いつもどこからか潮の香りがする町に住みながら、ななみは海が好きではなかった。
友達というのは不思議なもので、見えない磁石で吸い寄せ合うように、気づいたら一緒にいる。快活でおしゃれなみえきょん、勝気でリーダー気質の瀬奈、成績優秀お嬢様のズミ。高校二年生のななみは、いつからか、同じダンス部に所属しているこの三人と過ごす時間が長く、おおむね平和にやっている。
同じ制服、似た背格好、休み時間に集まってダンスの振りを合わせたりしている四人は、傍目には似た者どうしの仲良しグループに見えるだろうし、実際それはそうなのだが、ひとりひとりの内面は当然全く異なる。みえきょんの自分語り——あたしあたしと時々うざい——、瀬奈の毒舌——やる気のない部員や後輩に対して厳しめ——、ズミのちょっとルーズなところ——試験前に学校を休んだり、水泳やマラソンを平気でサボる——、などにはたまにもやもやするが、基本的に仲間思いの優しい子たちだと分かっている。高校生にもなると、付き合い方は大人びて、互いを気遣いながらうまくバランスを保てるようになった。
ななみは自分を、そのあたりの、人付き合いの匙加減がうまいタイプと自己分析している。小学校も中学校も、周りと揉め事を起こしたことはない。いじめられたこともない。
うまくやっていくこと。それはななみにとって、いつもいちばん大事なことで、ものごころついた頃には、自分のなかみをたやすく晒さないのがコツと心得ていた。
それが少しだけ変化したのは高一の冬、初めてみえきょんの家に招いてもらった時だった。
みえきょんの家は理髪店を営んでいる。お父さんとお母さんが二人でやっている、性別年代問わず誰でも受け入れる理容室と美容院の中間のような店だ。
みえきょんに続いておずおずと店内に入ると、職人風のお父さんが常連とおぼしきお客さんの髭を剃っていて、その隣で金髪のお母さんが、女性のお客さんの頭にカーラーをくるくる巻き付けていた。壁の上にちいさなテレビがついていて、芸能人たちがちょうどわっはっはと笑って、盛り上がっていた。暖房がすみずみまで効いたそのあたたかな空間に、ななみはなんだか、ずっと前からこういう場所を知っている気がした。
この場所でのおかえりーただいまーのやりとりが、三百六十五日の日常なのだろう、流れるようにかわされて、その後でみえきょんが二人に、
「この子、ななみん」
と、紹介した。
「ああ、親友ちゃんね。よく来てくれたねえ」
みえきょんのお母さんに言われ、ななみはとっさに返事ができなかった。
なんだったのだろう、あの感じは。ななみは動揺したのだ。みえきょんのお母さんの笑顔には、見ず知らずのななみへの、温かい信頼があふれ出ていた。そして「親友ちゃん」のひと声。他愛もない挨拶だとは分かっていた。だけど、みえきょんが自分のことを家でそんなふうに話していて、みえきょんの家族に自分が当たり前のように受け入れられていることにななみは戸惑い、それからゆっくり安心していった。
そのせいで、というべきか。その日、理髪店の二階のみえきょんの部屋で、ななみは当面誰にも話すつもりのなかった自分の話をし始めていた。
現在「寮」に住んでいること。ななみには両親がいないということ。
ずっと言いそびれちゃってたんだけどさーと、なるべく軽い感じで話し出したが、目の前でみえきょんの表情がみるみる強張ってゆくのを見て、間違えちゃったかなと思った。
その後のことはよく覚えている。みえきょんは本当に驚いたようだった。驚いたことを隠そうと、目を泳がせた。そして急に、実は自分の母親は再婚なのだと言った。それは、唐突な告白だった。「おかえし」みたいなつもりでプライベートなことを話そうとしたのかもしれなかった。そのことに、ななみはかすかに傷ついたのだけど、ものすごく上手な無反応の演技をされるよりはましかもしれず、親友の思いもよらぬ告白に対し、自分の話をしてなんとかバランスを取ろうとしてくれたことは、優しさ以外の何ものでもなかったと今は思う。
