老人になると、古いことだけが頭に残って、新しいことはわけがわからない状態になってしまう。以下の文章は自分の虫採りの歴史を書こうと思って書き出したもので、もともとこの連載に載せるような内容ではない。それでも最近のことを書く時間がなくなったので、とりあえずすでに書いてあったものをここに持ち出した。申し訳ありません。

 人生の最初にヒゲボソゾウムシに出会ったのは、小学生の時である。鎌倉に住んでいたので、近所の妙本寺というお寺の裏山が昆虫採集のフィールドだった。そこの杉林の下草で、体長五ミリほどの緑色で肢の黄色いきれいな虫を見つけた。ヒラズネヒゲボソゾウムシである。毎年春には欠かさず同じ場所にいたので、私にとってヒラズネは虫採りの季節の到来を告げる春告虫だった。

 鎌倉近辺から三浦半島にかけては、ヒゲボソゾウムシ属はこの一種しかいない。ヒラズネはスギやヒノキの植林に伴う人為分布種(原産地は不明)なので、三浦半島にはヒゲボソ属の種は他にはいないといっていい。対岸の房総半島からは、カントウヒゲボソが記載されている。それも分布が限られ、清澄山や養老渓谷の近辺のみである。小学校の高学年から、中学、高校にかけて、遠出をするようになり、箱根、大山、伊豆の天城山などがいいフィールドになった。こうした場所では、鎌倉では見ないヒゲボソが採れるようになった。

 私が通った中学高校は当時は横須賀市田浦にあった栄光学園で、虫好きの先生が二人いたから、環境としては恵まれていたと思う。一人は山本玄先生で、生物学を教え、ハムシが専門で、その名前はサドコメツキモドキ Languriomorpha yamamotoi (MIWA et CHUJO)の学名に残っている。もう一人はシャクガの井上寛先生で、学校では英語を教えておられた。山本先生は満州からの引揚者で、学校に置いてあったインロー標本箱には大興安嶺などとラベルが付されたハムシの標本が多数あった記憶がある。井上先生の標本も置いてあったが、標本棚に入ったドイツ箱で、フユシャクの標本を見せていただいたことがある。私はガにはまったく無関心だった。山本先生はご自分のゾウムシの標本をなぜか私に下さった。後に気づいたことだが、その中には大台ケ原で採集されたルイスヒゲボソが入っていた。メスだけだったので当時は気が付かなかった。鱗片がなかったので長らくハダカヒゲボソだろうくらいに思っていた。

 小学生の時に、母の知り合いの紹介で、東京の高円寺に一人で三橋信治さんを訪ねて行ったことがある。三橋さんは長く東大農学部で技官を務め、標本の面倒を見ておられたようだが、定年後に請われて北大に行かれ、やはり昆虫標本の手入れをされていたと聞いた。年齢もあって体を悪くされ、東京に戻っておられたのである。いきなりやってきた小学生に大変親切にしてくださり、三つのことをよく記憶している。一つはブック型の標本箱に入ったブラジル産のカメノコハムシで、こんなに見事な虫が世界にはいるのかと、心底感動した。もう一つは Reitter の甲虫図譜で、ケシキスイの部分だったと思うが、似たような小さな虫が精細な図としていくつも描かれており、今でいう生物多様性を目の当たりにした思いがあって、いたく心を打たれた。同じように見える小さな虫でも、微細な違いがあって、じつに細かい構造を持っている。のちにヒゲボソゾウムシに関心を持つようになった理由の一つが、この辺りにあるかもしれないと感じる。Reitter の図譜から似たような影響を受けたことをホソカタムシの青木淳一さんが書いていたと思う。その後古本でこの図譜を手に入れたが、子どもの時に見たものより判が小さいという気がしてならない。子どもだったから、本が大きく見えたのであろうか。三つめはルイス G. Lewis によるホソエンマムシの論文で、Nipponidae という科が作られ、日本固有のグループだと、三橋さんが熱心に言われていたことを思い出す。その後実際にこの虫に出会ったのは露木繁雄君が天城山で採集した虫の中で見つけたのが最初である。自分自身ではつい数年前に、愛鷹山でヒノキの間伐材に多数のキクイムシが集まっており、その中から一頭見つけ出した。三橋さんの思い出もあり、嬉しかったのできちんとした標本にしたいと思い、じつに展足のしにくい虫だとそれで気が付いた。肢が細いのである。

 中学生時代は山本先生の影響もあり、ハムシを丁寧に採っていた。鎌倉近辺では三月下旬になると、ウシハコベの群落にヨツキボシハムシが出現する。これも私の春告虫の一つだった。鎌倉石という砂岩は柔らかくて崩れやすいので、岩の小さな隙間にこの虫がよく入っている。後翅がないので、見つけ採りするしかなかった。のちに大学生くらいの時だったと思うが、ハムシ屋の小宮義彰君が科博の黒沢良彦さんに言われて、鎌倉、逗子、葉山方面にこの虫を採りに来たと言っていた。当時オサムシの地域変異が注目され始めていたので、黒沢さんが後翅のないこのハムシにも目を付けたのであろう。

