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【土屋リョウ】

「リョウ、あんた、なにニヤニヤしてんの」
 増えていくコメントを目で追っているうちに、いつの間にか背後を取られていた。
「ちょっ、かーちゃん、勝手に俺の部屋入ってくんなって言ってんだろ!」
「買い物頼みに来ただけよ。あんたこそ宿題やるって言って、またネットの掲示板見てんじゃない」
「買い物? 嫌だよ。外、マスコミの人間がうじゃうじゃいるじゃん」
「行かないと、明日の朝ごはん食べられないけど、それでもいいわけ?」
「いいよ、カップラーメンとかで」
「それも尽きたから頼んでるんでしょ。はぁー、ったく、この騒ぎ、いつまで続くんだろ」
「仕方なくね? このマンションで殺人事件が起きただけでもびっくりなのに、さらに、オーナーの娘が別の殺人未遂事件まで起こしたんだから。しかもその被害者が側溝のプリンセス・ドゥだなんて、マスコミが飛びつかないわけないし。おかげでこのスレも大盛り上がりだけど」
 そう言ってるそばから、スマホ画面には新たなコメントが次々と表示されていく。
「それ、前にリョウが教えてくれた『側溝のプリンセス・ドゥ』って掲示板よね? あんた、変なこと書き込んだりするんじゃないわよ」
「は? なんで?」
「なんでって、書き込みで訴えられることだってあるからよ。つい最近まで根尾本気君が犯人って、みんな決めつけてたじゃない。ああいうの、ヤバいからね」
「別にヤバくないっしょ。プリンセス・ドゥの誘拐犯じゃなかっただけで、根尾は殺人犯なんだから、母親殺しの」
「そんな言い方……。ねぇ、リョウは平気なの? 同級生がお母さんを……殺したのに」
「いや、友達だったら平気じゃないかもしんないけど、ったのはあの根尾本気だし。あいつん家、母親もおかしかったじゃん」
「それは、そうだけど……」
「自分だって、あいつの母親にブチ切れてたじゃん。俺、一瞬、殺ったの、かーちゃんじゃね? ってびびったかんね」
「あたしがそんなことするわけないでしょ! あの人、明らかに娘のこと虐待してたし、いつも自分のほうが野ばらさんに気に入られてるってマウント取ってくるから、ムカついてはいたけど」
「根尾がおかしくなっちゃったのもしょーがないのかもね。あんなヤツとマンションもクラスも一緒で最悪って思ってたけど、今はちょっと感謝してるかな。バズったのあいつのおかげもあるからさ。スレ立ち上げて、マジでよかったわ」
「えっ、どういうこと? 『側溝のプリンセス・ドゥ』って、あれ、あんたが始めたの?」
「へへ、すげぇだろ」
「褒めてないよ。嘘でしょ、なに鼻の穴膨らませてんの? そのこと誰にも言うんじゃないわよ」
「なんでだよ? これからもっとバズりそうなのに」
「バカ! これ以上騒ぎを大きくするなって言ってんの。野ばら先生に迷惑がかかるじゃない」
「そんなの俺のせいじゃないし。自分の娘が、孫を殺そうとしたんだから自業自得だろ」
「違うわよ。あれは桜子さんが勝手にやったことで、野ばら先生はなにも知らなかったんだから。まさか、あの家にもうひとり娘がいるなんて、あたしたちだって気づかなかったじゃない。それなのにこんな騒ぎに巻き込まれて、むしろ野ばら先生は被害者よ。桜子さん、ホントなにしてくれてんのかしら。よりによって野ばら先生が個展をやるタイミングでさ。あたし、最初から桜子さんってちょっとヤバいと思ってたのよ。いつも、私は家族に尽くす完璧な母親です、みたいな顔してたけど、笑い方とか不自然で、引き攣った笑顔のお面をぺたっと貼り付けたみたいで不気味だったもん。三人姉妹の一番下の子だけネグレクトするってどういう神経? どんだけ歪んでたら、自分がお腹痛めて産んだ子にごはん食べさせないなんてひどいことができるのよ?」
「なぁ、ここで喋ってんなら、表のマスコミに話して、買い物行ってくりゃいいじゃん」
「そんなことできるわけないでしょ。桜子さんは野ばら先生の娘なのよ。先生まで叩かれちゃうかもしれないじゃない」
「こんな事態になっても、茉莉花のばーちゃんには気を遣うんだね」
「だって、気の毒だと思わない? あんなに苦労してきた素敵な人が、大切に育てた娘からこんな仕打ちを受けるなんて……。でも、きっと大丈夫よね。野ばら先生には才能があるんだから、今回のことだってきっとバネにして、さらにいい絵を描いてくれるはずだわ」
「あの人のことはよく知らないけど、絵のセンスがあることだけは俺も認めるよ」
「なによ、偉そうに。それはそうと、リョウ、あんたこそどうなの?」
「どうって、なにが?」
「決まってるじゃない、茉莉花ちゃんのことに。こういうときこそ、支えてあげなきゃダメよ」
「それ、ガチで言ってる?」
「どういう意味?」
「だって、茉莉花、犯罪者の娘っしょ?」
「……リョウ、あんた、あの子のこと好きだったんじゃないの?」
「いやぁ、市毛のおばさんが病院で事件起こす前から、俺ら、なんか微妙な感じだったし」
「あんたはそれでいいわけ? 茉莉花ちゃんとの関係、終わりにしちゃって?」
「いいもなにも、犯罪者の娘とか無理じゃね?」
「……まぁ、そうね。桜子さんと親戚づきあいなんて絶対にしたくないし、あんたたちが結婚して、茉莉花ちゃんがリョウの子供を産むってことになったら……。確かに、ちょっと考えちゃうわね」