そんなものだろうな、と後からななみは考えた。「家の子」たちは、「寮の子」たちのことを、詳しく知らない。そういう場所があることを、おぼろげには知っていても、身近にいなければ、詳しく知る必要もないことだ。
そもそも「家の子」は家族と一緒に家で暮らしている子のことで、「寮の子」は施設に暮らす自分たちを指すのだけど、その呼び方自体、寮の子しかしない。みえきょんにとっては、想像もしていなかったことだったのだ。
寮の子の中には、自分を家の子に見せようとする子もいる。
ななみのひとつ年上の萌音は、高校の子たちには「家の子ってことにしてる」とはっきり言っていた。三か月付き合って別れた彼氏にも、最後まで明かさなかったそうだ。付き合い始めの頃、万が一、街でうちらにばったり鉢合わせしても、絶対挨拶とかしないでね、と言われた。中学生だったななみは、なんだか息苦しくなって、反発の気持ちも湧いた。
けど、高校に入ってみて、萌音の気持ちが理解できた。
萌音とは違う高校に通っているのだけど、どちらにしても高校という場所が、小学校や中学校とは全然違うということを知ったからだ。
小学校と中学校は寮のそばにあり、どの学年にもだいたい寮の子たちがいた。保護者会も行事も寮の職員が来てくれるし、近所の家族が寮のバザーや祭りに足を運ぶこともある。上級生も友達も先生も、当然寮の存在を知っていて、それがふつうになっている。だけど、電車やバスを使って遠方の高校に通うことになると、そこはいきなり、誰も寮を知らない世界だ。親とかきょうだいとかのことなんか何も話さない子がたくさんいて、家の事情なんて、関係ないような感じもする。そこでわざわざ自分だけ、わたしは家の子じゃないんですということを言うのは変で、いったん言いそびれたらそのまま言いにくくなった。隠すつもりじゃなくても、そうなった。
だけど、誰かと時間をかけて仲良くなってくると、話さずにいるのが難しいことも起こる。
たとえば去年のクリスマス。どんな話の流れだったかは忘れたが、「思い出作りをしよう」ということになった。高一の最後に、何か大きなことを。
韓国旅行しようと瀬奈が言った。「行きたい!」「行っちゃう!?」。ななみとみえきょんはパスポートを持っていないし、厳しいと評判のズミの親が高一の女の子四人の海外旅行など許すはずもない。ありえないことだと分かっていたから、行けそうなふりができたのだ。
予想通りズミ親から海外NGが出ると、翌日瀬奈は、保護者の承諾書があれば未成年だけでも宿泊OKな近県のペンションを見つけてきた。「高一最後の思い出作り」という瀬奈の言葉に、みえきょんの顔が輝き、ズミも「国内なら大丈夫かも」と言った。ななみの心は重たく沈んだ。
友達の家にならばお泊まりできないわけでもないことは、歴代の先輩たちの様子からうっすら知っていたが、さすがに民間の宿泊施設はだめだろう。ごねてすねて、寮の職員たちと揉めまくれば何とかなるかもしれないが、女子班担当の光芽さんに迷惑をかける。アルバイトの予定もあるし、寮での係の仕事もあるし、交通費、食費、宿泊費……。
眠れないほど悩んだ。学校に行きたくなくなるくらいに思いつめた。
翌日ズミが「国内でも泊まりは無理って親に言われた」と言い、あっさり話は流れた。
後から思えば、些細なことだったが、あまりに思いつめていたななみは、命を救われたと思うほどにほっとした。なんでそんなに思いつめたのか、今もよく分からない。ズミはひどく青ざめていて、自分のせいでごめんと何度も謝ったが、ななみの心はこっそり晴れ渡ったのだった。
「思い出作り」は海行きになった。
「ななみの海」は全4回で連日公開予定