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 中学生の息子が一緒に住んでるんですけど、こんな時間なのに、部屋にいなくて。
 あ、タオル、洗面所のやつ、見つけました。清潔かどうかわからないけど、血が出てるとこに当てていいですか?
 あ、でも、これ、頭は動かさないほうがいいですよね? 持ち上げたりしないほうが。なんか余計血が出ちゃったりしたら怖いし。
 ちょっと触るの無理かもしれない。タオル、頭のすぐ近くに置いたんで……。
 え? ビデオ通話? こっちの映像を送ることができるんですか?
 どうやって? 送られたURLを開く?
 それ、どうすれば開くんです? いや、もうそういうの、全然わかんなくて。
 ねぇ、いいから、とにかく早く来てくださいよ!


【根尾心中】

 あざみちゃんはすごい。
 けんけんで階段を下りるあざみちゃんの顔は死人みたいに真っ青で、どうしてあんなこと言っちゃったんだろうってすぐに後悔した。でも、あざみちゃんは諦めず、気力だけで跳び続け、ついに今、目の前に一階のロビーが……。
 嬉しくて腰を支えていた手にぎゅっと力が入ってしまったからか、あざみちゃんがピタッと足を止めた。
「……あんた、なんで、泣いて、るの?」
 ゼーゼー息をしながら途切れ途切れに尋ねるあざみちゃんに、「だって……」と、涙を拭って答える。
「まさか本当に一階まで来られるなんて。あざみちゃんのものすごい頑張りに感動しちゃって」
「あのさ……、一階が、ゴールじゃ、ないからね。ここからが、大変、なんだから」
 あざみちゃんの言葉にハッとした。浮かれてしまったけど、そのとおりだ。
 階段ではあざみちゃんのお父さん以外の人に会わずに済んで助かった。でも、エントランスから門までは、もっと人目につきやすくなる。
 もしも一〇一号室の野ばらさんがドアを開けたら、遮るものがないから、間違いなく見つかってしまう。気持ちを引き締めなきゃ。
「心中、スマホ持ってないんだよね?」
「え? うん。まだ買ってもらえてなくて」
「私、なんてバカなんだろう。のんちゃんを逃がしてからスマホ取り上げられてたのに、タクシー呼ばずに下りてきちゃった」
「あ、それなら大丈夫だよ。人が来ないうちに急いでエントランス抜けて、門の外へ出よう」
 あざみちゃんにまた肩を貸し、門へと急ぎ足で歩く。
「大丈夫ってどういうこと?」
「さっき電話借りたでしょ。車で迎えに来てもらえないかってお願いした」
「お父さんに?」
「ううん、違う」
「えっ、じゃあ、誰……に?」
 答えようと口を開きかけたとき、背後でドアが開く音がした。
 ビクッと足を止め、恐る恐る振り返る。開きかけているのは一〇一号室……野ばらさんの部屋のドアだ。
「早く!」
 あざみちゃんが鋭い声を上げ、肩をつかんですぐそこに見えているマンション前の坂道へと促す。門まであと少しと、懸命に急ぐ私たちの背中に届いた声は、なぜかひどくおっとりしていた。
「あら、あなたたち、久しぶりねぇ」
 反射的に振り返ると、一〇一号室のドアを開け、微笑んでいたのは古河内のおばあちゃんだった。野ばらさんじゃなくてホッとしたけど……。
「あらあらぁ、あざみちゃん、その足、どうしたの? 怪我したのかい?」
 その言葉が終わらないうちに、おばあちゃんを突き飛ばしそうな勢いで中から制服姿の茉莉花ちゃんが飛び出してきた。
 顔を引きつらせるあざみちゃんを今度は私が引っ張り、必死に足を動かして急いで門の外へ出た。
「心中、迎えの車、どこ?」
「どうしよう、まだ来てないみたい」
「待ちなさい、あざみ! どこへ行く気?」
 茉莉花ちゃんが走ってくる。けんけんしかできないあざみちゃんは逃げられず、このままではすぐに捕まってしまう。
 またしても、絶望的って言葉が頭をよぎる。
 でも、次の瞬間、奇跡が起こった。
 走って来たタクシーが、目の前で停まったのだ。
 開いたドアから降りてきた人を見て、思わず声を上げそうになった。
 溝呂木さんの奥さんだったからだ。ママが不倫している溝呂木さんの。
 何か月も前に出て行ったって聞いてたけど、帰ってきたの?