【市毛茉莉花】

「あざみのせいだからね」
 キッチンに立ち、包丁でなにか切っているあざみの背中に怒りをぶつける。
「あんたが病院に行ったりしなければ、私は今頃オーディションを受けて合格して、映画出演が決まってたかもしれないのに」
「そうだね」
 振り返ることなく、あざみは言った。
「ちょっと、そうだねってなによ?」
「でも、きっと後悔してたよ」
「は? なに言ってんの?」
「映画に出ることと引き換えに、のんちゃんがこの世からいなくなったら、お姉ちゃんは後悔したはず」
「勝手に決めんな! それに、お母さんが本当にあの子を殺すなんて、いくらなんでも……」
 火にかけた小鍋がポコポコと音を立てる。
「信じられないのはわかるけど、お母さんは濡れたタオルを持って、のんちゃんの枕もとに立ってた。それ、私だけじゃなく、心中も山田さんも見たし、お母さんが床に投げつけた濡れタオルは、すぐに駆けつけてきた看護師さんや警備員さんにも見られてる。あの雪の日の朝、私がのんちゃんを逃がしたのも、お母さんがあの子を始末しなきゃねって言ってるの、聞いたからだし」
「後悔してたのは、あざみでしょ! あんた、すごく後悔してたじゃん、のんちゃんを逃がしたこと」
「うん、してた。ものすごく」
「病院に乗り込んだことも、後悔することになるよ」
「ううん、それはない。もう後悔したくなくて行ったんだから。お母さんが飛び降りてたらしたと思うけど、山田さんのおかげでどうにか助けられたし」
「あざみはわかってない。警察に連れていかれたお母さんは、逮捕されるはず。私たちは犯罪者の子供として、この先ずっと生きていかなきゃいけない。あんただって、もう普通の生活はできないんだよ」
 あざみははじめて包丁を持つ手を止めた。
「今までだってできてなかったでしょ、普通の生活なんて」
「……それは」
「私もお姉ちゃんもあの異常な生活に慣れちゃいけなかったんだよ。おかしい、おかしいって言い続けなくちゃいけなかった。だって、のんちゃんは……私たちだったかもしれないんだから」
「どういうこと?」
「私、昔お父さんに『おまえが男の子だったら』って言われたことがずっと引っかかってた。あと、のんちゃんがいた物置部屋に男の子のおもちゃがたくさんあることも」
「それは、私も変だなって思ってたけど」
「お母さん、東京にいたときは、あんなじゃなかったでしょ。つくり笑いじゃなくて、ちゃんと笑ってたし、もっと明るい顔で私たちのこと大切にしてくれてた。のんちゃんのことだって、ごはんとかお風呂とか世話してたし。本当におかしくなったのは、ここに来てからだと思う。私たちは、お母さんに言い続けなきゃいけなかったんだ。のんちゃんは透明人間なんかじゃない。私たちと同じように、ちゃんとここにいるよって」
「でも、子供の私たちが言うことなんて……」
「そうだけど、それでもおかしくなっていくお母さんから逃げちゃいけなかったんだよ。逃げずに、おかしいよって言い続けてたら、なにかが変わったかもしれなかった……でしょ?」
 見つめるあざみの瞳はまっすぐで迷いがない。
「犯罪者の子供になったとしても、のんちゃんやお母さんが死んじゃって、それを自分のせいだって後悔しながら生きてく世界よりは、ずっとマシだと思う。ただ……」
 小鍋が吹きこぼれそうになり、あざみは慌てて火を止めた。
「あんた、こんなときになにつくってんのよ? 足は、大丈夫なの?」
「うん、だいぶよくなった。これは、風邪ひいたときいつもお母さんがつくってくれた玉子がゆ」
「よく食べる気になるよね。さすがあざみ、神経図太いわ」
「これなら食べられるんじゃないかと思って、図太くないお姉ちゃんでも」
 嫌味を言ったのに、真剣な表情で想定外の返事をされ、ぐっと言葉に詰まってしまう。ごまかすように慌てて訊いた。
「……あ、さっき言いかけたでしょ? ただ、なに?」
「ああ、えっと、気になってることがふたつあって、ひとつは山田さんのこと。のんちゃんの病室の窓から飛び降りようとしたお母さんを見て、山田さんが咄嗟に呼んだんだ。私の聞き間違えなのかもしれないけど……」
「それ、たぶん聞き間違えじゃないよ」
「え?」
「あざみに見せたいものがある」
「なに?」
「その前にもうひとつの気になることって?」
「それは……お父さんのこと」
「ああ、それなら私も気になってる。お母さんだけじゃなく、お父さんも警察に連れて行かれたまま帰ってこないもんね。任意同行ってやつだって聞いてるけど、のんちゃんの件で、ふたりとも逮捕されちゃったら……」
「お父さんが警察に連れて行かれたのって、のんちゃんのことで、なのかな?」
「は? あざみ、なに言ってんの? それ以外になにが……」
「私、見たんだ。三階の廊下を慌てて走ってきたお父さんを」
「お父さんがどうして三階に? それ、いつの話?」
「私がのんちゃんの病院へ行った日」
「えっ? じゃあそれって、根尾本気のお母さんが……」

 

(つづく)