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【市毛茉莉花】

 野ばらさん、どうしよう。
 フリーライターの変な女に待ち伏せされて……。
 えっ、嘘! どうして?
 野ばらさんのアトリエでなにしてるの!?
 その絵から離れて!
 それ、野ばらさんの描きかけの絵でしょ?
 ちょっと、逃げる気?
 あ! 野ばらさん、帰ってきてくれてよかった。
 早く玄関のドア閉めて、逃がさないで!
 その人、勝手にアトリエに入り込んで、野ばらさんの絵の前で絵筆を振り上げてた!
 ううん、絵は無事だけど、私が来なかったら……。
 ねぇ、どういうつもり? 野ばらさんが個展のために描いてる大切な絵になにするつもりだったのよ?
 あ……、ちょっと!
 野ばらさん、行かせちゃっていいの?
 えっ、前にも絵をめちゃくちゃにされたことがあったの?
 信じられない。どうしてそんなひどいことができるのよ?
 野ばらさんが夜も寝ないで、魂削って描き上げた作品だって、わかってるはずなのに。
 しかもこれ、家族の絵じゃない。野ばらさんと娘ふたりの。
 野ばらさんが今のお母さんくらいで、お母さんと妹が私とあざみくらいのとき?
 こんなに素敵に描いてもらってるのに、なにが不満なの?
 あの人、怖い……。
 もうなにをするか、なにを考えてるか、全然わからない。
 だから見捨てられないって、どうして? 野ばらさん、優しすぎ。なんでそこまで野ばらさんが背負いこまなきゃいけないの?
 いくら母親だからって。
 私はもう無理。あの人のこと、お母さんだなんて思えないよ、もう。
 ねぇ、野ばらさん、ふたりで逃げよう。
 なにもかも捨てて、ここから。
 オーディション?
 ああ、そうだね。二次審査、もうすぐだね。
 でも、もういい。受かる気がしないし。
 だって、一次審査に通ったのが奇跡だもん。びっくりするほど綺麗でおしゃれな女の子たちがいっぱいいて、CMや雑誌で活躍しているモデルさんたちもいて、レベルが違うって感じだった。
 こんな田舎の学校でファンクラブつくってもらって喜んでたなんて、バカみたい。
 こっそりオーディション受けられたらまだよかったけど、リョウ君がなんでもかんでもペラペラ喋っちゃうからみんな知ってて、落ちたらなに言われるかわかんないし。
 だったら、体調不良で欠席のほうが、格好がつくでしょ。
 茉莉花なら絶対合格するって、それは祖母のひいき目ってやつだよ。
 友だちもみんな、応援してくれてる?
 本当にそうなのかな?
 最近、思うんだよね。
 あのコたちが私のことちやほや持ち上げるのは、もっと高いところから突き落とすためなんじゃないかって。
 自分は特別なんだって勘違いしてた人が、どん底に落ちるほうが、普通の人が落ちるよりおもしろいでしょ。
 そんなこと言うの、らしくない?
 そうだね。
 でも、これが……、本当の私なのかも。
 ああ、ごめんね、野ばらさん、そんな顔しないで。
 今日いろんなことがありすぎて、体調最悪なのに太ったおばさんにあざみのこととか言われたりして、キャパオーバーでおかしくなってるの。
 そうだ、その話をしに来たんだった。
 フリーライターの女の人が帰り道で待ち伏せしてたの。側溝で見つかった女の子について話を聞かせてって。
 私は無視しようと思ったのに、リョウ君がつかまって、そしたら、まためまいで立っていられなくなっちゃって。
 ああ、うん、今は大丈夫。そのときもらった薬が効いたのかも。
 そうだね、知らない人がくれた薬呑むなんて、どうかしてた。
 自分を取り囲む世界がぐるぐる回って、本当に気持ち悪くて、その小さな檻からもう二度と出られない気がして……。
 病院に連れて行かれても、ストレスを溜めないようにって言われるだけだし。
 ストレス溜めたくて溜めてるわけじゃないんだから、どうしようもないじゃない。こんなストレスだらけの環境から逃げ出したいって、誰よりも私が一番思ってるんだから。
 そのフリーライターのおばさんにも、リョウ君がまた余計なことペラペラしゃべって、それもすっごいストレスだった。
 リョウ君のお母さんがおしゃべりなのは知ってるけど、リョウ君もあんなにペラ男だったなんて。サッカー上手だし、ちょっといいなって思ってたけど、今は引いてる。
 リョウ君、この事件を楽しんでて、他の人が知らないことしゃべるとき、得意げに鼻の穴膨らむの、すごく嫌。
 それで、今日、リョウ君とそのおばさんがしゃべってるの聞いてて思った。
『側溝のプリンセス・ドゥ』ってスレッド立ち上げたの、リョウ君じゃないかって。
 その話するとき、鼻の穴めっちゃ膨らんでたし。
 たぶん、あのフリーライターの人もそう思ってたはず。
 だとしたら、最悪だよね。そんなことしたら、このマンションの住人や野ばらさんに迷惑がかかるって思わなかったのかな? 考えが浅すぎるでしょ。
 フリーライターの人も読んだって言ってたから、あれがなければわざわざ東京から来なかったはずだよ。騒ぎが大きくなったら、全部リョウ君のせい。
 うん、東京から来たって。山田って名前の、太ったおばさんで、一見人が好さそうに見えるけど、なにか知ってるみたいににおわせてきて、すごく怖かった。
 さっき車で送ってもらったときも、あざみから話を訊かせてもらえないかって。
 具合が悪いから無理だって追い返したけど、また来るかもしれない。野ばらさんのところにも。
 調べたのか、あざみが小学校を休んでることも知ってた。
