12月の初旬に、モンベルの品川店で、尾池和夫静岡県立大学学長による地震のお話があった。「日本に健全な森をつくり直す委員会」(略・健森)という長い正式名のNPO法人主催で、健森は私が委員長を務めている。尾池先生は元京大総長で、静岡に移られたのは、地震や富士山の噴火と無関係ではないだろうと私は推察している。首都圏直下型地震は「ある」と言っておけば、外れることはない、という説明だった。東南海地震については、すでに何度か言及されているが、2038から40年であろうということが複数の根拠から推定されている。その時期に私自身は100歳を超えているはずなので、自分が実際に経験できるかどうかわからない。同時に噴火活動が起こるやもしれず、特に問題なのは富士山であると長年論じられている。

 こうした天災の影響はコロナの影響とどのくらい違うのだろうか。災害後の復興を考えると、経済の問題がどうしても頭に浮かぶ。当面、復興には莫大な費用が掛かるはずだが、それをだれが、どういう風に出すのか。尾池講演の司会者だった藻谷浩介さんに聞いてみたが、考えておきますというご返事だった。デーヴィッド・アトキンソン氏はその時に余分なお金を持っていて、それを拠出できるのは、中国だけだろうという予測を述べている。

 合理的、経済的、効率的に考えれば、一極集中になるのは必然である。天災を考えるとそれがいちばん具合が悪い。天災には合理性も経済性も効率性もない。地震は想定しても、それに伴う火山活動となると、規模や影響は計り知れない。その時はその時と、無責任に割り切るしかない。

 経済関係の論者はここ20年、日本のGDPが増加していないことを、他の先進国と比較して問題にする。もちろん労働生産人口が減少しているのだから、それで当然とする見方もあろう。しかし私がむしろ問題だと思うことは、いわゆる高度経済成長の裏面である。それが多くの環境破壊を伴ったことは、いまさら指摘するまでもない。国際的には日本は環境問題に鈍感だという指摘を受けている。本当にそうだろうか。私はむしろ逆ではないかと思う。現にリニア新幹線の工事は静岡で止まってしまった。これは川勝静岡県知事の独断ではなく、背後に世論の支持があると見ているからであろう。地方の政治家がそれを見落とすはずがない。紀伊半島の山脈の尾根に発電用の風車を並べるという企画は、三重県知事によるストップがかかっている。言いたいことは、この国では大規模開発には強い逆風が吹いているということである。これは企業の将来へ向けての投資には極めて具合の悪いことであろう。

 仮にこの20年、日本が他の先進国並みに経済成長をしたと仮定しよう。その際の炭酸ガス排出の絶対量はどのくらいになるだろうか。それを考えると、日本は環境問題に鈍感どころではない。国民は実質賃金の低下に耐えて、ここ20年、地球環境のために頑張ってきたともいえる。その意味ではむしろ国連で表彰されてもいいのではないか。自民党の総裁選では、各候補ともに、環境には触れなかった。ドイツの緑の党のようなものは日本にはない。いらないからであろう。命令もされないのに、コロナ下ではほぼ全員がマスクを着用する国である。環境が危ないと思えば、全員が「勝手に」自粛する。それを非難するのは、何事であれ意識化しなければ存在しないとする「初めに言葉ありき」の世界観に毒されているだけのことではないか。

 言葉はほぼ完全に意識の内部に存在するもので、それをヒトは互いに交換するから、外部的と信じられるのである。個人の内部では、意識は外部の影響とくに感覚に対して優位であることが要求される。環境破壊は日本人にとって、花鳥風月に代表される、心のよりどころとしての周囲の自然への破壊と感じられたのであって、それが感覚に依存する以上は、意識が基本的に許容する態度ではない。小学校で先生が黒板に白墨で「黒」という文字を描くとき、生徒はそれを黒と読むことを強要される。それを頑として「白」と読む子は、極度に反抗的とみなされるであろう。ともかくそれでは「文字が読める」ことにはならない。言語を使用すること自体が、感覚に対する一定の抑圧であることに気づく人が、現代ではどれだけいるであろうか。言葉にならないというのは、データ化されていないからAIの世界では使えないというのと、同じようなことであろう。

 だから日本での環境問題は、政治の対象にはならないのであろうと私は思う。そうした意識化されにくい社会現象を「ない」と見なすのが意識の世界であり、いわゆる近代なのである。だから日本は世界から環境問題に鈍感だとみられるのであろう。

 他人が自分をどう見るかは、どうでもいいことだが、他者との関わりという面では重要に決まっている。グローバリゼイションの世界では、きちんと自分の意見が言えないといけないことになっているが、それはすなわちすべてを意識化しないとダメだと言っていることになる。和歌や俳句で感覚の共有を文化の基本としてきた日本という社会で、どこまで理屈が通用するのか、興味深いところであろう。

