液キャベを買うついでに、朝食用のロールパンと三角チーズ、それからコアラのマーチをかごに入れた。
会計を済ませてコンビニの外に出ると、新聞配達の男の子が自転車で通りを横切っていった。
またこの時間か……と、綿貫玲奈は小さく息をついた。
半年ほど前から玲奈は新宿歌舞伎町にある「Bogart」というミニクラブで働いている。ノルマはないし、終電あがりもできるといわれていたけれど、週に一、二度はこの時間になる。店自体は零時には閉めるのだが、ママが客とアフターに行くとなるとそれに付き合うことになり、結果、この時間になるのだ。
無理をしなくていい、とママは言うが、アフターは人脈を広げるチャンスでもある。その流れで同伴の約束をとりつけることも少なくない。つまり、アフターに行く行かないは、そのまま収入に直結する。
液キャベのキャップをひねり、それを一気に胃に流し込む。まずっ。顔をしかめながら空き瓶をレジ袋に戻し、ふと顔を上げると空がもう白みはじめていた。
玲奈は自宅へと足を向けた。萌が目を覚ますまでには帰りたい。娘が起きたとき、化粧を落とした顔で「おはよう」と言う。夜の仕事を始めたとき、玲奈が自分に課したルールだ。
シャッターの閉まった小さな商店街を抜けると住宅街になる。道なりに三分ほど歩くと右側に広い駐車場があり、そこから二つ目の角を曲がった先にある緑色の屋根のアパートが玲奈と萌の住まいだ。
レジ袋に目をやって笑みがこぼれた。コアラのマーチは萌の好物だ。甘いお菓子はなるべく与えないようにしているけれど、遅くなった日はつい買ってしまう。いい子でお留守番をしてくれたご褒美だ。
音を立てないようにつま先でアパートの外階段を上がる。以前、一階の住人に怒鳴られたことがあるのだ。部屋の中では、下の階の人に迷惑をかけないよう注意をしていたけれど、外階段というのは盲点だった。部屋を決めるとき防犯面を考えて二階の部屋を借りたけれど、そもそもこんなアパートに住んでいてセキュリティーもなにもないのだ。子どもが小さいうちは一階のほうが気が楽だったかもしれない、と玲奈は後悔していた。
無意識にため息をつきながら部屋の前まで行くと、玄関横にある小窓から明かりが漏れていることに気が付いた。もう起きてる? いや、消し忘れだろうかと、バッグから鍵を出したとき、部屋の中から話し声が聞こえた。
「萌!」
ドアを引くと、小さなたたきに見知った顔の人物が座っていた。
「ようやく帰って来た」
顔をしかめて立ち上がったのは、一階に住んでいる田岡という初老の女だった。階段の音がうるさいと言った人物だ。
「田岡さん……あの、なにか」
「なにかですって? あなた一体どういうつもりなの? 子どもを一人置いて。まだ四つだっていうじゃない。非常識にもほどが……って、あなたお酒を飲んでるのね」
「これは仕事で」
ママ、と田岡のうしろから、パジャマ姿の萌が見えた。
「萌っ」田岡を押しのけるようにして部屋に入ると、玲奈は膝をついて萌を抱きしめた。
「ママ、いたいよぉ」
萌が玲奈の腕の中で、くすぐったそうに笑った。ほっとすると同時に、なぜという疑問が膨らんだ。
なぜこの女は、人のうちに勝手に入り込んでいるの? なぜ酒を飲んでいることを咎められなければならないの? なぜこんな時間に、なぜ、なぜ、なぜ……。
萌の小さくてやわらかなからだを腕に抱きながら、玲奈は田岡をにらみつけた。
「非常識なのはそちらじゃないですか。こんな時間に勝手に人の家に入り込んで」
こういうことを住居不法侵入とかいうはずだ。と、腕の中で萌が頭を動かした。
「もえが、おばちゃんにいてっていったんだよ」
玲奈は驚いて萌の顔を見た。頬に涙の痕が残っている。
「なにかあったの?」
萌に言うと、田岡が鼻を鳴らした。
「夜中に泣き声が聞こえたのよ。二時過ぎだったかしらね。まあ、子どもの夜泣きはしかたがないと思って我慢していたら、今度は階段を下りる足音が聞こえるじゃないの。放っておこうかとも思ったけど目も醒めちゃったし、後味の悪いことになるのはいやですからね」
「後味……」
田岡はそれには答えず、話を続けた。
「外に出てみたら、この子が泣きながらはだしで歩いているんだから驚いたわよ」
「どうして」と、玲奈は目を見開いて萌を見た。
「どうして一人で外に出たの? ママが帰ってくるまで、お外に出ちゃダメって何度も言ったよね。お約束って。萌、うんって言ったじゃない。お約束したよね、ママとのお約束守らなかったら危ないの。大変なことになるんだよっ」
興奮気味に萌の腕をつかんで揺すると、田岡はあきれたようにため息をついた。
