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【根尾本気】

 公園の脇に停められた桜色の軽自動車を、茂みの陰から覗き見る。
 運転席にいるのは山田って女だ。会ったのは一度だけだけど、インパクトのある見た目だから間違いようがない。後部座席には誰もいない。でも、もしかしたら刑事が隠れているのかも。
 しばらく様子を見ていると、車から降りてきた山田が辺りを見回したあと、後部座席のドアを開け放った。
 誰もいなかったことにホッとし、そーっと立ち上がる。
 振り返って俺を見付けた山田にも一瞬安堵の表情が浮かんだ気がしたけど、すぐに「よっ!」と片手を上げた。
「電話くれてよかった。思ったより元気そうじゃん。とにかく乗って」
 後部座席のドアを叩く山田に、まずは確かめなきゃいけない。
「ほ、本当に助けてくれるんだよな?」
「電話でそう言ったじゃん。本気、お腹すいてるでしょ?」
 その言葉に吸い寄せられるように、ふらふらと後部座席に乗り込む。
 山田が助手席から引き寄せたずた袋を奪い取るようにして開くと、中から出てきたのは大量のメロンパンだった。
「なんだよ、これ! メロンパンばっかじゃん。もっといいもんねーのかよ?」
「いらないの?」
「いるに決まってんだろ!」
 袋を引きちぎり、かぶりつく。あれ? メロンパンってこんなにうまかったっけ? 貪り食ってたら途中で味が変わってしょっぱくなった。涙だと気づいて、慌てて拭う。
「ほら、これも飲みな」
 山田が手渡してきたのは一リットルパックのコーヒー牛乳で、なんで甘いやつに甘いやつなんだよ! と突っ込みながら直飲みしたら、これも泣くほどうまかった。
「ちょっとは落ち着いた? 今までどこに隠れてたの?」
「裏山の廃屋。スマホねぇからなんもできねぇし」
「そんなとこにいたのに見つけられないって、無能だな、警察」
「どっちの味方なんだよ」
「本気は私が置いたお金、ちゃんと見つけられたんでしょ。偉いぞ」
「あれっぽっちでどうしろって言うんだよ。万札とか置いとけって」
「そんなことしたら、本気、東京行っちゃうじゃん」
「そりゃ、行くだろ。助けてくれるって、これから東京まで送ってくれんじゃねぇの?」
「ううん、これから、警察に行く」
「は?」
 食べかけのメロンパンが喉に詰まりそうになってむせる。
「ちょっと、落ち着いて食べなよ」
「落ち着けるかよ。話が違ぇーし。助ける気ねぇじゃん。俺のこと騙したのかよ」
「騙してない。それが本気を助けることになると本気で思うから」
「なに言ってんの? 信じて損したぜ」
 メロンパンの入ったずた袋をつかんで逃げようとしたけど、隠れていた場所を言っちまったからあそこへはもう戻れない。突然なにもかも面倒くさくなって、背もたれにぐだっと身体をあずけた。
「なんか……もうどうでもいいや。すげぇ疲れたし」
 それでも腹は減るからメロンパンを食べ続けていると、山田がこちらを見ずにつぶやく。
「逃げ回るより、警察のほうが安全だし」
「は?」
「冷や冷やだったんだよ。あんたがやばいやつらに見つかるんじゃないかって」
「なんだよ、やばいやつらって?」
「あの例のスレ『側溝のプリンセス・ドゥ』で本気を叩いてたやつら、今度は、母親殺しの逃亡犯を狩るぞ! って盛り上がってたからさ」
 メロンパンを口に運ぶ手が止まった。
「叩かれてるとは思ってたけど……」
「スマホがなくてよかったじゃん。ビビって寝られなかったんじゃない?」
「いや、東京まで逃げてたら、狩られねぇし」
「逃げることが最善の選択ってときは、確かにあるよ。でも、今は違う」
 振り返った山田が、まっすぐに俺の目を見る。
「あんたも……そして、私もね」
 その瞬間、なんの根拠もないけど、この人を頼った選択は間違いじゃないって気がした。