 この年齢になって困るのは、若い世代との感覚の食い違いである。これは感覚を重視する文化では、抜き差しならない対立を生じさせることになりかねない。20代の娘とその母親が口論した結果、娘が12階から母親の目前で飛び降り自殺をしたという事件の記述を読んだ(浜辺祐一『救命センター カンファレンス・ノート』集英社)。具体的な事情は不明だが、そこまで対立することはあるまいと、他人は考える。そこまで折り合えないのは、おそらく理屈ではなく、感覚の問題であろう。感覚を重視すると、理屈偏重の現代とは別な問題が発生する可能性が高い。それを都会人は避けようとして、感覚を抑圧するのであろう。私の虫狂いを女房が感覚的に理解するはずはなく、それが私の人生にとって決定的だという認識を持ってくれるのがせいぜいだと思う。

 年齢を重ねるごとに感じることだが、しみじみ自分は日本人だと思う。それはなにも遺伝子ではなく、日本語を使うという意味である。よく知られていると思うが、日本語には擬音語が頻出する。欧米語ではこれは幼児語として嫌われる。犬をワンワン、猫をニャアニャアと呼べば、日本人でも幼児語として理解する。しかし、「しみじみ」と表現する場合には、確かに身に滲みるという感じがあって、身体的かつ感覚的である。現代ではこの種の表現は「主観的」として、どちらかと言えば、排されるのではないか。感覚を言語的に理解するのは、困難であろう。よく言われるように、論理的にはクオリアに関わってくるからである。私が感じる赤と、あなたが感じる赤が、同一であるという保証はない。それを言語的に確認する方法がない。概念は「同一である」という前提の下で成立しているので、差異を中核とする感覚にはなじまない。この差異と同一性の問題は『遺言。』(新潮新書)で詳細に取り挙げてある。

 環境と経済の問題に戻ると、現代日本は「脱成長」を実質的にはたしてしまったらしい。史上最長と言われる安倍内閣の下で、これは「ひとりでに」実現してしまったので、だれも威張れない。安倍さんはアベノミクスと称して、経済成長を目論んだ。しかし世界の潮流は脱成長に向かっていることは、斎藤幸平さんと欧米の若手の学者たちによる著書が出ていることからわかる。ひとりでに脱成長になってしまったのでは、誰も威張れない。これはちょうど戦前の日本が「いつの間にか」戦争に入ってしまったのによく似ている。敗戦になったから、盛んに議論がなされるものの、責任を追及してもよくわからない。「ひとりでにそうなった」というのはいわば自然現象であって、誰も自分の功績にも他人の責任にもできないのである。日本社会というのは、要するにそういう風に動いているのではなかろうか。

 こうした解釈は現代のような意識中心社会で好まれないことは、よくわかっているつもりである。しかし「ひとりでにそうなった」というのは、あらゆる局面が絡んで、結果としてそうなったんだから、だれにも文句のつけようがない結末であろう。それを意図的に左右しようとしたアベノミクスは、人為側の敗退に終わった。安倍元首相には、昭和の天皇陛下の開戦の詔勅を御贈りしたい。「まことに止むを得ざるものあり、あに朕が志ならんや」。日本は日本であって、それ以外の何物でもない。これをどうしようもない欠点と捉えるか、歴史的な福音と捉えるかは、各人の自由であろう。

 年末になって、私の「壁シリーズ」のおそらく最後、『ヒトの壁』が出版される。同時に『バカの壁』が450万部を突破したという知らせがあった。「なぜ売れたんですか」という質問をときどき受けるが、これも自分で買ったわけでなし、「売れたものは仕方がない、ひとりでに売れたんだ」というしかない。ただ私が中年すぎまで日本社会でそれなりに苦労して、ブツブツ言いながら働いてきた、その過程で頭に浮かんだことをそこはかとなく書きつけたから、同じようなストレスを抱えた日本の人たちに受けたのかもしれないと思う。「読んだけれどもよくわかりませんでした」という複数の感想を貰ったことは確かである。明確な意図や筋があるわけではないから、当然かもしれない。ただ内容については、称賛も酷評もなかった。ということはほとんど無抵抗だったということで、それなら「あたりまえ」を書いただけだということになる。若い時から自然科学研究を志して、独創的、新奇なことを目指すことを強要されたという思いがあるから、そういうこととは縁が遠いと言ってもいいと思う。それなら独創もなく、新奇でもないということで、「あたりまえ」のこと、というしかないではないか。多くの人に受け入れられるのは、「あたりまえ」しかないに決まっている。そういうことを書いたのでは「学者」にはなれない。

 令和2年はコロナと猫のマルの死で終わった。今年、令和3年の暮は西日本出版社から『まる、ありがとう』という写真集と短いエセーを含んだ本も出た。写真は秘書の平井(山口)玲子の撮影で、十数年の間、毎日身近に居たのだから、良い瞬間が捉えられている。見ると懐かしくて、ついページをめくってしまう。良い記憶を遺してくれた猫だとしみじみ思う。