「あなた、なにもわかっていないのね」
玲奈は眉をひそめて立ち上がった。
「ご面倒をおかけしたことは、申し訳ないと思っています。……でも、他人のあなたにわかったようなことを言われる筋合いはありません」
「それはそうでしょうよ。わかりたくもないけれどね」
「だったらっ」
玲奈が声を荒らげると、壁の向こうからどん、と音がした。
「お隣さんもいい迷惑だわね、こんな早朝に」
田岡は玄関のドアを押して、「騒がしくてごめんなさいね」と隣の部屋に向かって声をかけてから、振り返った。
「次にこういうことがあったら、児童相談所に通報しますよ」
「はっ?」
「あなたの事情なんてわたしには関係ありませんから。でも、子どもを守るのは大人としての義務ですからね」
そう言って、ドアを閉めた。外階段を下りる小さな足音に玲奈は唇を噛んだ。
「ママ?」
萌が見上げるようにして玲奈のスカートを揺らすと、玲奈はその手を払いのけた。
びくりと驚いた顔をする萌を見て、玲奈は乱暴に玄関の鍵をかけた。
「まだ早いから、もう少し寝なさい。ママ、シャワー浴びてくるから。……わかった!?」
背中を向けたまま言うと、萌は「うん」と返事をした。
洗面所のドアを閉めると、汗ばんだ服を脱ぎ捨て、シャワーのコックをひねった。
どうしてわたしが責められなければいけないの? 仕事をしていただけなのに。
児童相談所ってなによ。虐待をしているとでもいうの? いままで一度だって萌に手を上げたことなんてない。昨日だって、ちゃんと仕事に行く前にお風呂に入れて夜ごはんのチャーハンも用意して、冷房は冷えすぎないように二十八度に設定して、九時には寝るように約束をして……。
――次にこういうことがあったら、児童相談所に通報しますよ。
こういうことってどういうことよ……。
子どもを夜に一人で留守番させるなと言っているのだろうか。だけど、わたしはあそんでいるわけじゃない。子どもを放置して自分の好き勝手に出歩いているわけじゃない。ニュースで見るような、そんな無責任で身勝手な母親と同じにされたらたまらない。好きで萌を一人にしているわけじゃない。仕事だ。仕事をしているだけ。働かなかったら食べていけない、暮らしていけない、生きていけない。そんなこと考えればわかるはずだ。
それならなに? 夜中に子どもが外に出ていたことを言っているのだろうか。そんなことはわたしだって言って聞かせている。外に出てはいけないと何度も言い聞かせている。ママがいないときは、玄関のドアを開けてはいけないとも言っている。
子どもを置いて、夜仕事に行くことに不安がないわけじゃない。萌に寂しい思いをさせていることもわかっている。でも、だけど、だからこそ、できる限りのことをしているつもりだ。
したり顔で正論をぶつけてきて……。わかってない。わかろうともしない。社会はなにも、だれも助けてなんてくれない。子どもを置いて仕事に行くことが罪だというのなら、どうしろというのだ。
玲奈はシャワーのお湯を止めた。
風呂を出ると、萌は言いつけ通り布団の中にいた。寝ていますよというように、目をつぶっているけれど、瞼がぴくぴく動いている。
小さく息をつき、床に放り出したままにしてあるレジ袋を拾ってダイニングテーブルのイスに腰を下ろした。
「萌」
名前を呼ぶと、萌はぎゅっと目をつぶった。
「眠れないならこっちにおいで」
さっきとは違う母親のやわらかな声に、萌は様子を窺うように薄く目を開いた。
「さっきはごめんね。ママ、すごく驚いちゃったの。夜中に一人で外に出たら危ないんだよ」
「ママはあぶなくないの?」
もぞもぞと起き上がりながら萌が言った。
「大人だからね」
「おとなはあぶなくないの?」
ふっと笑い、「おいで」と笑みを浮かべると萌は玲奈の膝に乗った。
布団にもぐりこんでいたせいか、汗ばんでいる。そっと萌の頭に顔を近づけると、幼児特有の、甘酸っぱいような香ばしい匂いがした。
「これ、おみやげ」
そう言ってレジ袋からコアラのマーチをとりだすと、萌の顔がぱっと明るくなった。
「たべていいっ?」
「いいよ。でも少しだけね。朝ごはん食べられなくなっちゃうから」
わかった、と萌は玲奈の膝からとんと下りると、布団の足元にあるミニテーブルの前に座ってぴりぴりと封を開けた。
もう六時を過ぎている。萌の小さな背中を見ながら、玲奈は布団の上に横になった。からだが鉛のように重い。布団に沈み込んでいく。瞼が重い。ちょっとだけ休ませて、少しだけ、三十分だけ……仮眠をして、それから……食事の支度をして、萌に、ごはんを食べさせないと……。