 ママはよく溝呂木さんちからバッグや指輪なんかをもらってきてて、それって奥さんのものじゃないの? って気になってた。前に同じ高そうなバッグを奥さんが持ってるところを見たことがあったから。
 その溝呂木さんの奥さんが、軽く頭を下げ、横を通り過ぎていく。
 ママや私のことを知っているのかどうかわからないけど、今はそんなこと考えている場合じゃない。
 タクシーに駆け寄って、「乗ります!」と窓を叩き、開けてもらったドアからあざみちゃんを乗せる。すぐに反対側に回って、あざみちゃんの隣に乗り込んだところで、走ってきた茉莉花ちゃんが、バン! とあざみちゃん側の窓を叩いた。
「降りろ、あざみ! まさか、病院へ行く気? 絶対に許さないから!」
 窓をバンバン叩きながら髪を振り乱して叫ぶ茉莉花ちゃんはとても恐ろしくて、私は震え上がってしまったけど、あざみちゃんはまっすぐ前だけを見て、のんちゃんが入院している病院の名前を運転手さんに告げた。
「出してください。早く!」
 車が走り出してからも、茉莉花ちゃんはなにか叫びながら追いかけてきた。
 祈る思いで手を合わせ、ようやく茉莉花ちゃんが諦めて足を止めたのを見て、全身からほーっと力が抜けていく。
「……よかった」
 あざみちゃんも、隣でぐったりと目を閉じている。
 そうだよね。私の何万倍も疲れたはずだよね。
 病院に着くまで少しでも休んでほしい。
 それにしても、臆病な自分に、まさかこんなことができたなんて。
 でも、それはあざみちゃんがいてくれたからだ。
 小さな身体でも階段から落ちそうになったあざみちゃんを助けることができた。この半月でそれだけの力がついていて、少しでも役に立てて、本当に嬉しい。
 あれ? あの運転手さんの横にある機械、なんだろう? どんどん数字が上がっていってる。最後が円ってことは、お金?
 えっ、嘘、タクシーってこんなにお金かかるの?
 お父さんにもらったお小遣いがお財布に入ってる。でもすぐに追い越しちゃいそうな勢いで、数字が上がってく。
 寝ているあざみちゃんを起こしたくはなかったけど心配でたまらず、運転手さんに聞こえないよう耳に顔を寄せ、小声で呼びかけた。
「あざみちゃん、お金持ってる?」
 目をつぶっていただけだったのか、すぐに「うん」とそっけない返事が戻ってきた。
 ああ、きっとあざみちゃんはこれまでにもタクシーに乗ったことがあって、料金が高いことも知っているんだろう。
 ホッと息を吐く私に、あざみちゃんがボソッとつぶやく。
「これ、効くね」
「えっ、きくって、なにが?」
 あざみちゃんはポケットから取り出したものを私の膝の上に置く。
 それは、溝呂木のおじさんから盗んだ、お守りのマッチ箱だ。
「サンキュ。大事なものなのに」
 照れくさそうに顔をそむけ、車窓に目を遣るあざみちゃんの背中に、さっき言われたことを言い返す。
「ここがゴールじゃないでしょ」
 そして、あざみちゃんの手にもう一度マッチ箱を載せようとしたのに……。
「それはわかってるけど、心中のお守りなんだから、心中が持ってなよ。今だってそれ、左手で載せようとしたじゃん。右利きなのに」
 あざみちゃんはぶらんと下げたままの私の右手を心配して、お守りを返そうとしているんだ。
「本当に大丈夫だよ。痛くないし」
「でも……。ねぇ、さっきなんでお父さんに、あざみちゃんを見逃してなんて言ったの? それまで階段下りるの無理だって、やめたがってたのに」
「自分でもよくわからないけど、頑張るあざみちゃん見てたら、これはやらなきゃいけないことだって気がしてきて……。もちろん、のんちゃんになにもないほうがいいんだけど」
 言いながら、もう一度あざみちゃんの手にマッチ箱を載せ、握らせる。
「大事なものだから、あざみちゃんが持ってて。のんちゃんの無事が確認できるまでは」
 あざみちゃんは一瞬、泣き出す前の子供みたいな顔をこちらに向けた。でもすぐにまた車窓へと目を戻してしまう。
 窓の外はすごいスピードできらきらした夜の景色が流れていく。
 それを見つめるあざみちゃんの手には、しっかりとマッチ箱が握りしめられていた。

 

(つづく)