャトー市毛のほうのおうちに行った?」
「ううん。四〇一のあざみちゃん家だけしか」
「そっか」
「なにかあったんですか?」
「いや、全然わかんないんだけど、嫌な予感がして。それで迎えに行けなくて」
山田さんと心中の会話を聞きながら、ふいにさっき見たお父さんの姿が目の前に浮かんだ。三階の廊下を走ってきたお父さんの驚いて青ざめた顔が……。
「山田さん、別件の電話って、お兄ちゃんから?」
「うーん、そうなんだよね。気になるから、のんちゃんの無事を確認したら、そのあとでプチシャトー市毛につきあってくれる? もしかしたら、なにかあったかもしれなくて。本気君の電話、途中で切れちゃったから、本当にわかんないんだけど」
「お兄ちゃんのスマホにかけ直してもつながらないってことですか?」
「いや、公衆電話からかけてきてて、こっちから連絡のしようがないんだ。待ち合わせ場所に来なかったから、駅の近くの公衆電話がある場所、片っ端から回ったけど、どこにもいなくて。とりあえず、待ち合わせした場所にありったけの小銭と千円札置いてきた。本気君が気づいてくれてるといいんだけど……」
「すみません、お兄ちゃんが迷惑かけて」
頭を下げる心中が今、どんな気持ちでいるのかわからない。でも、のんちゃんの無事が確認できたら、一緒に三〇一号室へ行こう。
「あ、着いた。ここ七階の廊下を左にまっすぐ進んで一番奥の部屋」
エレベーターを降り、心中に肩を借りて進む。すぐにナースステーションがあって、ぎょっとして足を止めてしまった。
「大丈夫だよ。お見舞いに行く許可は取ってるんだから、自然に歩いて」
「え? 山田さん、のんちゃんの部屋番号を書いたんですか?」
小声で問い質すと、「まさか」と答えが返って来た。
「書いたのは、前に来たときに覚えておいた知らないおじさんの名前と部屋番号」
なんの計画もなくここへ来てしまった自分は本当にバカな子供だ。山田さんがいなかったら、のんちゃんの病室にたどり着けず途方に暮れていただろう。
「看護師さんから訊いたところでは、のんちゃんは意識をとり戻したけど、お話はまだできてないみたい」
山田さんのささやきに、不安が大きくなる。のんちゃんは大丈夫だろうか。早く会って、あの日のことを謝りたい。どんなに寒くて、どんなに怖かったか。
「昼は警察の人が来てたって聞いてる。今は病室の前には誰もいないね。中にもいないといいんだけど」
暗い廊下の先、一番奥の部屋が近づくにつれて、心臓のドキドキが激しくなる。
思わず、リュックから取り出したくまのぬいぐるみを胸に抱いた。
「それは?」
不思議そうな顔の山田さんに、答える。
「しゅうぽん。のんちゃんが大切にしてた子」
「そっか。しゅうぽん見たら、のんちゃん、喜ぶね」
そう言ってから、唇の前に人差し指を立て、山田さんは一番奥の病室の前に立った。
ドアに耳を寄せ、聞き耳を立てている。
「話し声は聞こえない。行くよ」
ドアに手をかけ、山田さんは私たちを振り返る。小さくうなずくと、彼女は静かに引き戸を開けた。
灯りの点いていない暗い部屋に私たちを招き入れ、山田さんはすぐに後ろ手で引き戸を閉める。
向かいにある窓のカーテンの隙間から、銀色の月明かりが細く射しこみ、ひとつだけ置かれたベッドのフットボードをぼんやりと照らしている。
右手奥の暗がりから聞こえてくる規則正しい寝息に、涙が出そうになる。
のんちゃんは、生きている。
生きていてくれた。
思わずベッドに一歩近づき、違和感を覚える。
のんちゃんの息が乱れた?
いや、違う。息が重なった?
止めていた息を、誰かが吐き出したみたいに……。
闇に慣れてきた目が、のんちゃんの枕もとに立つ影をとらえる。
「誰……?」
反射的に尋ねてしまったけど、侵入したのは私たちのほうで、看護師さんかも?
いや、そんなはずはない。看護師さんが電灯をつけずに病室でなにかするなんてありえないし、万が一看護師さんなら、こちらが注意されているはずだ。
「もしかして、お母さん?」
影がはじめてビクッと反応した。
そうでないことを祈って呼びかけたのに……。
「なにしてるの、ここで?」
影はなにも答えない。
身じろぎもせず、枕もとに立っている。
背後でごそごそと山田さんが壁を探る気配がし、パチンと弾けるような音とともに、灯りが点った。
明るくなった病室の中、一台だけ置かれたベッドの上で、のんちゃんが寝息を立てている。すこやかな寝息に聞こえたけれど、管につながれてつらいのか、のんちゃんの頬には涙のあとがあった。
いや、のんちゃんが泣いているのはそのせいじゃないかもしれない。
ベッドの向こう側、のんちゃんの枕もとに立っていたのは、やっぱりお母さんだった。
そして、その手には、タオルが握られている。
ずしりと重そうな濡れタオルが――。
「お母さん、それ……」
私の言葉に弾かれたように、お母さんが顔を上げる。
その人は間違いなく私のお母さんだけど、今まで一度も見たことのない顔をしていた。
そして、私が指差したタオルに視線を落とし、自分がそれを持っていたことにはじめて気づいたような狼狽を見せる。
「本当に……本当に、それでのんちゃんを殺すつもりだったの?」
私がさらに一歩近づくと、お母さんは叫び声を上げた。
耳を塞ぎたくなるような不快な声で叫びながら、手にしていたタオルを足もとに投げつける。
床に叩きつけられたタオルは、鈍くて嫌な音を立てた。
それに気を取られていた一瞬の隙に、お母さんは窓に駆け寄り、鍵を開ける。
あっと思ったときにはもう、開け放った窓から身を乗り出していた。
ここは七階だ。
けんけんで走り寄る私より早く、心中がお母さんの腰に飛びついてくれたけど、その小さな身体まで一緒に落ちていきそうになり、私もふたりにすがりつく。
勢いで身体を持っていかれ、ふわっと全身が浮いた瞬間、耳を疑うような山田さんの叫び声が背後で響いた。
(つづく)