【根尾心中】
絶望的って、こういうときに使う言葉だ。
四階から階段を見下ろし、そう思った。
このマンションにはエレベーターがない。
私がどんなに必死に支えたって、この階段をけんけんで一階まで下りられるわけがない。外廊下をここまで来る間に、あざみちゃんは二回もよろけて転びそうになったんだから。
「あざみちゃん、やっぱりやめよう。もし転んで落ちたら大怪我しちゃう……」
最後まで聞かずに、あざみちゃんは階段の手すりへと左手を伸ばす。苦しそうに肩で息をしながら。
「ねぇ、待って。あざみちゃんだってわかってるでしょ。そんな身体じゃ無理だって」
「……でも、行かなきゃ」
右手で私の左肩をつかんで、あざみちゃんは小さく跳んだ。
右足がひとつ下の段に着地するまでの一瞬、心臓が止まりそうになった。
一階にたどり着くまで、あと何回これを繰り返すの?
泣きそうな顔であざみちゃんを見ると、左肩をぎゅっと強くつかまれた。仕方なく一段下りると、あざみちゃんはすぐにまた小さく跳ぶ。もう片方の手で手すりをつかんでいるとはいえ、けんけんで階段を下りるあざみちゃんの姿は危なっかしくて、ハラハラする。
私がこんなにちびで痩せっぽちじゃなければ、ひとつ違いのあざみちゃんと同じくらい背が高かったら、もっとしっかり身体を支えてあげられたのに……。
休みなくぴょん、ぴょんっと跳び続けるあざみちゃんが今にも階段を踏み外してしまいそうで、ものすごく怖い。
なのに、止められないのは、汗を流しながら一歩一歩歯を食いしばって進んでいくあざみちゃんの顔が怖いくらい真剣で、どんなことをしてでも行くって気持ちが伝わってくるからだ。
あざみちゃんのお母さんがのんちゃんを殺そうとしているなんて、とても信じられない。
でも、あざみちゃんはのんちゃんが危ないって思ってるから、具合が悪いのにこんな無茶なことをしているんだろう。
だったら、私も手伝わなくちゃ。私だって、のんちゃんを助けたい。
あざみちゃんのお母さんがそんなことをするとは思えないだけで、子供を殺そうとする母親がいるってことが、信じられないわけじゃない。
どうにか三階までたどり着き、ホーッと長い息を吐いた。
少し休んでほしかったのに、あざみちゃんは額の汗をトレーナーの袖で拭っただけで、すぐにまた階段を下り始める。一段跳び下りるたびに、背中のミニリュックも小さく跳ねた。
三階の踊り場から三段下りたところで、私の肩をつかんでいたあざみちゃんの右手がビクッと震えた。驚いて顔を見ると、直後に聞こえてきたのは、バタンとドアが閉まる音だった。
すぐにバタバタと走ってくる靴音が響いて、口から心臓が飛び出しそうになる。
三階ってことは、うちのママかお兄ちゃん……? ママだったら、慕っている野ばらさんに知らせに行くかもしれない。
「野ばらさんにバレたら、連れ戻されちゃう」
同じことを考えたのか、引き攣った顔でつぶやくあざみちゃんをどこかに隠したいけど、そんな場所はどこにもない。仕方なく一段上がって近付いてくる足音に向かい両手を広げ、かばうようにあざみちゃんの前に立った。
三階の廊下から走り出てきた人と目が合う。
それは……ママでもお兄ちゃんでもなく、あざみちゃんのお父さんだった。
いつも穏やかなお父さんの目が大きく見開かれ、私と私の後ろを交互に見た。ちびで痩せっぽちの私の身体じゃ、やっぱりあざみちゃんを隠しきれない。
「お父さん……?」
後ろにいるあざみちゃんの口からも驚きの声が漏れた。でも、あざみちゃんのお父さんはなにも言わない。びっくりした顔でこっちを見下ろしたまま、魔法をかけられたみたいにフリーズしている。
左足を怪我しているあざみちゃんがこんなところにいることに、きっとものすごく驚いたんだろう。
これで、よかったのかもしれない。
お父さんに止められたら、あざみちゃんが階段から落ちることも、大怪我することもなくなる。
なにか言おうと口を開きかけたあざみちゃんより早く、「あの……」と呼びかけていた。
「あざみちゃんのお父さん、えっと、あの……」
