この春は来るのが遅かった気がする。こちらが待ち望んでいる分、春が遅いと感じられたのかもしれない。何しろ冬が長くて、寒かった。冬が寒いのは当然だが、私は鎌倉の自宅と、標高700メートルの箱根仙石原の別宅を往復するので、箱根ではいつも寒いなあと思う。おそらく年齢のせいもあって、寒さをより強く感じる機会が増えたのであろう。

 桜は例年どおりか、例年より数日遅めというところ、近年は梅と桜が一緒に咲いている期間があったりして、花の暦はすっかり狂ってしまった。東京はヒート・アイランド現象のため桜の開花が早い。以前は温暖な鎌倉のほうが開花が早かったと思うが、今では桜の開花は東京に負ける。

 3月に入っても、ウグイスがなかなか鳴かない。4月になって、暖かい日が増えたらやっと鳴き出した。最近はガビチョウが増えた。この鳥はいろいろな鳥のまねをするので、うっかりするとだまされる。いろいろな小鳥が鳴いているなと思っても、ガビチョウが1羽で頑張っていたりする。

 虫は減った。虫屋が集まると、すぐその話になる。もちろん増えた虫もあるが、全体としては寂しい限りである。今日は4月の初旬、暖かい日で26度になると予報は言っている。この時期なら庭でマルガタゴミムシが歩いているのを見るはずである。草にはイタドリハムシが飛んでくる。ここ数年、どちらも見ていない。縁側の下の裸地からヒゲナガハナバチが飛び出してくる。これは何をするということでもなく、あたりをブンブン飛び回っている。ほとんど着地することもない。この虫が出てくると、春だなあと思う。もっと小さなハナバチの一種らしいハチが、檜の若木の葉の上を多数飛び回っている。これは今年初めて気が付いた。檜の葉なんて、そもそも虫が好むような種類の葉ではない。葉上を多数の個体が飛んでいるので、何をしているのか、気になったが、ときどき留まって羽を休めるほかに、何かしている気配はない。

 この時期、私が探しているのは以前にも紹介したヨツキボシハムシである。なんだかわからないであろうが、ネットで調べたら、きれいな写真が出ている。鎌倉周辺には以前多産したが、ここ数年姿を見ていない。後翅がなくて、飛べないので、環境が悪化すれば、すぐにいなくなると思う。学生のころに、この虫がもっぱらウシハコベの群落の中を歩いているのを見ていたから、ウシハコベが食草であろうと推測した。ウシハコベを探してみるが、コハコベばかりで、ウシハコベは見つからない。

 鎌倉の家の近所では、連休ごろイタビカズラにイチモンジハムシが発生する。胸が黄色くて、あとは黒、その黄色の胸に横一文字に黒点が並ぶ。だからイチモンジなのであろう。私が子どものころには、近所でこの虫は見られなかった。いなかったのだと思う。もっと南の地方に住む虫という印象だった。今年は植木屋さんが頑張って、庭とその近くのイタビカズラをほぼ全部切ってしまったので、虫も行く当てがなさそうである。人から見れば雑草が生えた手入れの悪い土地だが、虫にとってはそこが世界である。周辺の小さな崖には、いたるところにイタビカズラが生えているから、虫はやがて新天地を探すであろう。

 4月の10日を過ぎると、下草が伸びだして、小さなハムシなどが採れるようになる。捕虫網で草を掬いながら歩くと、網にたくさんの虫が入る。スィーピングと呼ばれる採集法である。時に思わぬ珍品が取れることもあって、中高生のころはいつもこれをやっていた。ただしこの方法だと、取れた虫がどの草についていたのかがわからない。そのため最近はじっと座り込んで、草むらを見ていることが多くなったが、今度は目がよく見えなくなった。人生思うようにはいかない典型である。進歩も退歩もテキトーなところで止まる。いつまでも右肩上がりで行くわけはない。下がりっぱなしになりかけると、寿命が来る。

 今回は『方丈記』を扱おうと思って、関連の書物をまとめておいた。関連本をまとめてどこかに置いた。最近よくあることだが、それが見つからなくなった。自分が解説を書いたはずの『漫画方丈記』も見つからない。ずいぶん前に、経団連の雑誌に頼まれて、「新入社員に勧める一冊」ということで、『方丈記』を推薦したことがある。これから大企業というシステムに取り込まれて、その中で生きることになる若者たちに、およそ違う人生も昔からあるよ、という余計なお世話をしたわけだが、効果のほどは知らない。数年前に京都の下鴨神社で、建築家の隈研吾が設計した現代の方丈の庵の前で、隈さんと対談をした覚えがある。何を話したか、すっかり忘れてしまった。