【市毛茉莉花】

 合鍵で野ばらさんの部屋に入ろうとしたら、鍵がかかっていなかった。
「野ばらさん、もう取材から帰ったの?」
 声をかけながらドアを開けると、アトリエから飛び出してきたのは野ばらさんではなく……。
「リョウ君!? どうして、野ばらさんのアトリエに?」
「……あ、いや、えっと、鍵開いてたから、か、かーちゃん、いるかと思って」
 スマホを握りしめ、そそくさと部屋を出て行こうとしたリョウ君は、すれ違いざま取り繕うような笑顔で言った。
「あ、学校来いよ。ファンクラブの女子、茉莉花様がいなくて寂しがってるから」
「……ファンクラブ? そんなもの、もうあるわけないでしょ」
「い、いや、そんなことないよ。みんな、心配してるし。じゃあな」
 逃げるように飛び出していったリョウ君と入れ違いで入ってきたのは、スマホを耳と肩で挟んだリョウ君のお母さんだ。
「ええ、今、野ばら先生は取材の依頼が殺到してて、すぐには無理なんですよ」
 こちらに気づいて片手を上げたが、そのままスマホに向かって話し続ける。
「はい? ああ、『柊ぐ』ですか? 例の外してあった家族の絵でしょ、あれ、『柊ぐ』ってタイトルなんですけど、今のところ公開する予定はないんで。他の作品の販売についても今はまだちょっと……。はーい、伝えます。どうもー」
 電話を切ったリョウ君のお母さんは、「茉莉花ちゃん、来てたの」と上がり込むなり、「もうまいっちゃうわよ。マスコミからじゃんじゃん電話かかってきて、ごはん食べる暇もなくってさ」と愚痴り始める。愚痴りながらも、目は生き生きと輝いている。
「野ばら先生、キテるよねー。画家として一気にブレイクしちゃうんじゃない? っていうか、これまでが不遇すぎたんだけどね。まさか、あの会見で注目されるなんて、ピンチはチャンスって本当よね。犯罪者の母親のくせに……なんて叩いてるバカもいるけど、ほとんど好意的なのは、会見の最後で泣き崩れる野ばら先生見て、みんな同情してくれたからよ。私もかわいそうで胸が潰れそうだったもん。あと、側溝のプリンセス・ドゥが生きててくれたのも助かったわ。亡くなってたらさすがにちょっとね」
 相変わらずよく喋る。このタイミングを逃してはいけないと慌てて口を挟んだ。
「あの、今、そこで、リョウ君に会いましたよね?」
「ああ、すれ違ったわよ。え、なに、リョウ、茉莉花ちゃんとふたりでここにいたの?」
「私は今来たところで、リョウ君、鍵が開いてたからお母さんを捜しに入ったって」
「えっ!? 鍵が開いてた? 泥棒に入られたんじゃないでしょうね」
 リョウ君のお母さんは血相を変えてアトリエに飛び込み、中にある絵を確認し始める。鍵が開いていたことではなく、リョウ君のことが訊きたいのに、あまりに必死過ぎて話しかけられる雰囲気ではない。
 アトリエには、個展で外されていた例の絵『柊ぐ』が無造作に壁にかけられていた。
 この絵を見たあざみが、気になることを言った。
 今より二十歳くらい若い野ばらさんとお母さん、お母さんの妹とその息子である赤ちゃん。そこにどうして、若いころのお父さんが描かれているの? と。
 絵を見てボーッとしていたらしく、「よかった、大丈夫みたい」というリョウ君のお母さんの声で我に返った。
「でもすぐにちゃんとした保管場所を見つけないとね。絵の価値も爆上がりで、すごいことになってるはずだから、盗まれたらえらいことよ。会見の前に絵の下に付けてた値札、全部外して大正解。今ならゼロひとつ違う値段で売れるわ。ううん、もっとかも。ようやく世間が野ばら先生の才能に気づいたわね」
 値札を外した? 今までの個展では絵を売っていたのに?
「なんで? どうして、この間は会見の前に値札を剥がしたの?」
「野ばら先生がそう指示したからよ。マスコミが入れば、絵の価値を正しく評価してもらえるってわかってたのかもね。ところで、野ばら先生は?」
「ああ、野ばらさんなら取材の約束があるって出かけたけど」
「え? 先生、ひとりで行ったの? やだ、言ってくれたら忙しくても同行したのに」
 ひとりで行ったのではなく、溝呂木さんの奥さんを連れていったけど、それは言わないほうがよさそうだ。野ばらさんはリョウ君のお母さんの言葉遣いや抜けない元ヤン感が気になって、同行させなかったんだと思うから。
「取材先でもまた『柊ぐ』を見せてほしいって言われてるんだろうな。あの会見のあと、みんなが見たがって、ネットでもツラ拝ませろとかって騒ぎになってるもんね。あと、桜子さんから妹に乗り換えたクズ男は誰かって犯人捜しみたいになってるし」
 リョウ君のお母さんは意味ありげな笑みを浮かべながら、近くに寄ってきた。
「茉莉花ちゃんはなにか知ってるんじゃないの? お母さんから聞いてない?」
 聞いてないし、知っていたとしても言うもんかと思いながら、急いで口を開く。
「そんなことより、リョウ君ってこの部屋の合鍵を持ってたりします?」
「リョウが? そんなことあるわけないじゃない。野ばら先生から合鍵を預かるのは、あたしだけよ」
 鍵が開いていたなんておかしい。あの野ばらさんが鍵を閉め忘れるはずがない。そう訴えるより早く、またリョウ君のお母さんがしゃべり出してしまう。
「そんなことよりさ、茉莉花ちゃんのお父さんは大丈夫なの?」
「きゅ、急になんの話ですか?」
「私、根尾さおりさんを殺したのは、逃げてた彼女の息子だと思い込んでたけど、本気君、出頭してきたのに、逮捕されな……ああ、未成年だから逮捕じゃないのかしら、でも捕まってないんですって。茉莉花ちゃんのお父さん、娘の虐待だけじゃなく、さおりさんの事件にも関わってたりしないわよね?」
「……なんで? どうして、そんなこと言うの?」
 他に誰もいないのに、リョウ君のお母さんは顔を寄せ、耳もとで囁く。
「記者の人たちが、そんな噂してたからよ」
 思わず息を呑む。お父さんが根尾本気のお母さん殺しを疑われてる? 私がパソコンの写真の消去を頼んだせいだ。でも、あのお父さんにそんなことができるだろうか?
 あんなに騒がしかったリョウ君のお母さんが、黙って私を見つめている。おもしろい見世物を楽しむような好奇の目が、たまらなく怖かった。