目が覚めると、カーテンの隙間から陽が差し込んでいた。時計を見ると、二時をさしていた。二時……まだ二時なの……と、次の瞬間、玲奈は飛び起きた。
夜ではなく昼の二時だ。
「萌っ」と声に出して名前を呼ぶと、トイレの水を流す音が聞こえて、ドアの向こうからパジャマ姿のままの萌が出てきた。
何時間寝ていたのだろう、ほんの少し仮眠するだけのつもりだったのに。
「ごめん! ママ急がなきゃ」
今日は同伴があるのだ。「Bogart」に勤めてはじめて同伴をしてくれた客で、店の太客でもある。
「ママーあのね」
「ごめん、あとにして」
玲奈は萌のことばを遮ると、洗面所のドアを開けた。シャワーで汗を流し、スキンケアを行う。急いでいてもこれはおろそかにできない。
スキンケアもメイクも十代の頃の玲奈はあまり興味がなかった。子どもを産んでからは、なおのこと自分にかまうヒマもなくなり、せいぜい風呂上がりにオールインワンのジェルをぬる程度だった。
――若いころいかに自分を大切にできるかで、十年後、二十年後に差が出るのよ。
「Bogart」の面接に行ったとき、まいこママに最初に言われた。
――自分をメンテナンスすることは仕事の一環。それをするかしないか、収入っていう見える形で違いが出てくるから。
スキンケアくらいでどれほど変わるというのだろう。半信半疑ながら、薦められた化粧水や美容液を買ってみた。玲奈にとっては痛い出費ではあったけれど、使っているうちにたしかに肌が変わってきた。肌の調子がいいと化粧のノリが変わり、表情も豊かになる。そうすると不思議と店でもキャストとの関係がスムーズになり、売り上げも自然と伸びた。
「ママー」
「なに!?」
「おなかすいた」
ダイニングテーブルの上のレジ袋を手に取ると、ロールパンも三角チーズもそのまま入っている。ということは萌は朝からコアラのマーチしか食べていないことになる。
「ごめんごめん、おなかすいたよね。いまなにか」と、パフを置き、腰を上げかけて時計に目がいった。
「これ食べててくれる?」
そう言って、レジ袋を萌に渡した。
「明日はちゃんとごはん作るからね」
メイクを終え、ワンピースに着替えたところで振り返ると、レジ袋を持ったままの萌が玲奈をじっと見ていた。その表情に刹那、胸が詰まった。
「おいで」
玲奈は萌に向かって両手を広げた。腹のあたりに頭を押しつけてきた萌をぎゅっとした。
「萌、ごめんね」
そう言って、もう一度ぎゅっとして、からだを離した。
「明日は公園でいっぱいあそぼう」
「あした?」
「うん。明日はお仕事お休みだし、そうだ、動物園に行こうか」
「どうぶつえん! いく! いくいく!」
ぴょんとはねた萌を玲奈はあわてて抱き上げた。
「お部屋の中でぴょんぴょんはダメでしょ」
「あ、そうだ。もえ、もうぴょんぴょんしない」
真面目な顔でうなずく萌がおかしくて、たまらなくいじらしかった。
「そうだ、いいもの」と、玲奈は棚の上から、以前客からもらったチョコレートをとりだした。
「いいものって、なに?」
萌が額に汗をにじませながら目を輝かせた。
「すっごくおいしいチョコレートなんだって。あ、でも、ごはんのあとにね。食べ過ぎると鼻血が出ちゃうから、ちょっとにしておくんだよ」
「わかった!」
「えらい。それから玄関は開けちゃだめ。一人で外に出てもだめ。わかった?」
「わかった!」
「じゃあ。行ってくるね」
チョコレートはごはんのあとでなどと言ったけれど、そもそもロールパンとチーズをまともな食事といえるのかは微妙だ。
以前萌が通っていた保育園は、食育に力を入れていた。給食は粟の入ったごはんや分づき米のごはんに味噌汁と漬物。おかずは魚と野菜中心のいわゆる和食だ。おやつにしても、手作りのおやきだったり、トウモロコシや蒸した芋だったり。
「和食というより戦時中の食事みたい」当時働いていた運送会社の上司に玲奈が漏らすと、戦時中はそんな豪華なものを食べてなかったでしょと笑い、「いい保育園に入れてよかったじゃない」と言われた。
なにをもって上司が「いい保育園」と言ったのか、玲奈にはよくわからなかったけれど、いい保育園に娘を通わせているのは、自分の手柄のような気がして嬉しかった。
あのまま保育園に通わせてやれていたら、と思うことはいまもある。けれど現実的に無理だった。
同居していた母親が八か月前、脳梗塞で他界して生活が一変したのだ。
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