年が明けたが、若い時とは新年の感じがずいぶん違う。あたりまえといえばそうだが、まず新年だからと言って、今年こそはとか、新たに、などという思いはない。1年なんとか生き延びた、今年はどうか、である。体調は別に悪くはない。1か月おきに律義に病院に通って、診察と検査を受けている。フツーの老人である。検査結果に難点はない。受け持ちの医師が検査結果は「私よりいいですよ」などという。「じゃあ、なんで死んだらいいんですか」などと余計なことを返す。嫌味な患者じゃないか、と思う。

 アメリカ版のキンドルがダメになって、新しい日本版を買った。新年ですからね。アメリカのキンドルの時に買ってあった本が、引き継がれない。同じアマゾンでもアメリカと日本は別会社なんだという。しょうがないから、また同じ本を買う。どうしても読みたいということではない。ボケ具合を測ろうという軽い意図がある。ロバート・ジョーダン「時の車輪」シリーズ。16巻あるはずだから、読了まで時間がかかる。あらためて読んでみると、たしかに記憶がおかしい。大筋が変わったわけではないが、アレッと思う。話の進み方が記憶とかなり違う。最初の3巻ほどは、主人公のランド・アル=ソアの話が少ない。もっとあったはずだが、と思いながら、次を読む。まだアルソアが中心になるところまで行かない。

 少し気を散らそうと思って、パトリック・ロスファス「風の名前」を並行して読みだす。以前に始めだけ読んで放り出した覚えがある。なぜか今度は続けて読める。なぜ「風の名前」かというと、本当の名前を知ると、それをコントロールできるという、魔術の話だと思う。話がまだそこまで行ってないから、本当のところはわからない。いまはまだ主人公の生い立ちの話で、これから大学に入るところである。ファンタジーだから、場所は不明、時代も不明。たぶん中世の欧州と思えばいいらしい。いつ、どこかわからない、そこで育った人間の話なんかよく読むよなあと自分で感心する。英語だからまだいいので、日本語だったら現実感が妨害して、とうてい読めたものではないと思う。

「時の車輪」は Netflix でドラマにもなった。Hulu かもしれない。いちおう見てみたが、感心するほどの出来ではない。ウィッチャー・シリーズの方が断然いい。こちらは金がかかっているのであろう。制作の裏話が番組になっているくらいである。見世物はお金をかけて贅沢に作らなきゃダメである。それで楽しませてもらうより、地味に活字を読んで楽しむほうがいい。安くつく。というのは、万事が貧乏な時代に育った爺さんの言い分。

 Netflix を見始めると、読書の時間が削られる。現代ものでは「ドクター・ハウス」を見ている。アメリカの現代医療が垣間見られるから、つい見てしまう。診断に徹底して凝る医師の物語である。いくつもの症状を示す患者の病因がなにか、それを推理する。シャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロに似た面も多い。推理小説と考えるなら、犯人は病気で、被害者は患者である。被害者はまだ死んでないが、かなり危ない。チーム医療の中での人間関係もややこしくて面倒くさい。ハウスは相当な変わり者なので、それがじつは優秀な医師だ、と見る側を納得させる芸が中心になる。

 常々思うことだが、英米系の社会はかなり徹底した機能主義である。目的を達成するために、手段をいとわない面がある。ハウスはその典型で、診断を確定するためには、患者が死んでも構わない、という態度に見える。もちろんお話だから、そこで患者を殺したりはしない。つい一生懸命に見すぎて、肩が凝ってしまった。よく眠れない。全体に緊張感を要求される作品である。若い時に臨床医になるのをあきらめたが、正解だったと思う。こういうアメリカ流の医療には到底ついていけない。基礎医学を学んでも、同じようにアメリカの影響が大きく、どんどんアメリカ化するという状況は同じだったから、最終的には脱落した。日本社会もある程度ならアメリカ流についていけるが、なにしろ資源が乏しすぎる。現在は中国とアメリカが対立しているように見えるが、これも中国社会がアメリカ化にどこまで耐えられるか、が問題であろう。

 私はハウスに親近感を感じる。主人公に共感しなければ、そもそも番組を見ない。鑑別診断はいまならAIが優秀なはずである。生死に徹底的に関わる判断を完全にAIに任せるまでには行かないが、どんどんそこに近づくに違いない。私がインターンだった60年前に、東大病院にはすでに当時の真空管の計算機で診断機械を作っていた先生がいた。あとが続かなかったのは、まさに体制の問題だったと思う。社会のほうが遅れていて、診断機械は早すぎたのである。この先生がいわば当時のハウスだったわけで、当時の病院では迷惑な変わり者だったに違いない。