 もちろん、わかってる。あざみに会わせたりしないよ。あの子、なにをしゃべるかわからないもの。
 あ、そうだ、その山田って人から聞いたんだけど、側溝で見つかった女の子は、根尾心中じゃないって。心中は今、離婚したお父さんのところにいるんだって。
 えっ、野ばらさん、知ってたの?
 警察に入院中の女の子の写真見せられたって、いつ?
 ……そう。山田って人が言ったこと、本当だったんだね。
 私、ほんのちょっとだけ期待しちゃってた。側溝で見つかった女の子が、根尾心中だったらって。その可能性が低いのはわかってたけど。
 あの子、うちに勝手に上がり込んで、おやつ食べたりしてたから。
 根尾の家ってやばいなって思ってたけど、やばいのはうちも一緒だったね。っていうか、うちのほうがまともに見えてるぶん、もっとやばいかも。
 いつからこんなにおかしくなっちゃったんだろう。
 お父さんの会社がダメになったころからかな?
 でも、あのときは、野ばらさんが私たちをここに呼んでくれて、一番いい部屋に住まわせてくれて、お父さんの借金も肩代わりしてくれたんだよね。
 あのころは幸せだったのに、なんでこんなことに……。
 ねぇ、野ばらさん、さっきの話、冗談だと思ってない?
 ふたりでここから逃げること、本気で考えて。
 野ばらさんはどこで暮らしたい?
 やっぱり、東京かな。
 でも、海外もよくない? パリとかニューヨークとかハリウッドとか。
 そこで、野ばらさんは絵を描くの。野ばらさんの実力なら、外国でもアーティストとして活躍できるよ。
 私?
 私は……、やっぱりお芝居がしたい。
 それが叶うなら、英語ももっとまじめに勉強する。
 夢みたいな話? 違うよ。
 このマンションを売れば、どうにかなるんじゃない?
 他の家族のこと?
 そんなの、知らない。
 だって自業自得だもん。
 あんな人たちいなくても大丈夫だよ。まだ先の話だけど、いつか私が結婚して男の子を産むから。野ばらさんのために。そしたら、市毛の家は安泰……でしょ?
 私たちは逃げなきゃ。被害者なんだから。
 そう言ったら、あざみに言い返された。
「本当の被害者は、誰?」って。
 なに言ってるの?
 誰のせいでこんなことになったと思ってるのよ!
 少なくとも、私は加害者ではない。もちろん、野ばらさんも。
 だから、ここから逃げよう。
 逃げないと、私たちまで巻き込まれてなにもかも失い、ドアに落書きされたり、石を投げられたりすることに……。
 それに、ここにいたら、また大切な絵をめちゃくちゃにされちゃうよ。お母さんに。
 野ばらさんだって、誰にも邪魔されずに個展の絵を描きたいでしょ。
 あ……、そうか、個展が終わるまではここにいなきゃいけないんだね。
 ……それまで、なんとかがんばるから、だから、約束して。
 個展が終わったら、絶対ふたりでここから逃げるって。
 ……野ばらさん、どうしてそんな顔してるの?
 私の味方は、野ばらさんだけなのに。
 えっ、ここにいても、茉莉花を守れるって、どうやって?
 マスコミの取材を受けさせないよう、車で送り迎えする?
 違う、違う。野ばらさん、全然そういう問題じゃないよ。
 マスコミやフリーライターもやっかいだけど、一番の問題は、根尾本気。
 私、今日、あいつに校舎裏に来いって呼び出された。
 山田って人、その理由をしつこく知りたがったけど、もちろんごまかしたよ。
 本気は言った。見せたいものがあるって。
 あいつがあのとき、盗撮したのは私の風呂上りの写真だけじゃなかったんだ。
 それがなにか……は、わからない。
 本気がスマホを取りだしてなにか見せようとしたとき、リョウ君が来て、引き離されちゃったから。
 あいつがなにを撮ったのかはわからないけど、想像はつく。
 きっと、映っちゃったんだよ、アレが。
 それしか考えられない。
 それなら私の裸の写真撮られたほうが、ずっとずっとマシだった。
 本気がその写真で私たちを脅し、なにを要求してくるのかわからないけど、最悪なことであることだけは確か。あいつ、ずっと気味の悪い顔でニヤニヤ笑ってたから。
 ……やめてよ、野ばらさん。
 そんなこと言われたら、私……。
 つらかったのは、私だけじゃない。野ばらさんもでしょ。
 えっ?
 どうやって?
 そんなことが、本当にできるの?
 でも、できたとしても、それですべてが解決するわけじゃないよね?
 だって、あの子が生きてる限り……。
 ……本当? どんなことをしても、私のこと守ってくれる?
 私たち、巻き込まれずに済む?
 夢とか、いろんなこと、諦めなくていいの?
 さっきはああ言ったけど、私、本当はオーディション受けたいし、選ばれて映画にも出たい。だけど、夢が叶っても、この家の秘密がバレたら、どん底に突き落とされちゃうでしょ。そんな高いところから地獄に突き落とされたら、私もう生きていけないと思って……。
 うん、わかった。がんばる。
 やっぱり、野ばらさんだけは私の味方だね。
 でも……、本当に大丈夫?
 根尾本気だけじゃなく、あの山田ってフリーライターも、うちの秘密に気づいていたら……。
 ねぇ、野ばらさん、さっきの絵、もう一度見せてくれる?

四月八日

 お姉ちゃんは勝手だ。
 いつも被害者ぶって、悲劇のヒロインを気取ってる。
 被害者ぶって、私を責める。
 被害者ぶって、私を悪者に仕立て上げようとする。
 でも、ママはわかってくれているはず。
 誰が本当の被害者か。
 そして、加害者が、Sだってことも。

 死ねばいいのに。

 

(つづく)