俺さまを突き飛ばした罰として、おまえの妹のあざみも奴隷決定な。
ちょっ、スマホ返せって! どこ行くんだよ?
おい、市毛、逃げんな!
そんなことしたって逃げられねぇって、まだわかんねぇの? どんだけ頭悪いんだよ。
待てって、とにかくスマホ返せよ。
それ、持ってっても意味ねぇって言ってんだろ!
こんなことしてただで済むと思うなよ。
どんなにあがいたって、おまえは、一生、俺の、奴隷だからな、市毛茉莉花!
【市毛あざみ】
ダメ! 行っちゃダメ!
自分の叫び声で目が覚めた。
また、あの夢。
あれから、同じ悪夢を繰り返し見てる。
あの日をやり直したいって願ってるのに、夢の中でも結末は変わらない。変えられない。
正しいと思ってしたことでも、最悪の結果になったら、それは正しくなかったってこと? どうすればよかったんだろう。どうすれば……。
玄関のチャイムが鳴ってる。
誰……だろう?
何度も何度も鳴らされるチャイムの音が、悲鳴みたいで怖い。
「市毛あざみちゃん、いるんでしょ?」
えっ、私を訪ねてきたの?
家にいるのを知ってるってことは、小学校の先生?
でも、声が違う。チャイムを鳴らしながら叫んでるのは知らない女の人だ。
「私、山田って言います。ちょっとだけ出てきてもらえないかな」
その名前を聞いた瞬間、目を吊り上げたお姉ちゃんの顔が浮かんだ。
「あざみ、山田って太ったおばさんが訪ねてきても、絶対にドアを開けるんじゃないわよ。そいつ、うちのこと探ってるフリーライターで、あんたが余計なこと言ったら、うちの家族、全員終わりだからね!」
しつこくチャイムを鳴らし、玄関のドアを叩いているのは、たぶんその山田って人だろう。
「市毛あざみちゃん、聞こえてるよね?」
ビクッと身体が震えた。
「怪我をしたって聞いたけど、大丈夫?」
そんなことまで、お姉ちゃんはこの人に話したの?
「なにか困ってることない? もし私にできることがあれば言って」
なんでそんなこと言うの? 取材に来たんでしょ?
ああ、そうか。これも作戦なんだ。親切なふりをして油断させ、情報を引き出そうとしてるんだ、きっと。
いくら呼ばれても、出ていくことなんてできない。
左足はまだずきずき痛むし、そのせいか熱が出て、ずっとベッドから起き上がれずにいるんだから。
話しかけ続ける山田って人の声を耳を塞いでやりすごす。
しばらくしてやっと諦めたのか、「あざみちゃん、また来るから、お大事にしてね」と言い残し、山田って人は帰っていった。
ホーッと吐く息と一緒に、緊張していた身体から力が抜けていく。
途端に、足のずきずきがひどくなった気がした。呼びかけに気を取られて痛みを感じにくくなっていたのかも。
枕もとの痛み止めをペットボトルの水で喉に流し込み、すぐにそれを後悔する。
痛みや熱の苦しさから自分だけ逃れようとするなんて、最低だ。
会ったこともないフリーライターに、困ったことがないか訊かれた。
困ってる。困ったことしかない。
私にできることがあれば言って、とも。
助けてって言いたい。助けてもらえるなら、なんだって話す。追いかけて、なにもかも全部ぶちまけられたら……。
お姉ちゃんが言うように、うちの家族全員終わりになるなら、そのほうがいいのかもしれない。
でも、追いかけられない。左足がまともに動かない。
そんな気持ちが届いたのかってタイミングで、家の電話が鳴った。
きっと山田って人だ。そんな気がする。
ベッドから下りて、壁や家具に手を着きながら、けんけんでリビングへ向かう。右足で跳んでいるのに左足にも痛みが走る。歯を食いしばってなんとか進んだ。
熱のせいかふらふらして途中で倒れそうになったけど、どうにか持ちこたえて廊下へ出る。でも、すごく時間がかかって、途中で留守番電話に切り替わってしまう。
電話、切られちゃうかも。
焦ってるのに、アナウンスのあと聞こえてきた声に驚いて、足が止まった。
「もしもし? これ、あざみちゃんちの……えっと、市毛さんのおうちの電話で合ってますか?」
さっきの山田って人の声じゃない。もっと幼い、でもよく知ってる懐かしい声だ。
電話に出たい。出なきゃ。
「番号教えてもらったんだけど、かけるの初めてで。この時間なら、おうちにいるの、あざみちゃんだけだと思ってかけました。でも留守番電話ってことは、きっともう塾か習い事に行っちゃったんですよね。ちょっと訊きたいことがあったんですけど、またかけま……」
待って! 切らないで!