 私が生きた時代は、先を読むのが比較的易しかった。アメリカを見ればよかったからでる。いまはそれがはるかに困難になった。大転換が要求されているのだが、すでに出来上がったシステムが大規模で強固なので、だれにもいじれない。意味のない、局所的な戦争をするくらいしか打つ手がないのかもしれない。ウクライナもパレスチナも、問題はそこじゃないだろう、という気がしてならない。ハウスの話がどんどんずれてしまったが、テレビ番組で現代ものを見るとこういう副作用が出る。ファンタジーならその心配がない。関わりたくなくても、どうせ関わらざるを得ないのが現実なのだから、楽しみはファンタジーでいいのである。

『猫とねこのエッセイアンソロジー』(河出文庫)が出た。私の文章が巻頭に置かれているが、巻頭を飾るほど立派なものではない。30人を超える作家たちの猫エッセーを集めてあるので、気楽に読める。漱石や佐藤春夫など古い作品からもよく拾ってあるのが嬉しい。私が生まれ育った鎌倉の家の近くに大佛次郎の猫屋敷があった。生まれた仔猫を持て余した人が大佛さんの家に捨てに行くという話は子どもの時から聞いていた。現代はなぜか猫ばやりで、3月初旬から奈良県立図書館で『まると養老先生』と題した写真展が開かれる。YouTubeでは犬猫を映したものを多く見かける。こういうものは理屈や筋書きではなく、何気なく映したものがいい。猫に学ぶ哲学書もあるが、そういうことではないと思う。要するに猫は猫なので、それ以上でも以下でもない。「うちのまる」は3年前に死んだが、その後猫を飼ってないので、箱根の別宅で野良を餌付けしている。餌は娘の飼猫のあまりものである。

 鎌倉の家の庭に出没するのは、ノラ以外はタヌキ、タイワンリス、ハクビシンといったところ。箱根だとこれにシカやアナグマ、ウサギが加わる。ネズミ類は小さくて見えないから、何かいると思うがわからない。モグラは暮から鎌倉の家の庭で、塚を作っている。まるの前にいた猫がヒミズモグラを取ってきたことがあるから、アズマモグラではなくてヒミズだと思う。

 虫はどうかというなら、このところ体力が衰えて野外活動が制限されてしまったため、調べに行かない。せめて欅の樹皮くらい剥ぎに行こうかと思うが、それも面倒という思いが先に立ってしまう。手鍬でも買って地面を掘るなら本格的だが、とてもそこまでの元気はない。気候が暖かすぎて本当に冬ごもりしているのだろうかという疑いもある。それこそ実地に調べるのが先である。まだしばらく冬は続くはずなので、これからでも遅くはない。年寄りの冷や水で頑張るとするか。

 毎週1回、虫好きが集まって、Zoom で話す。外国にいる人にも参加してもらえるので、年寄りの楽しみになっている。現場に出たくなるのがいわば難点だが、そんな文句を言っても仕方がない。春を待つしかない時期である。今年の春も昨年同様に暑いのだろうか。昨年7月1日には対馬にいたが、あまりに暑くて採集にならなかった。虫は変温動物だから、外気温があまりに高いと、生命に関わる。42度くらいが限度であろう。日向の葉っぱの上なんぞに、ぼんやりたかっているはずもない。

 一昨年のグールソン『サイレント・アース』に引き続き、昨年はオリヴァー・ミルマン『昆虫絶滅』(早川書房)がでた。著者は英国のジャーナリスト。グールソンは英国の昆虫学者だから、「虫がいない」ととりあえず騒いでいるのは英国人である。私はどう思っているかというなら、当然だろうと思っている。高速道路を走った後の自動車のウィンドウ・スクリーンの汚れ方を見たらわかる。今ではほとんど汚れなくなった。飛んでる虫がぶつかって潰れたりしないからである。新幹線の運転手さんに訊いたら、もっとはっきりするであろう。

 虫が減ってよかった、と思う人が多いかもしれない。少なくとも都会では感覚的にそう感じている人が多いはずである。ここでなぜ虫が必要かなどと議論する気はない。多くの人は減ることも増えることもあるよ、と考えるかもしれない。スズメは減ったが、カワセミは帰って来た(柳瀬博一『カワセミ都市トーキョー』平凡社新書)。昆虫の減少はおそらく次元の異なる事象なのである。私は人口減少と同じ原因だろうと推測している。産業革命以来の地球表面の人為的変更が、現在の地球環境を結果として生み出している。いいも悪いもない、そういうものだというしかないのである。

 近年、明治神宮の森の生物調査が行われた。50年前に行われた調査結果と違う点が一つ、ササラダニの減少があった。確か種数にして半分になった。調査をした専門家の青木淳一氏以外に、これを気にする人はあまりいなかったように思う。この種のダニは吸血するような害のある生物ではない。単に落ち葉の処理をしている程度の生きものである。土壌の菌類などは調べられていないが、かなりの変化があるに違いないと私は思う。とりあえず目に見えないから、調べにくいのである。