第一章 左腕
1
風に煽られ、紙くずやペットボトルが歩道を転がっていく。光岡芳人はジャンパーを着た体を縮めて身震いをした。
十二月五日。昨日までとは打って変わって、今日は気温が低くなった。真夏もつらいが、寒風の中のサービス業務はさらにつらい。これから嫌な季節になるな、と光岡は思った。
時計を見ると、午前九時五十分を過ぎたところだ。ラッシュの時間帯を過ぎたため、駅周辺に混雑はない。駅前で辺りを見回すと、幼児を連れた母親やリュックサックを背負った高齢者グループ、笑いながら歩いていく学生たちの姿が目に入った。
葛西駅は東京メトロ東西線上にある。東京都の東端に位置していて、この先、旧江戸川を越えれば千葉県に入る。大手町駅から各駅停車で約十六分。交通の便がいいから駅周辺にはマンション、アパートが多い。少し歩いた場所には住宅街も広がっている。
駅があって人が集まる場所、そして周辺に住宅街が広がっている場所。そういう立地に、光岡たちがメンテナンスを行うコインロッカーは設置されている。
駅から二分ほど歩いたところに茶色い雑居ビルが建っていた。約束は十時だから、光岡は先に現物を確認しようと思っていた。だがそのビルに近づいていくと、エントランスの前に男女がいて、人待ち顔をしているのが見えた。
「飯野さんでしょうか?」
光岡は六十歳ぐらいの男性に声をかけた。ループタイを結び、厚地のジャケットを着た生真面目そうな人物だ。初対面だが、この人が依頼主だと見当がついた。
「そうです」男性はうなずいた。「武井ロッカーサービスさんですよね?」
「はい、光岡と申します」慌てて名刺を差し出した。「そちらは利用者の方ですか?」
「ええ、さっきおいでになったので、一緒に待っていたんですよ」
「やっと来たわね、コインロッカー屋さん」五十代半ばの女性が口を開いた。「私、江田といいます。ねえ、早く開けてもらえません? こんな場所で待たされて、風邪をひきそうよ」
「じゃあ、行きましょうか」
飯野の案内で、三人は雑居ビルの西側に向かった。エントランスの隣に歩道から引っ込んだスペースがあり、そこに飲料の自動販売機とコインロッカーが置いてあるのが見えた。小型タイプのボックスが縦に五段、横に六列、計三十個用意されている。一日の利用料金は二百円。現在、二十四個には鍵が付いていて未使用だとわかった。
光岡はバッグの中から作業指示書を取り出した。
「このコインロッカーに荷物を預けたあと、鍵をなくされたんですね?」
「そうなの。だけど場所をよく覚えていないんですよ」江田は不機嫌そうな顔をした。「だってどの箱も見た目は同じでしょう? 番号なんていちいち見ていないし。ああ、でも一番下だったのはたしかよ。たぶん、この辺りだと思うんだけど」
最下段の中央右寄り、二十番のボックスを彼女は指差した。液晶装置には《200》と表示されている。預け入れた当日は《0》だから、このボックスは昨日から使われていることになる。
「預けたのはいつですか」一応、光岡は質問してみた。
「昨日の午後三時ごろかしら。駅前で買い物をしてたら携帯に電話がかかってきて、母の具合が悪いっていうから……」
彼女はとりあえず荷物をロッカーに預け、千葉県にある実家へ向かった。そのまま一泊し、母親の容態が安定したので引き揚げてきた。ところが、いざ荷物を出そうとしたらコインロッカーの鍵が見つからなかったという。
「大事なときになくなって本当に困っちゃう。鍵の頭にゴム紐でも付けておけばいいじゃない。なんでそうなっていないの?」
──いや、そんなこと俺に言われても……。
ぼやきたくなったが、利用者の前で失礼な態度をとるわけにはいかない。光岡は営業スマイルを顔に浮かべて、江田に問いかけた。
「預けた荷物はどんなものですか」
「紙袋に入ったおもちゃです。孫に買ってあげたの」
わかりました、とうなずいて光岡はマスターキーを取り出した。
飯野の所有するビルにコインロッカーが設置されたのは、今から三年前のことだ。このロッカーは駅などに設置されているものとは違って、飯野の個人的な所有物になっている。武井商事が初期費用を受け取ってコインロッカーを販売・設置。その後の保守・管理は子会社の武井ロッカーサービスがすべて請け負う形になっている。
利用客からの問い合わせは、武井ロッカーサービスのコールセンターで受け付ける。今回は江田という女性から「鍵を紛失した」という連絡があり、光岡はコインロッカーの持ち主である飯野に電話を入れた。そしてオーナー立ち会いのもと、これからロッカーの確認が行われるというわけだ。
「では、開けさせていただきます」
光岡はオーナーの飯野に断ってから、しゃがみ込んだ。両手に作業用の手袋を嵌める。マスターキーを使って二十番のボックスを解錠した。
だが、中に入っていたのは男物のショルダーバッグだった。