言うことが決まってないのに口が勝手に動いてしまう。
「えっと、その、あざみちゃんを……あざみちゃんを見逃してください!」
あざみちゃんがびっくりした顔で私を見て、お父さんも魔法がとけたみたいにハッとこちらに顔を向けた。でも、誰よりも驚いていたのは、私自身だ。
どうしてそんなこと言っちゃったんだろう。
考える暇もなく、あざみちゃんはさっきよりもずっと強い力で私の肩をつかみ、次の段に跳んだ。慌てて二段下りると、あざみちゃんはまたすぐに次へ跳ぶ。
私がついていくのがやっとなくらい、あざみちゃんは右足だけで懸命に急いで跳び続ける。
あざみちゃんは、お父さんを振り切って逃げようとしている。
そんなことできるわけないのに――。
前しか見ていないあざみちゃんの目は必死だけれど、口の端が少しだけ上を向き、ちょっと笑ってるみたいに見えた。
【山田百合花】
「もしもし? 本気君、今どこ? 私、駅の裏の駐輪場に着いてるよ。待ち合わせ、ここで合ってるよね? よかったよ、電話くれて。時間過ぎても来ないからなにかあったのかと思った」
「……俺、やっぱ、行けない」
「はぁ? なに、どうしたのよ? お金必要なんでしょ?」
「金は欲しいけど……」
「だったら、会って話そうよ。どこにいるの? 私の車、この間見たから知ってるよね? 駐輪場の前に停まってる桜色の軽の中にいるから、顔見せてよ」
「……無理」
「どうしたの? 東京行くのやめたわけ?」
「それは行くけど」
「お金もスマホもなくて、どうやって?」
「チャリで」
「飲まず食わずで?」
「……最悪、万引きしてパンとか食うし」
「知ってた? 万引きして手に入れた食べ物って、味がしないよ」
「は? なにそれ、人によるだろ。……もしかして、体験談? えっ、そんなに金に困ってんの?」
「今じゃなくて、本気君くらいのときの話だよ」
「中学のときからあんなにデ……じゃなくて、どっしりしてたんだ」
「気を遣ってくれてありがとう。あのころは今より四十キロくらい痩せてたかな。いや、ごめん、サバ読んだ。本当は五十キロくらいだわ」
「いや、どっちでもいいし」
「はは、だよね。ねぇ、本気君、もっと話したいから、とにかく来てよ。場所教えてくれたら、私が行ってもいい。公衆電話だといつ切れるか気が気じゃないからさ」
「でも、金貸してくんないんだろ?」
「さっき言ったじゃん。お金は貸さないけど、情報なら買うって」
「あんたが言ってた情報は……売れねぇ」
「君がどうして東京へ行こうとしているか?」
「……」
「じゃあ、他の話でもいい。とにかく会って話そう。スマホなくて誰の連絡先もわからないのに、私の名刺だけポケットに入ってたなんて運命感じちゃわない? 特別なご縁でしょうが、絶対」
「……」
「なんで黙ってんの? 小銭もったいないよ。『わかった』って言って来てくれればいいだけじゃん。近くにいるんでしょ?」
「……」
「ねぇ、呼び出しておいて、無視はひどくない? 私、大事な約束すっぽかしてここに来てるんだけど。すっぽかされたほうは困ってるかもしれないから、本気君が来てくれないなら、私、そっちに行っちゃうけどいい?」
「……行けよ」
「本気君……泣いてる?」
「泣いてねぇし」
「そんな声で言われても。ねぇ、本当になにがあったの? 側溝のプリンセス・ドゥの意識が戻ったって聞いたら、本気君は喜ぶと思ってた。あの掲示板で君を犯人と決めつけて好き勝手書いてたヤツらに言ってやりたいことあるでしょうが」
「いっぱいあった。でも……もう遅ぇよ」
「どういうこと?」
「だから、もう遅いって言ってんだろ!」
「決めつけんな、根尾本気! なにがあったか知らないけど、もう遅いなんてことは絶対にないよ。君はまだ中学二年生なんだから」
「……」
「さっきは意地の悪いこと言っちゃったけど、君はまだ子供だから、大人を頼っていいんだ」
「助けて……くれんの?」
「できる限りのことはする」
「……」
「本気、なにがあった?」
「俺……、俺、ママを……」
(つづく)