 虫採りの友だちといえばまず広島大学名誉教授、生薬学が専門の山崎和男君であろう。同じ鎌倉で家も近かったので、よく一緒に虫採りに出かけた。それと当時の科学博物館に山崎君のまた従兄弟の小林峰生さんがいるというので、昆虫の標本を見せてもらいに科博に初めて行った。その頃、黒沢良彦さんが赴任されて、月に一度の甲虫談話会を開いてくれたから、そこに熱心に通うことになった。そこで多くの甲虫屋さんに出会う機会を得た。大野正男、黒佐和義、渡辺泰明、柴田泰利、梶村秀樹(故人)などの皆さんである。梶村さんは当時東大文学部の学生で、後に朝鮮史の専門家として名を挙げたが、記憶にあるのは埼玉県でトゲナシトゲトゲを採られたことで、これはいまだに私が欲しいなあと思っている虫の一つである。細長くて真っ黒のなんということのない虫だが、ススキから採ったということだった。談話会には時々お客さんが来て、話を聞くことがあった。のちには中根猛彦さんも来られるようになったが、お客さんでは江崎悌三先生はちょうど私が高校三年の終わりの時期に来られた。入試に通ったばかりの時だったので、黒沢さんが私が現役で東大に合格したと紹介を兼ねて話してくれたとき、一言「エライネ」と皮肉を言われたのでよく覚えている。森本桂さんの話も一度聞いたことがある。下北半島でその夏に数千頭のゾウムシを採ったということだった。日高敏隆さんがルネ・ジャンネル Rene Jeannel を連れてきたこともあった。また露木君を通じて、当時は逗子に住んでおられた草間慶一さんにお会いした。草間さんは東大理学部の化学教室の助手で、虫を殺すために酢酸エチルを使うことは草間さんに教わった。それまでは青酸カリなどを使っていた。三角台紙に虫を貼り付けるノリにはマニキュアを使用した。これも草間さん伝授である。

 小・中学生時代には叩き網をするか、二つ折りの志賀の網で、もっぱら掬い網をしていた。いろんな虫が採れるので、とくになにを集めるということなしに、小さ目の甲虫を採っていた。中学の夏休みに信州に行き八月上旬、もう若葉につく虫がほぼいなくなる時期に塩尻峠でアオバホソハムシを二頭採った。ほかには何もおらず、帰って山本先生に見せたら、「ああ、これこれ」と言われて、アッという間に取り上げられてしまった。なにが「これ」なんだか、さっぱりわからなかった。ほしい虫を見ると、あっという間に持っていくのが本当の虫屋じゃないかと以来思っている。池田清彦、秋田勝巳の両氏が典型である。持っていかれても私が黙っているのは山本先生の教育の賜物である。

 高校時代には地方の人と文通、虫の交換をした。長崎高島出身の神谷寛之(のちの佐々治寛之)さん(故人)は左利きでラベルに書くような小さい字でハガキを書いてこられた。後年私が東京大学出版会の理事長になった時、たまたま佐々治さんの『テントウムシの自然史』を出版会から出すことになり、高校生当時を懐かしがって連絡をくださった。そのあと福井に佐々治さんに会いに行った。神谷さんと生島貞利さんの採集品はいまでも少し手元にある。

 高校時代は大きめの虫になって、かなり徹底的にオサ掘りに凝った。京浜昆虫同好会の仲間が多かったので、励みになったのだと思う。西川協一、今ではカミキリ屋の小宮、露木繁雄氏などである。西川君は千葉でアカオサを採ったと騒いでいたし、小宮氏が白河の田んぼの畔でマークオサを掘ったのは大きなニュースだった。オサムシはその後、石川良輔氏がトラップ採集を始めて、冬場には掘れないオサムシを特に北海道で徹底的に採集したので、オサムシ熱は冷めた。とても石川さんには追いつけないと思ったのである。とどめを刺したのは、だいぶ後のことになるが、大沢省三氏のDNA解析だった。オサムシで思い出深いのは、大学二年生の春休みに、露木繁雄、木村欣二の両君と対馬にオサ掘りに行ったことである。当時はツシマカブリモドキがオサ掘りで掘れるかどうか知られていなかった。厳原の裏山で掘り始めたら、あっという間に掘れて、数日間で最終的には三人で六十頭以上掘り出した。山道で道脇のいわゆるガケ崩しをやっていたら、地元のオジさんが通りかかって、「ご苦労さん」といわれたのを記憶している。道路工事の労働者と間違えたのであろう。

 大学では医学部に進学し、本郷でまず最初に図書館の使い方を覚えた。英国昆虫学会報 Trans.Ent.Soc.London の適当な年度のものがあるのに気が付いて、David Sharp の日本のゾウムシ、短吻類の論文をコピーした。ルイスの採集品を Sharp が整理したものである。当時のコピーは湿式で、いまではコピーの半分は消えてしまった。運命というべきか、なんとヒゲボソゾウムシ属の部分だけが六十年経ってもなぜか消えずに残っていて、今でも読める。当時まずやりたかったことは、ヒゲボソゾウムシの種の同定である。図鑑類で調べる限り、リンゴコフキゾウムシとミヤマヒゲボソゾウムシくらいしかわからなかった。のちに森本桂等の『日本の昆虫』第四巻で、両者はトゲアシヒゲボソゾウムシ亜属に改称された。リンゴコフキがトゲアシヒゲボソになったのでは、初めての人は名前と両者の関係を覚えるのが大変であろう。