「あれ? 場所を間違えたのかしら。もしかしたらこっちかも」
その右隣、二十五番のボックスを彼女は指し示した。そこにも《200》と表示されている。
解錠し、ボックスの扉を開くと白い紙バッグが入っていた。大手スーパー「ダイワドー」のロゴが印刷されている。大きな商品を買ったときに使われる取っ手付きのタイプで、比較的丈夫な作りだ。
「これですか?」
「違うわね。ダイワドーなんて行ってないし。となると、たぶんこっちだと思うわ。左側の箱」
最下段、十五番の箱だ。そこも料金表示は二百円となっているから可能性はある。
開けてみると、茶色い紙袋が見えた。
「ああ、それよ! よかった」江田は声を弾ませた。
光岡は紙袋を取り出した。中を覗き込み、あらためて尋ねる。
「中には、いくつおもちゃが入っていましたか」
「三つです。男の子用の電車セットがふたつ、あとひとつは女の子用のお人形」
包装されていたが、箱の印刷が透けて見える。間違いないだろう。
「では費用のほうですが、錠の交換料として三千円、サービスマンの出張料として二千円いただきます。それから延滞料金が二百円ですから、合計五千二百円になります」
「えっ、そんなに?」江田は目を丸くした。「ちょっと高すぎない?」
「すみません、決まりなんです」
江田は不満そうだったが、拒絶することもできず、それらの費用を払ってくれた。
領収証を渡したあと、光岡は後始末を始めた。マスターキーでおもちゃの入っていた箱、ショルダーバッグの入っていた箱を施錠する。最後はダイワドーの紙バッグが収められた二十五番の箱だ。確認の意味でボックスの中を覗き込んだとき、光岡はふと違和感を抱いた。
紙バッグは横に寝かせてあり、底の部分が手前になっている。だがよく見ると、その荷物から茶褐色の液体が染み出ているようなのだ。
ロッカーのオーナー、飯野もそれに気づいたようだ。彼は声を低めて言った。
「何か漏れているみたいだけど、大丈夫ですかね」
光岡は以前先輩から聞いた話を思い出した。五日ほど使用されたままのロッカーを開けたところ、プラスチックの容器の中で二匹の亀が死んでいたそうだ。
面倒だな、というのが正直な感想だった。できれば見て見ぬふりをしたいところだが、飯野や江田の前で手抜きはできない。
「約款では危険物や生もの、動物などを入れてはいけないことになっています」光岡は咳払いをしてから飯野に尋ねた。「念のため、中を調べておきましょうか?」
「ええ、まあ……仕方ないですよね」飯野はうなずいた。
ひとつ息をしてから、光岡は両手をボックスに差し入れた。バネで扉が閉まろうとするのを左脚で押さえる。紙バッグを手に持ち、静かに手前へ引き出した。
完全に紙バッグが外に出たところで、ゆっくり回れ右をする。同時に、曲げていた腰を伸ばしていった。紙バッグがせり上がってきて、開口部が飯野のほうを向いた。飯野は眉間に皺を寄せつつ、中を覗こうとした。
そのとき、光岡の足下で大きな音がした。左脚で押さえていた扉が、バネの力で勢いよく閉まったのだ。光岡は驚き、両手への注意がおろそかになった。紙バッグが傾いて、口から何かが滑り出た。
咄嗟に飯野がそれを受け止める。彼は両目を大きく見開いた。
茶褐色に染まった新聞紙。そこから少し覗いている、細長い物体。
それは人間の腕だった。
左腕だ。肘の上、数センチのところでばっさり切られている。切断面には血がこびり付いていた。そこから流れ出た血液が、紙バッグから染み出ていたのだ。
江田が悲鳴を上げた。
つられたように飯野も声を上げ、持っていたものを放り出した。左腕は地面に落ち、わずかに跳ねて転がった。
光岡はその腕を凝視していた。目を逸らすことができなかった。中指に嵌められた指輪。よく手入れされた爪。色白な女性の腕だ。
指は軽く握られていた。人差し指と親指の間から何かが覗いている。自分でも驚いたのだが、光岡は手袋をつけた右手を伸ばして、それをつまみ上げていた。
──俺は何をしているんだ?
頭の隅にそんな疑問が浮かんだが、あまりに異常な出来事の前で、恐怖の感覚が麻痺していた。
光岡がつまみ上げたもの。それは鍵だった。キーヘッドに何の刻印もないから、たぶん複製されたものだろう。形状からすると、コインロッカーの鍵だと思われる。
「あの、これ……」
飯野が唇を震わせながら、地面の紙バッグを指差していた。開口部から白い紙が覗いている。
光岡は紙バッグをあらためた。わずかに見えていたのは四つに畳まれた紙で、開いてみるとA4サイズのコピー用紙だった。パソコンで数行の文章が印刷されている。
冒頭の一文を読んで、光岡は目を疑った。そこにはこう書かれていたのだ。
《おめでとう! ようやく見つけてくれましたね。しかしゲームはまだまだ続きます》
「骸の鍵」は全3回で連日公開予定