『方丈記』は災害とともに思い出される文学である。コロナのおかげで関連の本がいくつか出た。『漫画方丈記』もそうだし、大原扁理『フツーに方丈記』(百万年書房)もそう。初めて私が災害との関連で知ったのは堀田善衛の『方丈記私記』だった。こちらは戦災との関連だが、東北の大震災との関連では、玄侑宗久さんの『無常という力-「方丈記」に学ぶ心の在り方-』もあったと思う。

 次の大災害は、2038年ごろに予想されている東南海地震だが、本当に38年なら、私は101歳、地震など知ったことではないという年齢である。すでにこの世からいなくなっている確率のほうが高い。地震についていえば、地球が活動期に入っているということで、鴨長明の時代と似ている。南半球ではインドネシアが日本と似た状況にあって、スマトラ沖の大地震と東北の震災が呼応している。そのあと、ジャワ島で噴火があったりして、ジャカルタの公害問題もあるだろうが、インドネシア政府はボルネオへの首都移転を実行しつつある。日本では東南海地震そのものへの対処が話題になるだけで、その後の復興についてあまり議論を聞くことがない。地震による災害の規模が不明で、副次的な噴火まで含めると、具体的に考えようがない、起こってから考えるということになっているのだろうと思う。私自身は箱根に昆虫の標本をすべて置いてあるが、学術的に重要な保存義務がある標本は大学に移してあるから、何が起きても知ったことではないというのが本音である。東南海地震に伴って、富士山の噴火や大涌谷の噴火が起こっても、手の打ちようがない。そもそも天災というのは、そういうものであろう。

「ああすれば、こうなる」つまりシミュレーションを金科玉条として生きている現代人には、天災くらいたちが悪いものはなかろう。ああするも、こうするも、すべてはあなた任せ、結果を受け入れるしかない。わずかにわかっているのは38年ごろに東南海地震が来ることで、数年のズレはもちろんあり得る。それももはや余裕は20年足らずしかないわけで、仮に震災を無事に切り抜けたとして、そのあとをどうするというシミュレーションはいかがであろうか。日本列島の太平洋沿岸部が広く被害を受けることになるので、素人が予想しようにも、範囲が広すぎて呆然となるしかない。復興のためには莫大な資金が必要となるはずだが、それをどこから調達するのか。いわゆる先進国はいずれもデフレ気味の財政難で、多分その時にお金を出す余裕があるのは中国だけということになる可能性も高い。無人の尖閣列島がどうのと議論しているより、来ることが確実な災害対策に目を向けるほうが急務であろう。

 次の復興では、国民がどのような生き方を選ぶかが問題となろう。これまでのように、大都市一極集中は人気がなくなると思うが、地域でより自給自足に近い形が取れるかどうか、そういう気持ちを持つ人が多数派になるかどうかが日本人と日本社会の未来を決めるであろう。少なくとも現在の少子化はその辺で止まることを期待したい。

 日常の生き方としては、これまでのような高エネルギー消費、使い捨て型の文明から離脱して、毛沢東ではないが、自力更生型、地域で自給する文明に変わってもらいたいと考える。こうした先行きの見方をどうするか、それを持つか持たないかは、復興資金を借りる際の借りる相手の選択にも関係が出てくる。これまでのアメリカ型社会の考え方を延長するだけだと、いわゆる国際金融資本の下請けを相変わらず務めることになろうし、気持ちの上では、天災でへたばった状態に違いないから、背に腹は代えられないということになって、誰かの言うとおりにしたほうが楽だという結果になるに違いない。

 柄にもなく、場所がらもわきまえず、天下国家の未来を論じてしまったが、『方丈記』から思い起こすことと、それほどずれているわけではない。鴨長明の時代は、長明自身は触れていないが、源平の争乱の時代であった。鴨長明はおそらく意図的にそれに触れずに方丈庵での個人の生き方を記した。未来世界の中で日本だけが「方丈の庵」を組み、そこに暮らすことができるだろうか。

 正解はもちろんわからないが、そうするしかないだろうというのが、とりあえずの私の結論である。鴨長明は当時の常識に反して自己の生き方を貫いた。その利害得失、善悪を論じれば際限がなかろう。現代の日本人についていうなら、要はどう決意するか否かである。日本社会の存亡はそこにかかっていると言っても過言ではあるまい。