「あ、あれ? やだ、私、名前言ってなかった。あの、私……」
受話器をつかむと同時に叫んだ。
「心中でしょ? 根尾心中!」
「えっ、あざみちゃん?」
「本当に、心中? うちでオレオのマフィンとか食べてた、あの?」
「うん、そうだよ。寒くて死にそうなとき、あざみちゃんにホットミルク飲ませてもらった心中。三〇一号室に住んでた心中だよ」
ああ……よかった。この子、無事だったんだ。ホッとして頽れるようにソファに腰を下ろす。
「あざみちゃん、いたんだ?」
「あんたこそ、どこにいたのっ? ボヤ騒ぎのあと、急にいなくなっちゃって、あんたんちのおばさんに訊いても、親戚の家に行って二度と帰らないって言うから、私、もしかしたらって……」
「あざみちゃん? 心配してくれたの?」
「してないよ、心配なんて。私には、する資格……ないから」
「資格? なんで?」
だって……。
「途中で……見捨てたから、あんたのこと」
息を呑む気配が、受話口から伝わってくる。
「あざみちゃん……そんなふうに思ってたの?」
そんなふうに思うもなにも事実だ。階段の隅っこで心中が凍えそうにうずくまっていても、慌てて目を逸らし、逃げるようにその場を離れることしかできなかった。
「私が今も生きてるのは、あざみちゃんのおかげだよ。私のほうこそ、あざみちゃんちにいたの茉莉花ちゃんにバレちゃって、あざみちゃんに迷惑かけたんじゃないかって心配だった」
それは、うちの問題だ。そんなことより……。
「ねぇ、あんた、今、どこにいるの? 本当に親戚の家?」
「急にパパと暮らすことになって。ごめんね、あざみちゃんにお礼も言わずにいなくなっちゃって」
そんなのどうでもいい。あんたが元気でやってるなら。
「パパがひとりで住んでたアパートに来たから狭いんだけどね」
でも、声が明るい。昔と違って元気そうだ。
「ちゃんと食べてる?」
「ガリガリの私見て、パパ、泣きながらいっぱい謝ってくれて、自分のごはんまで私に食べさせようとするから困ってる」
「そう……なんだ」
あたたかいものが心に流れ込み、あの日、ものすごい勢いでマフィンにかぶりついていた痛々しい心中の姿を、押し流していく。
「パパが仕事で遅くなるときは、私がごはんつくることもあって、すごくおいしいって、喜んでくれるの。私、ママと違って、料理得意みたい」
そっか、そこはあんたにとって……。
「……春しかない国、なんだね?」
「えっ、なに? 声小さくて、聞こえなかった」
「ううん、なんでもない。パパの家は遠いの?」
「あざみちゃんのところから、七つ先の駅」
「そう。じゃあ、そんなに遠くない……。あ、ごめん、そっちから電話もらったのに、私ばっかり質問しちゃって」
「あ、ううん。えっとね、ふたつ訊きたいことがあって。あざみちゃん、怪我したって聞いたけど、大丈夫?」
「……どうして、それを?」
「ちょっと聞いて、大丈夫なのか心配になって」
ああ、野ばらさんが心中の母親に話して、それが伝わってってこと?
「左足をちょっと……ね。でも、もう大丈夫だから」
「本当?」
「すぐ治るし、心配いらない。で、もうひとつの訊きたいことって?」
「あ、うん……私、あれから一度もママやお兄ちゃんと連絡取ってなくて、だから、知らなかったの。警察の人とかが話を訊きにくるまで」
警察の人、とか?
「プチシャトー市毛の近くで起きた事件のこと」
左足がまたずきずきと痛みだす。電話までたどり着けたことが不思議なくらいに。
「あざみちゃん?」
「……大丈夫。聞いてる」
「違うよね?」
違うって?
「側溝で見つかった女の子は……のんちゃんじゃ、ないよね?」
水の中に突き落とされたみたいに、突然、息ができなくなった。
(つづく)