【溝呂木

 取材って、側溝で見つかった女の子の件?
 それとも、三〇一号室で起きた殺人事件のほうかしら?
 いずれにしても、私ではお役に立てないわ。しばらくここを離れていたから。
 ええ、そうよ。実家からプチシャトー市毛に戻ってきた日に、夫が根尾さおりさんのご遺体を発見したのは事実だけれど……。
 もしかして、それで私が疑われてるとか?
 夫が根尾さおりさんと浮気していたから?
 もちろん、気づいてたわ。夫はバカみたいにわかりやすい人だもの。
 浮気が原因で実家に帰ったのかって? まさか、違うわよ。
 あなた、若いわね。
 すべての妻が、夫やその不倫相手に嫉妬するとでも思っているの?
 夫婦生活なんてもうとっくの昔に卒業してるし、あの人がどこで誰となにをしようがなんの興味もないわ。夫は不惑を過ぎてもおさかんみたいだから、外に女がいたほうが私的にも都合がよかったのよ。でもおめでたい夫はバレていないと思ってたみたいで、今から実家を出て帰るって電話したらすごく慌ててて、うちに女を連れ込んでいるのかと思ったわ。
 ふふ、あなただけじゃない、みんな、夫のせいだと思ってるのよね。
 私が実家へ帰ったのも、メンタルやられたのも。
 仕方ないわ、私でさえ昔はそう思っていたんだから。だってクリニックの医者がそう言ったんだもの、信じちゃうじゃない。夫は結婚当初からずっと浮気してたし、それが原因でメンタルやられたってほうがわかりやすいのよね。
 あ、ちょっと待って。フリーライターって言ってたけど、この話、雑誌とかに書いたりしないわよね?
 私、あなただから、話してるのよ。わかるでしょ?
 昨日、野ばら先生に頼まれて、地元紙の取材に同行したの。
 野ばら先生の人気、ものすごいことになってて、びっくりしたわ。
 でも、あの絵なら当然よ。以前から独特の味わいはあったけど、絵に凄みが増して、別物みたいな印象を受けた。心を揺さぶられたわ。先生の描く絵がある時期から変わって見えて、それは自分のメンタルのせいかと思ったけど、先生の画力が凄まじく進化していたのね。野ばら先生、描いてる姿をほとんど見せないけど、こんな高いレベルに到達するには、血の滲む努力をされたんだろうって胸が熱くなったわ。
 私が実家へ逃げたのも、ここへ戻ってきたのも、原因は夫ではなく、野ばら先生だった。嫉妬したのも、夫の浮気相手じゃなく、野ばら先生の周りにいた女性たちによ。あ、変な意味じゃなくてね。
 私、野ばら先生にすごく可愛がられていたの。
 絵のレッスンでも特別目をかけてくれて、ありのままの自分を描くことであなたはもっと輝けるのよって、私の目を開かせてくれた。
 あの草間節子先生に認められた野ばら先生が、この私を認めてくれたのよ! もう嬉しくて嬉しくて。野ばら先生に頼りにされて舞い上がったわ。
 でも、当時、野ばら先生は三〇二号室の古河内さんとも親しくされていて、私、ものすごく嫉妬したの。野ばら先生のことを一番わかってるのは私なのにって苛々して、古河内さんに意地悪したりして。あのころから、私、おかしくなってたのよね。
 桜子さんが戻ってきてからは、野ばら先生といつも一緒にいる彼女を妬んだし、リサさんや亡くなったさおりさんにも嫉妬してた。
 バカみたいだけど、野ばら先生が自分以外の誰かを褒めると、死ねばいいのにって思うくらい攻撃的な気持ちになって、自分でもどうにもできなくて。
 苦しかったのは夫の浮気なんかじゃなく、野ばら先生にもっと認めてもらいたくて、でも、それが叶わないことだった。
 私が不安定だったからかもしれないけど、野ばら先生に言われたとおりに描いた絵をみんなの前で酷評されたりしてね。でもその絵が小さな賞をとったら、野ばら先生は酷評したことなんかころっと忘れて、全部自分の手柄みたいに喜んだり。
 そんなこともあってさらに調子が悪くなって、実家に帰ったの。野ばら先生から距離を取ることで気持ちが落ち着いたのか、私、なんであんなに野ばら先生に振り回されてたんだろうって、ちょっと冷静になれた。外から見たら、みんなが野ばら先生の機嫌を取ってるこの野ばら御殿は異常なんじゃない? って。
 なのに桜子さんのひどい虐待を知ったら、野ばら先生のことが心配になって戻ってきちゃったけど。
 昨日、取材に同行したとき、野ばら先生が絵筆を折るって聞いてびっくりしたわ。
 私が必死に考え直してくださいってお願いしても、先生は首を縦に振らなかった。
 でも、岩下ちふゆ先生との思い出を取材していた記者が、ふたりが一緒に写ってる写真がないか訊くと、野ばら先生は「当時の写真は、幼い桜子が火遊びで燃やしてしまった」って。記者が残念がって岩下先生のご遺族に頼んで捜してもらうと言ったら、「写真じゃなくてもいいなら、わたくしが描きましょうか?」って、野ばら先生が。
 絵筆を折るんじゃなかったの? って驚いたし、その前に、師事していたのは草間節子先生のはずなのにって混乱した。
 野ばら先生に伺うと、「おふたりともわたくしの先生よ」って微笑んで、岩下先生のご遺族に迷惑をおかけするくらいなら、こっそり描いて差し上げようかと思ったって。
 ああ、これが野ばら先生だったわって、ちょっと懐かしく感じた。
 相変わらず魅力的で大好きだけど、野ばら先生といると、振り回されて苦しくなる。
 なにも変わっていない。このままここにいたらもっと苦しくなるはず。だから、溝呂木と離婚して、ここを出て行くことにした。
 幸い子供はいないし、溝呂木が親から受け継いだ店の経営も、もう限界みたいだしね。先代と苦労を共にした料理人に任せっきりで、たまに店に行けば、ウェイトレスに手ぇ出してるような人がオーナーだったにしては、よく持ったほうよ。
 あの人、うちの兄から借金してるから、離婚を拒否できる立場じゃないし。
 え? ここへ戻って来た日?
 ええ、私がタクシーで帰ってきたとき、夫は部屋にはいなかったわ。
 なにか変わったこと?
 あったわよ。私が大切にしていた物……バッグとかアクセサリーなんかが玄関マットの上にごちゃって置いてあった。金目のものばかりだったから、すぐにわかったわ。ああ、あの人、いよいよ追いつめられて、これをお金に換える気ねって。
 今、どこにって、部屋に置いといたら売られちゃうから、実家に運んだわよ。兄に取りにきてもらって。
 アクセサリーの話? 警察にはしてないわ。売られちゃってたら被害届出すけど、未遂だったから。どうして警察に話さなきゃいけないわけ? 面倒なことになるだけじゃない。
 えっ? 殺害されたとき、さおりさんが身に着けていたかもしれないの?
 私のピジョンブラッドルビーのネックレスを?
 どういうこと? その話、もっと詳しく教えてよ!
 ……にわかには信じられないけど、ひとつだけはっきりわかったことがある。
 なんにしても、一刻も早く離婚しなきゃ。

 

(つづく)